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令嬢は潮路を渡る——この海で生き続けるために  作者: 夜凪 蒼


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プロローグ 天空の鏡

砂が、冷たい。

 3月の父母ヶ浜は、裸足で歩くには早い季節だった。バスを降りてサンダルを脱いだ瞬間、足の裏から冷気が這い上がってきて、思わず息を止めた。ざらつく砂粒の一つ一つが、指の腹に食い込んでくる。

 それでも靴を履き直す気にはなれなかった。


 7日間の一人旅の、最後の場所だ。

 卒論のフィールドワークで瀬戸内を回った。鞆の浦、尾道、しまなみ海道。港町の風待ち建築を測って、スケッチして、写真を撮って。ノートパソコンには画像がもう何枚あるかわからないし、鉛筆のスケッチは数えるのをやめた。右手の小指の側面が黒鉛で汚れたまま、7日目を迎えている。

 父母ヶ浜は卒論と関係ない。建築も港もない。ただの砂浜だ。

 ——ただの砂浜を見に来るために、バスを2本乗り継いだ。我ながらどうかしている。


 駐車場の脇のカフェでアイスコーヒーを頼んで、テラス席に座った。干潮は17時42分、日没は18時11分。あと2時間ほど。ノートパソコンを開いて写真の整理でもしようかと思ったが、1枚目で手が止まった。

 鞆のとものうら常夜燈じょうやとうが映っている。

 港の真ん中にどっしり据えられた石の燈籠とうろう雁木がんぎの石段を降りると、足元まで潮が満ちてくる。對潮楼たいちょうろうのテラスから見た仙酔島せんすいじま。あの港は——建築学科のレポート用に言えば「滞在を前提にした空間設計」で、もっと正直に言えば、ただ待つための場所だった。潮を待ち、風を待ち、人を待つ。待っている時間そのものに居場所がある港。

 次の写真は尾道。千光寺の石段を見下ろす猫が、勝手にフレームに入り込んでいる。境内から尾道水道を見下ろすと、渡し船がゆっくり航跡を引いていた。坂の上から海が見える。その当たり前のことが、旅の3日目にしてようやく体に馴染んだ日のことを覚えている。

 その次。亀老山展望台からの来島海峡。しまなみ海道の橋脚の下を、白い渦が流れている。展望台の柵に掴まりながら、ずっと見ていた。あの潮流を、昔の人は木の船で渡った。エンジンもGPSもなしに。

 ——何を見ていたんだろう、わたしは。

 7日間、港の建築を見に来たはずだった。石積みの工法、雁木の勾配、風待ち建築の空間構成。卒論に使える資料はたっぷり集めた。でも写真をスクロールする指が止まるのは建築の写真じゃなくて、海の写真ばかりだ。島と島のあいだに朝の光が落ちている写真。夕暮れの港に常夜燈が一つだけ灯った写真。鞆の浦の石段に座って、ぼうっと海を撮っただけの、ぼけた写真。

 卒論のテーマに瀬戸内海を選んだのは、たぶん口実だ。

 ここに来たかった。この海のそばにいたい。理由は言えない。建築学科の分析癖をもってしても、自分のこの衝動だけは分解できない。


 ノートパソコンを閉じた。

 アイスコーヒーの氷が溶けて、グラスの外側に水滴がついている。指でなぞると、冷たい筋が一本できた。


         *


 17時を過ぎて、潮が引き始めた。


 父母ヶ浜は遠浅の砂浜で、干潮になると海が500メートルも後退する。残された海水が砂浜のくぼみに薄く広がって、足首にも届かない水の膜を作る。

 そこに、空が降りてくる。


 サンダルを手に提げて砂浜に出た。さっきより砂の温度が下がっている。足を踏み出すたびに砂の下から水が滲んで、つま先を冷たく舐めていく。

 西の空の色が変わり始めていた。水平線に近いところが橙に染まって、その上に山吹、さらに薄紅が重なっている。頭の真上にはまだ青が残っていて、振り返ると東の空にうっすら藍が滲んでいる。

