第1話 鷲羽の姫
潮の匂いで目が覚めた。
父母ヶ浜の潮とは違う。もっと濃くて、生々しくて、干した魚と木材と潮風が混じったような——港の匂い。
白い蚊帳が吊られていて、朝の光が絹越しにぼんやりと届いている。布団は重かった。現代の羽毛布団とは全然違う、ずっしりとした綿の重さが体の上に乗っている。い草のような香りが鼻をかすめる。
——わたしの布団じゃない。
体を起こそうとして、腕に力が入らなかった。筋力が足りない。7日間毎日2万歩歩いた足の疲労も、右手の小指の黒鉛の汚れもない。代わりに、やけに白くて細い指が目に入る。爪がきれいに整えられていて、自然な艶がある。
蚊帳をくぐって、布団から這い出した。足の裏に冷たい板の感触。フローリングではない。磨き上げられた木の床で、素足で踏むと木目の凹凸がわずかに指に触れる。
部屋が広い。わたしのワンルームの4倍はある。壁に掛け軸がかかり、床の間に花が活けてある。障子の向こうから朝の光が漏れている。
——和室?
いや、和室に似ているけれど、細部が違う。建具の組み方が、わたしの知っている和建築の様式と微妙にずれている。蝶番の金具に見たことのない紋様が彫られているし、床の間の柱の模様は日本のどの流派とも一致しない。
建築学科の目が勝手に動いてしまう。でも今はそれどころじゃない。
部屋の隅に衝立があって、その脇に鏡台が置いてあった。
鏡の前に座る。
知らない顔が映っている。
黒い髪。白い肌。輪郭はわたしに似ているけれど、もっと整っている。唇の形が違う。鼻筋が少し通りすぎている。
そして、目の色。
——藍。
水鏡の中の、あの少女と同じ色だ。海の底みたいに深くて暗い藍色が、鏡の中からわたしを見返している。
声が出なかった。出そうとしたけれど、喉がうまく動かない。この喉もわたしのものじゃない——いや、そういう問題じゃない。何が起きているのか、理解が追いつかない。
水鏡。帆船。藍色の目の少女。落下。色の中を落ちて、砂の感触が消えて——
「瀬名お嬢様」
障子の向こうから声がした。女性の声。落ち着いた、慣れた呼びかけ方。
「朝餉の支度ができております」
瀬名。
その名前に、鏡の中の顔が反応した。わたしが動かしたのではない。頬のあたりの筋肉が、聞き慣れた名前に反射的に引かれた——ような感覚がある。
この体が知っている名前だ。
「……少し、待ってください」
出てきた声は、わたしのものではなかった。もっと高くて、硬くて、どこか冷たい。お嬢様の声だ、と思った。自分で出した声なのに、他人の声みたいに耳に届く。
障子の向こうの気配が、静かに待っている。
——落ち着け。
深呼吸した。潮の匂いが肺に入ってくる。
わからないことだらけだ。でも、わかることが3つある。わたしの体じゃないこと。ここはわたしの知っている世界じゃないこと。そしてこの体の持ち主の名前が「瀬名」であること。
鏡の中の藍色の目を、もう一度見た。
——とりあえず、ご飯を食べよう。空腹は、こっちの体のものらしい。
*
朝餉の席で、いくつかのことがわかった。
侍女の名前は千歳。40代くらいの、姿勢のいい女性で、瀬名に長く仕えているらしい。何も言わなくても次の所作を先回りしてくれる。箸の持ち方が微妙に違ったのを咄嗟に直したのは、たぶん気づかれた。でも千歳は何も言わなかった。
食事の中身も情報になる。白飯、焼き魚、漬物、味噌汁。米の品種こそ違うけれど、食器も箸の文化も日本に近い。魚は鯛だった。身が厚くて脂がのっている。瀬戸内の鯛だ。味覚までこの体のものらしく、舌が「いつもの朝餉」として受け入れている。
「千歳さん」
呼びかけると、侍女の眉がほんの一瞬動いた。普段は「さん」をつけないのかもしれない。
「……千歳」
言い直した。この体に馴染むように。
「今日のご予定は」
自分の予定を侍女に聞くのは不自然だろうか。でも千歳は表情を変えずに答えた。
