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令嬢は潮路を渡る——この海で生き続けるために  作者: 夜凪 蒼


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第2話 瀬都内海の掟

船が揺れている。

 生まれて初めて——いや、千尋としては初めてではない。しまなみ海道の渡し船には乗ったことがある。でもあれはエンジン付きのフェリーで、甲板にベンチがあって、スマートフォンで写真を撮りながら乗るものだった。

 今わたしの足の下にあるのは、木の板だ。

 船体が波を越えるたびに、板が軋む。足の裏に伝わる振動が、フェリーとはまるで違う。木と海が直に触れ合っている感触。船の底板一枚の向こうが、もう海だ。


 鷲羽家の持ち船は、帆を一枚張った中型の和船だった。船首に鷲羽家の家紋が描かれた旗が翻っている。漕ぎ手が4人、舵取りが1人。それと千歳、護衛の家臣が2人、そしてわたし。

 甲板——というほど広くはない。板張りの座席に薄い座布団が敷いてあって、日よけの幕が張ってある。千歳がわたしの隣に座り、家臣たちは船尾にいる。

 朝餉のあと、身支度を整えて鷲羽の港から出た。千歳が用意してくれた旅装は、普段の着物より動きやすい。はかまを履くのはこの体では初めてだったが、瀬名の体が着慣れているのか、帯の結び方が手に馴染んだ。


 港を出て間もなく、船首に立っていた男が何かを始めた。

 竿の先に布を結びつけている。赤い地に白い紋章が染め抜かれた、小さな旗。男はそれを船の舳先へさきに高く掲げた。風を受けて、旗がはためく。

 「千歳。あれは」

 「過所旗かしょきでございます」

 千歳が当然のように答えた。

 「瀬都内海を渡る船は、すべてこの旗を掲げなければなりません。海守衆うみもりしゅうが発行する通行の証でございます」

 海守衆。

 ゲームで「海賊」として出てきた連中だ。モブ敵として1イベントに登場しただけの、ほとんど印象のない存在。でも千歳の口ぶりでは、まるで公的な制度の管理者のように聞こえる。


 「あの旗がないと、この海は渡れないのですか」

 千歳ではなく、船首の男が振り返った。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。腕に紋章の入墨いれずみがあった。波を円で囲んだような意匠。

 「旗なしで渡ろうとした船は、過去100年で73隻沈みました」

 淡々とした声だった。脅しているのではない。事実を述べているだけの口調。

 「潮を読めぬ者が瀬都内海に出れば、死にます。來嶋ノ瀬戸の急流、鷲羽沖の渦潮、関門ノ瀬戸の横波。この海には牙がある」

 ——この人、海守衆だ。

 入墨の紋章がそれを示している。鷲羽家の船に海守衆の人間が同乗している。ゲームでは貴族と海賊は敵対していたはずなのに。

 「水先案内みずさきあんないをお務めの方です」と千歳が小声で教えてくれた。「過所旗を掲げた船には、海守衆から水先案内が一人つきます。航路の案内と、安全の保証を」

 インフラだ。

 建築学科の頭が勝手に翻訳した。過所旗は通行証で、海守衆は通行料と引き換えに水先案内と安全保障を提供する。道路でいえば有料道路の料金所とパトロールを兼ねたようなものだ。

 海賊じゃない。海のインフラを管理している人たちだ。

 ゲームでは、その一面だけが「海賊」として描かれていたということか。


         *


 船が島々のあいだを進んでいく。

 水先案内の男——名は聞いていないが、千歳は「案内衆あないしゅう」と呼んでいた——が、舵取りに向かって短い指示を出している。「二つ右」「潮、変わるぞ」「あの島影に寄れ」。声は低く、無駄がない。

 その指示の通りに船が動くと、波の当たり方が変わる。さっきまでがたがた揺れていたのが、ふっと滑らかになる。

 ——潮の流れに乗ったんだ。

 流体力学の授業で習った。流れの中に最も抵抗の少ない経路がある。この人はそれを体で知っている。計算ではなく、経験と感覚で。


 島が近づいてくるたびに、景色が変わった。

 左手に低い島。松が茂っていて、岩場に白い波が砕けている。右手に、もっと大きな島。斜面に段々の畑が見える。柑橘か何かの木が整然と並んでいて、緑の中に黄色い実がちらちら光っている。

