第5話 五色岩の芸術家
翌朝、雨は上がっていた。
障子を開けると、洗い流されたような空が広がっている。雲は残っているが高くて薄くて、隙間から朝の光が海に落ちている。昨日灰色に沈んでいた仙酔島が、緑を取り戻して浮かんでいた。
港に出ると、汐音がもう待っていた。昨日と同じ前掛け姿で、背中に風呂敷包みを背負っている。保命酒を届けに行くのだから、荷があるのは当然か。
「瀬名さん、おはようございます。いいお天気になりましたね」
笑顔。三日月の目。この人は会うたびに笑っている。
千歳と護衛の家臣には、港で待っていてもらうことにした。
「お嬢様だけで島に渡られるのは——」と千歳が眉を寄せたが、汐音が「わたしが案内しますので、大丈夫ですよ」と請け合った。千歳は汐音の顔をしばらく見つめてから、小さく頷いた。
——信用したのか、それとも汐音の芯の強さを感じ取ったのか。どちらにせよ千歳の判断は正しいと思う。この人は簡単に崩れない。
仙酔島へは、港の雁木から小舟で渡る。
漕ぎ手は汐音が頼んだ漁師の老人で、無口だが腕は確かだった。櫂を水に入れるたびに舟が滑るように進んで、波の合間を縫うように島に近づいていく。
海が近い。
鷲羽からの船旅でも海の上にはいたが、あれは中型の和船で甲板があった。この小舟は水面まで手が届く。波が舷を叩くと飛沫が腕にかかって、潮の塩気が肌に残る。
「あの岩、見えますか」
汐音が島の方を指した。
島の東側の海岸線に、色が違う岩が露出している。遠目にもはっきりわかる。灰色の断崖の中に、赤みがかった岩肌が一帯だけ広がっている。
「五色岩です。もう少し近づくと、全部の色が見えますよ」
*
小舟が島の浜に着いた。
砂ではなく小石の浜で、降りると足の裏にごろごろとした感触がある。石の一つ一つが丸くて、波に磨かれた表面がつるつるしている。
浜から海岸沿いの小径を歩いた。松の根が地面を這っていて、足を取られないよう気をつけながら進む。潮の匂いと、雨上がりの土の匂い。木々の間を抜けると、視界が開けた。
声が出なかった。
岩が、色を持っている。
断崖の表面が5つの色に分かれていた。赤。白。黄。青灰。黒。それぞれの色が帯のように横に連なって、十数メートルの高さの崖を彩っている。
赤い岩は錆びた鉄のような色で、表面がざらついている。白い岩は石灰質らしく、雨に洗われて滑らかだ。黄色い岩は砂岩に近い質感で、陽の光を受けて蜂蜜のように光っている。青灰色の岩は冷たそうな色をしている。黒い岩は最も硬そうで、海に最も近い場所にあった。波が黒い岩の裾を洗って、白い泡が岩肌を滑り落ちていく。その泡が砕ける音が、繰り返し、繰り返し、岩壁に跳ね返っている。
赤い岩に手を触れた。温かい。朝日を吸い込んでいる。隣の白い岩に手を移すと、ひんやりしている。同じ太陽の下にあるのに、色が違うと温度が違う。黄色い岩はざらつきがあって、指先に砂粒がくっつく。青灰色の岩はしっとりと湿っていた。
「——面白い岩だね」
声が、どこから来たのかわからなかった。
汐音でもわたしでもない。もっと低くて、もっと静かで、でもよく通る声。
五色岩の手前の、黒い岩の上に誰かが座っていた。
最初に見えたのは、手だった。
岩の表面に指を這わせている手。長い指で、爪が短く切りそろえてある。指先に何色もの絵の具が乾いてこびりついていて、赤と黄と青が混ざり、指そのものが五色岩の欠片みたいに見える。
顔を上げた人物は——年齢がわからなかった。
20代にも見える。50代にも見える。髪は長くて一つに束ねていて、陽に透けると暗い茶色だが、影になると黒に近い。顔の造りが柔らかくて、男とも女ともつかない。着物の上から薄い上衣を羽織っていて、裾が波に濡れているのを気にしていない。
——ゲームにこの人はいなかった。
1周では出会わなかった。でもこの世界には、ゲームに描かれなかった人間がいる。
「仙酔さん。保命酒、持ってきましたよ」
汐音が背中の風呂敷包みを降ろして、中から壺を取り出した。仙酔——それがこの人の名前なのか、呼び名なのか。
仙酔と呼ばれた人物は岩から降りて、壺を受け取った。蓋を開けて、匂いを嗅いでいる。
「今回のは桂皮が強いね。夏が近いからかな」
「わかるんですか。鼻がいいですね」
「色を扱う者は、匂いにも敏感でなくちゃ。色と匂いは似ているよ。どちらも、世界の成分を分けるものだから」
汐音のほうを向いて、そう言ってから——わたしを見た。
目の色が不思議だった。
茶色でも黒でもない。琥珀に近いが、光の加減で色が変わる。今は五色岩の反射光を受けて、少し赤みがかっている。
「お客さんを連れてきたんだね」
「はい。鷲羽家の瀬名お嬢様です」
仙酔の視線がわたしの顔で止まった。じっと見ている。見ているというより——読んでいる。色を読むように、わたしの顔を読んでいる。
「……藍だね」
低い声で、独り言のように言った。
「え?」
「あなたの色は、藍だ。海の底の色」
何を言っているのかわからなかった。わたしの色? 瀬名の瞳の色のことか。確かに藍色だけれど。
「瞳のことじゃないよ」
見透かされた。
「人には固有の色がある。纏っている色。考え方の色。生き方の色。あなたは藍。深くて、暗くて、でも光を通す。海の一番深いところにある色だ」
仙酔が五色岩の方を向いた。
「あの岩を見てごらん。赤は鉄。白は石灰。黄は砂。青は泥。黒は火山。全部違う出自を持っている。全部違う時間を生きてきた。でもここに並んでいる。一つの崖として」
声が穏やかだが、断定的だった。「〜かもしれない」ではなく、言い切る。
「世界の真実は色に宿る。言葉は嘘をつけるけど、色は嘘をつかない」
*
仙酔の住処は、五色岩から少し離れた浜辺の小屋だった。
板壁と茅葺き屋根の粗末な建物だが、中に入って驚いた。壁一面に絵が描いてある。岩絵の具で直接、板壁に。
海の絵だった。
瀬都内海の島々を、真上から見下ろしたような構図。でも地図ではない。島の一つ一つが色で塗り分けられていて、海峡が白い線で繋がれている。過所旗の航路のようにも見えるし、潮流の図のようにも見える。
壁の絵の中に、小さな紋章のようなものが描かれている。
——家紋?