「午前に御父上様へのご挨拶。午後は刺繍のお稽古、その後は書の時間でございます。それと、明日は鞆ノ津へ使いの船が出ます。世子殿下からのお届け物を受け取りに」
御父上。鞆ノ津。世子殿下。
単語の一つ一つが、頭の中で引っかかる。どこかで聞いたことがある。でも、どこで——
食事を終えて千歳に案内されたのは、2階の広間だった。
この建物は高台に建っている。階段を登るあいだ、窓の外の景色が少しずつ開けて、木々の梢の向こうに青いものが見えた。
広間の障子を開けた瞬間、足が止まった。
島が、浮いている。
朝靄の中に、大小の島影が数えきれないほど点在している。海は灰色がかった青で、靄が島の裾を隠しているから、島が空中に浮かんでいるように見えた。手前の島は濃い緑。奥へいくほど靄に溶けて、輪郭だけが薄墨で描かれたように残っている。
島と島のあいだを、白い帆がゆっくり動いている。1隻、2隻——数え始めて、やめた。何十という帆船が、海の上に散らばっている。
瀬戸内だ。
7日間歩いた、あの海。亀老山から見た来島海峡の島並び。鷲羽山から見た備讃瀬戸の多島美。島々の配置が——同じだ。あの細長い島は本島。奥に霞んでいるのは讃岐の山並み。
でも、瀬戸大橋がない。
あるべき場所に、橋がない。3つの巨大なタワーと吊りケーブルが空を横切っているはずの場所に——何もない。帆船だけが、島々のあいだを行き交っている。
「……ここ」
声が震えた。
「ここは、どこですか」
千歳が怪訝そうに振り返る。当然だ。自分の家で「ここはどこ」と聞くお嬢様がいるわけがない。
「——夢見が悪くて。少し、ぼんやりしています」
咄嗟に取り繕う。千歳の表情が少し和らいだ。
「鷲羽のお館でございますよ、お嬢様。鷲羽家のお館。瀬都内海を一望できる、七家随一の高台にございます」
瀬都内海。
七家。
頭の中で、何かが弾けた。
知っている。その言葉を、知っている。瀬戸内海じゃない。瀬都内海。乙女ゲームの——
友人の美桜に無理やりプレイさせられたスマホゲームの名前が、いきなり蘇った。
『潮騒のセレナーデ』。
架空の内海を舞台にした乙女ゲーム。瀬戸内海に似た世界で、七つの貴族の家が連合統治していて、海賊みたいな連中が出てきて——1周しかしてない。美桜が「絶対泣けるから」と言うから付き合っただけで、攻略対象より世界設定の方が気になるタイプのわたしは、建物の背景画像ばかりスクリーンショットを撮っていた。
七家。瀬都内海。鷲羽。
鷲羽家は、ゲームの中の——七家の筆頭。瀬都内海を見下ろす高台に本拠を構える、最も古い貴族の家。
そしてその一人娘の名前は——
鏡の前に戻った。
藍色の瞳がわたしを見ている。
瀬名。
鷲羽家のお嬢様。國主家の世子の許嫁。ゲームの中でヒロインをいじめ抜いて、最後にみんなの前で裁かれる——悪役令嬢。
膝が震えた。鏡台の縁に手をついて、なんとか体を支えた。
——嘘でしょ。
1周しかしてない。攻略対象の名前も全員は思い出せない。國主家の世子——ゲームでは王子ポジの攻略対象がいたのは覚えている。海賊の頭領みたいな男もいた気がする。ヒロインの名前は——潮に関係する名前だった。汐、とか。
裁きの詳細は覚えていない。どこで、いつ、何がきっかけで裁かれるのか。「島流し」になるとかいう結末だったのは、美桜が「バッドエンドえぐくない?」と言っていたから、それだけ覚えている。
「島流し」。ゲームではそれが何を意味するのかよくわからなかったけれど、この世界で「島流し」は——たぶん、海を渡れなくなるということだ。
窓の外に目を向けた。
帆船が行き交う瀬都内海。ゲームの画面で見たよりずっと広くて、ずっと生きている。潮の匂い。波の音。島の緑。ゲームの背景画像とは比べものにならない情報量が、五感を通して流れ込んでくる。
ゲームでは描かれていなかったものが多すぎる。
あの帆船に旗が掲げられている。赤い旗だ。ゲームにそんな描写はなかった。島と島のあいだの海峡を、何隻もの船が列をなして通っている。あれは何だろう。通行制度のようなものがあるのか。