 島と島のあいだの海峡に入ると、潮の流れが変わった。船が急に押されるように加速して、漕ぎ手たちがかいを上げた。漕がなくても船が進んでいる。潮流に乗っているのだ。

 「鷲羽の沖は穏やかでございますが」千歳が言った。「ここから先、鞆ノ津までの水道は少し流れが強うございます。案内衆がおりますので、ご心配には及びません」

 千歳の声が、妙に遠い。

 わたしは甲板の縁に手をかけて、海を見ていた。


 島の緑が水面に映っている。空の青が映っている。雲が映っている。

 父母ヶ浜の水鏡とは違う。あれは静止した鏡だった。こっちは動いている。波が光を砕いて、島影が揺れて、帆の白が水面にちらちらと散る。止まらない鏡。生きている鏡。

 前世で7日間、陸から見ていた瀬戸内海を——今、海の上から見ている。

 同じ海だ。同じ島々。同じ潮の匂い。でも視点が変わると、全部が違う。陸からは穏やかに見えていた海が、船の上では生き物みたいに動いている。


         *


 船旅のあいだに、千歳からいくつかのことを聞き出した。

 「復習」のふりをして。「最近ぼんやりしていて、すみません」と前置きすると、千歳は嫌な顔一つせずに教えてくれた。


 七家は瀬都内海の沿岸を分割統治している。それぞれが領地を持ち、交易と農漁業で富を築いている。七家の上に嚴島の國主家がいて、七家の争いを調停し、海祭りを主催し、瀬都内海全体の秩序を保つ——建前上は。

 「建前上は?」

 千歳の目が一瞬鋭くなった。すぐに元の穏やかな表情に戻る。

 「七家のあいだには、表に出ない駆け引きがございます。鷲羽家が筆頭であるのは、この高台と交易路を押さえているからでございますが、近年は高松家が力をつけておいでです。國主家との縁が深うございまして」

 ——高松家が國主家に近い。そして鷲羽家の瀬名は國主家の世子の許嫁。

 つまり鷲羽家と高松家は、國主家をめぐって競合している。瀬名の縁談は、政治的な意味がある。

 「牛窓うしまど家は異国との交易で独自路線でございます。小豆島あずきしま家は塩と食料の生産で堅実に。竹原たけはら家は酒と塩田で」

 千歳が七家の名前を挙げていく。ゲームでは七家の名前がテキストに出てくるだけで、個々の特徴まではほとんど描かれていなかった。1周しかしていないから見落としたのかもしれないけれど、この情報量は1周で拾えるものじゃない。

 「残りの2家は」

 「志度しど家と、粟島あわしま家でございます。いずれも小さな家で、近年は鷲羽家か高松家の後ろ盾なしには立ち行かぬご様子」

 七家のうち、独立して動けるのは上位の5家。下位の2家は大きな家に寄りかかっている。全員が対等ではない。

 ——ゲームより、ずっと複雑だ。


 「あの……海守衆は、七家とはどういう関係なのですか」

 これは「復習」では済まない質問かもしれなかった。でも千歳は少し考えてから、丁寧に答えてくれた。

 「海守衆は七家にも國主家にも属さない独立した勢力でございます。過所旗を発行し、水先案内を出し、海の安全を守る代わりに、通行料を得ております。七家も國主家も、海守衆の許しなしには船を出せません」