 その全部が、足元に映っている。

 上を見ても空。下を見ても空。水平線がどこにあるのか、わからなくなる。


 瀬戸の夕凪。昼の海風が止まり、夜の陸風がまだ吹かない、あいだの20分か30分。水面から波が消えて、砂浜の水たまりが一枚の鏡に変わる。

 10人ほどの観光客が散らばっていて、みんなスマートフォンを空に向けたり水面に向けたりしている。「ウユニ塩湖みたい」と誰かが笑う声が、やけに遠い。

 スマートフォンはポケットに入れたまま歩いた。

 この景色を画面の中に閉じ込めたくなかった。


 浜の奥の方まで来ると、人の気配が消える。わたしと、水鏡と、空だけになった。

 しゃがみ込んで、水面を覗く。

 建築学科の癖が出る。水の層は厚さ5ミリから1センチ程度。下に灰色の砂があって、表面張力で均されてほぼ完全な平面を作っている。だから鏡になる。原理はそれだけだ。

 ——原理はそれだけなのに、目の前の光景がまるで理屈に収まらない。

 空が2枚ある。上の空は遠い。下の空は、手を伸ばせば届く。水面の雲に指先で触れると波紋が広がって空が歪んだ。指を離す。波紋が消えて、雲が元に戻る。

 自分の顔が映っている。

 日焼け止めを塗り忘れた鼻の頭が赤い。7日間歩き続けて、頬の線が少し鋭くなった気がする。風で乱れた髪を耳にかけ直すと、水鏡の中のわたしも同じ仕草をした。

 目が合う。

 自分の目と。水鏡の中の、自分の目と。

 ——7日前とは違う目をしている。何が変わったのかはわからない。でも、この海がわたしの中に入ってきた。潮の匂いが肺の奥に棲みついて、島々の稜線が瞼の裏に焼きついて、もう取れない。もう離れたくない。


 水鏡が、揺れた。

 風はない。わたしも動いていない。

 なのに、水面が——ほんの一瞬、震えた。


         *


 映っているものが、変わっていた。


 わたしの背後の空に、影がある。三角形の、大きな影。白い布が夕風をはらんで膨らんでいる。

 帆だ。

 振り返った。

 何もない。夕空と、遠くの島影と、潮が引いた砂浜。観光客の笑い声がかすかに聞こえるだけで、帆船なんてどこにもない。


 足元に視線を落とす。

 ある。

 水鏡の中に、一本マストの小さな帆船が浮かんでいる。夕空を背にして、帆に何かの紋章が染め抜かれているが逆光で読めない。

 蜃気楼——と思おうとした。7日間の疲労と夕日の屈折が見せる、光学的な錯覚。建築学科なら説明がつくはず。

 船が、動いた。

 水鏡の中で、こちらに向かって。水面には波一つ立っていないのに、船は帆をはらんで進んでくる。舳先から白い航跡が伸びていく。水鏡の中だけに。


 舳先に人が立っていた。

 逆光のシルエット。小柄で、長い髪が風になびいている。船が近づくにつれて輪郭に色がつき始める。黒い髪。白い肌。わたしと同じくらいの背丈。

 こちらを、見ている。


 距離が縮まる。水鏡の中で。

 10メートル。5メートル。舳先がわたしの足元に迫る。

 少女の顔が見えた。

 ——わたしの、顔だ。

 同じ輪郭。同じ鼻筋。同じ唇のかたち。髪も同じ黒。でも瞳の色が違う。わたしの目は茶色い。この子の目は——藍だ。深くて暗い、海の底みたいな藍色。

 その目がまっすぐにわたしを見つめている。


 口が動いた。

 水面の向こうの少女が、何か言っている。声は届かない。水の膜一枚が、こちら側とあちら側を隔てている。

 唇の動きを読もうとした。「よう、やく」——


 足の裏から、砂の感触が消えた。


 砕けた、のではない。支えていた水の膜が底を失う。5ミリの水深が5メートルになり、50メートルになり、底という概念ごと消える。


 落ちている。

 水の中ではない。色の中を落ちている。

 青。群青。藍。紺。

 色が深くなるたびに体が軽くなった。恐怖がない。不思議なほど。冷たさもない。重力の感覚だけが残っていて、それすら薄れていく。

 建築学科の分析癖が最後にもがいた。この落下速度は——この色相の変化率は——体感温度の勾配は——

 何一つ、計算できない。

 数式が届かない場所に、わたしは落ちている。


 意識が遠い。瞼が重い。

 最後に聞こえたのは、声だった。水鏡の向こうの少女の声。低くて、静かで——長いあいだ誰かを待ち続けた人の声。


「——ようやく、来た」

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