——このゲーム、わたしがプレイしたものとは違う部分がある。
いや。
もしかしたら、ゲームの方が「切り取られた不完全なコピー」で、こっちが本物なのかもしれない。
*
広間に戻って、千歳に頼んで書斎の地図を持ってきてもらった。「少し調べものがしたい」と言ったら、千歳は不審がりもせずに「お嬢様は昔からお調べものがお好きでいらっしゃいますね」と答えた。瀬名は本来、知的好奇心のある人間なのかもしれない。ゲームでは悪役としてしか描かれなかっただけで。
地図は巻物だった。和紙に墨で描かれた瀬都内海の全図。
広げた瞬間、建築学科の血が騒いだ。
島の配置が瀬戸内海とほぼ一致している。本島、讃岐、周防、安芸——名前こそ違うが、地形の輪郭は同じだ。海峡の位置も、潮流の矢印も、港の印も。
ただし、縮尺の感覚が現代の地図とは違う。航路が太く描かれていて、島と島の距離よりも「船でどう渡るか」に重点が置かれている。陸の地図ではない。海の道の地図だ。
地名を一つずつ拾っていく。
鷲羽。鞆ノ津。尾ノ道。來嶋ノ瀬戸。嚴島。
——知ってる名前がある。鞆ノ津は鞆の浦、尾ノ道は尾道、來嶋ノ瀬戸は来島海峡。前世の7日間で歩いた場所だ。行けなかった場所の方がずっと多い。嚴島も高松も小豆島も、名前だけ知っていて足を運べなかった。
でもゲームでは見た。地図はもっと簡略化されていたけれど、島の配置は重なる。
地図の端に、七家の家紋と領地が記されていた。
鷲羽家、筆頭。次いで高松家、小豆島家、牛窓家、竹原家——残りの2つは地図の端が擦れていて読めない。
そしてもう一つ。地図の余白に、墨で消された痕跡がある。
何かの家紋が意図的に塗り潰されている。
——何だろう、これ。
気になったが、今はもっと緊急なことがある。
ゲームの裁きまで、どれくらい時間があるのか。
ゲームでは「海祭り」の日に裁きが起きた。海祭りは——確か、年に一度の大きな祭り。時期は……思い出せない。
「千歳。今年の海祭りは、いつですか」
「来年の春でございますよ。嚴島の大祭は毎年、桜の頃に」
来年の春。今がいつなのか——千歳に聞くのは不自然だから、窓の外の木々を見た。葉が青い。風は温かい。初夏か、夏の始まりだろう。
ざっと1年。
1年後。ゲーム通りなら、わたしはみんなの前で裁かれる。
心臓がうるさい。瀬名の体の心臓が、わたしの恐怖に反応して暴れている。
——落ち着け。
卒論のフィールドワークの前にも、こういうパニックはあった。未知の土地に一人で乗り込む前夜の不安。あのときどうしたか。やることをリストにした。1つずつ、潰していった。
今も同じだ。
やることをリストにする。
1つ。裁きの詳細を思い出す。思い出せないなら、この世界の情報から推測する。
2つ。ゲームの知識がどこまで使えるか確認する。一致している部分と、ズレている部分を洗い出す。
3つ。味方になりうる人間を見つける。ゲームのヒロインは——たしか鞆ノ津の出身だった。
鞆ノ津。
明日、使いの船が出ると千歳が言っていた。世子殿下からのお届け物を受け取りに。
前世で歩いた鞆の浦。常夜燈。雁木の石段。潮待ちの港。あの港が、この世界にもある。
そしてゲームのヒロイン——汐、なんとか——も、そこにいるはずだ。
「千歳」
声が、さっきよりしっかり出た。
「明日の鞆ノ津。わたしも行きます」
千歳が目を丸くした。
「お嬢様が直接、でございますか。使いの者に任せれば——」
「わたしが行く」
窓の外に目を向けた。帆船が朝の海を渡っていく。島と島のあいだを縫うように、白い帆が光に揺れている。
ゲームの知識は頼りない。1周しかしていない。攻略対象の名前すら全員は思い出せない。裁きの条件も、回避の方法もわからない。
でも、この海だけは知っている。
7日間、歩いた海だ。
瀬名の藍色の目に映る瀬都内海は、千尋の茶色い目で見た瀬戸内海と——同じ光を湛えている。
この海を、渡る。