 ——七家の上に國主家がいて、海守衆はそのどちらにも属さずに、海の支配権を握っている。

 陸は七家と國主家が押さえ、海は海守衆が押さえている。二重の権力構造だ。

 ゲームでは海守衆が「海賊」として敵に回る1イベントがあっただけ。こんな巨大な勢力だとは、まるで描かれていない。


 船首の案内衆が、短く声を上げた。

 「鞆ノ津、見えたぞ」


         *


 港が見えた瞬間、息を呑んだ。


 常夜燈だ。

 港の入口に、石の燈籠がそびえている。高さは3メートルほど。周囲に石段の雁木が放射状に広がって、潮の満ち引きに応じてどの高さでも船が着けられるようになっている。

 ——同じだ。

 鞆の浦の常夜燈と、同じだ。石の積み方。燈籠の形。雁木の勾配。前世で測って、スケッチして、写真を撮ったあの構造物が、目の前にある。

 でも、違うものがない。

 電線がない。アスファルトがない。自動車がない。自動販売機がない。ガードレールがない。観光客向けの看板がない。コンビニの灯りがない。

 前世で見た鞆の浦から、近代以降に加わったものを全部剥がしたら——こうなる。

 港の敷石の上を裸足の子どもが走っている。荷を背負った女性が石段を降りてくる。天秤棒で魚を運ぶ男。軒先に干し魚が吊るされた家屋が並んでいて、その隙間から坂道が上に伸びている。

 潮の匂い。魚の匂い。そして——甘い、薬草のような香り。

 「千歳。あの匂いは」

 「保命酒ほうめいしゅでございますよ。鞆ノ津の名物でございます。もち米と薬草で醸す滋養の酒で」

 保命酒。

 前世の鞆の浦にもあった。観光土産として買ったことがある。瓶に入った甘い薬酒。あのときは「変わった味だな」としか思わなかったけれど、ここでは——港全体が、あの香りに包まれている。


 船が雁木に寄せられ、漕ぎ手がもやい綱を石の鼻に結んだ。案内衆が無言で過所旗を降ろし、丁寧に畳んで布袋にしまう。

 石段に足を下ろした。

 石の表面が、足の裏にざらりと触れる。潮に濡れた石特有の、滑らかさと粗さが入り混じった感触。

 鞆の浦の雁木と、同じ感触だ。

 前世で裸足になって降りた、あの石段と同じだ。


 港を見渡した。

 商船が何隻も並んで停泊している。大きな荷船から、漁に使う小さな舟まで。そのすべてに、過所旗が掲げられている——いや、降ろされている。入港したら旗を降ろすのだろう。案内衆がそうしたように。

 船の合間を、小舟が忙しく行き交っている。荷を運ぶ小舟。人を運ぶ小舟。その中に一隻、旗を掲げたまま港に入ってくる船がある。旗の紋章が、案内衆の入墨と同じだ。

 ——海守衆の船。

 この港にも、海守衆がいる。


 港の奥に市場があるらしく、人の声がざわめいている。千歳が「こちらへ」と先導してくれる。

 歩きながら、街並みを見た。板壁の家屋が並んでいる。2階建て、3階建て。瓦屋根に白壁。軒の低い通りを曲がると、急に視界が開けて海が見えた。坂の上から見下ろす港。

 前世の鞆の浦と同じ——坂と海と港が折り重なる空間構成。風待ちの港町が持つ、あの独特の密度。

 建築学科の血が、また騒いでいる。この街の構造を分析したい。どの建物がいつの時代のもので、なぜこの場所に建っているのか。風と潮と地形がどう建築を規定しているのか。

 ——でも今は、それより大事なことがある。


 「千歳。世子殿下からのお届け物は、どちらで受け取るのですか」

 「鞆ノ津の問屋場といやばでございます。港の奥に」

 「……それとは別に、この港で一つ、寄りたいところがあります」

 千歳が軽く首をかしげた。

 「どちらに」

 わたしは港を見渡した。どこかにいるはずだ。ゲームのヒロイン。潮に関係する名前の、薬師の娘。保命酒の香りが漂うこの港のどこかに。

 「薬師の店を探しています。保命酒を扱っている——汐、という名前の」

 千歳の目が、少し動いた。

 「汐音堂しおねどうのことでございましょうか。港の常夜燈のすぐ裏手に」

 汐音しおね

 ——そうだ。その名前だ。


 常夜燈の方を振り返った。

 石の燈籠の向こうに、小さな店の暖簾のれんが風に揺れている。

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