見覚えがある形だった。波を丸で囲んだような——いや、少し違う。よく見ると波の形が左右対称ではなくて、片方だけが高くなっている。鷲羽の書斎の地図で塗り潰されていたものに、似ている。
「それは?」
「古い紋だよ。この島に昔から刻まれていたもの。五色岩の裏側にもある」
仙酔はそれ以上、説明しなかった。壁の絵を指でなぞりながら、保命酒の壺を開けて一口飲んでいる。
「うん。いい色だ。黄金色。汐音の保命酒は、いつも黄金色をしている」
味の感想ではなく色の感想。この人にとって、世界は色でできている。
汐音が隣で杯に保命酒を注ぎながら、わたしに小さく目配せした。「この人、いつもこんな感じです」という顔をしている。
「瀬名さん」
仙酔がわたしの名前を呼んだ。汐音から聞いたのか、それとも。
「一つ、教えてあげるよ」
岩に腰掛けたまま、仙酔はわたしを見た。琥珀色の目が、五色岩の色を映している。
「この世界は、誰かが描いた絵の中ではないよ」
心臓が止まった。
——何を、言っている。
ゲームの世界。誰かが作った物語の世界。わたしはそう思っていた。ゲーム『潮騒のセレナーデ』の世界に落ちてきた。だからゲームの知識が使える。ゲームのシナリオに沿って裁きが来る。
でも仙酔は「誰かが描いた絵の中ではない」と言った。
「……どういう、意味ですか」
声がかすれた。
仙酔は五色岩の方を見た。赤、白、黄、青灰、黒。5つの色が陽の光を受けて、それぞれに輝いている。
「絵は描かれたものだ。描いた人の意図がある。構図がある。色の選択がある。でもね」
黒い岩を指で叩いた。こつり、と硬い音がする。
「あの色は誰が選んだ? 誰が赤をここに、黒をあそこに、と決めた?」
「……誰も」
「そう。誰も決めてない。地面の奥深くで、何千万年もかけて、岩が勝手にあの色になった。それが世界ってものだよ。誰かの意図で作られたものじゃない。勝手に、気ままに、色を纏って、ここにある」
仙酔が立ち上がった。小屋の入口に歩いていって、外の海を見ている。
「絵の中の人物は、描かれた通りにしか動けない。でもあなたは動けるだろう。あの五色岩と同じで——あなたの色は、あなた自身が決めたものだよ」
返す言葉が見つからなかった。
この人が何をどこまで知っているのかわからない。意識が入れ替わったことなど知るはずがない。でも——「誰かが描いた絵の中ではない」という言葉は、わたしが抱えている問いの核心を突いている。
ゲームの知識に頼りすぎていたのかもしれない。この世界はゲームのコピーではなく、ゲームの方がこの世界の不完全な切り取りだ。鷲羽の書斎で地図を広げたときに感じた直感と同じことを、仙酔は色の言葉で言い直している。
汐音がじっとしていた。仙酔の言葉の意味を、全部ではないにしても、何か受け止めているような顔をしている。
*
帰りの小舟で、汐音が言った。
「仙酔さんは、ああいう人なんです。会った人の色を見るんですよ。わたしは初めて会ったとき、『琥珀だ』って言われました。保命酒と同じ色だって」
「汐音さんは——あの言葉をどう思いますか。世界は誰かが描いた絵じゃない、というのは」
汐音は少し考えた。櫂が水を叩く音が、しばらく続いた。波が舟底を打つ低い響きが、そのあいだを埋めている。
「わたしは——そうだと思います。保命酒だって、同じ配合で作っても毎回味が違うんですよ。同じ薬草でも、採れた季節で成分が変わるし、漬け込む日数でも変わる。誰かが決めた通りにはならないんです。それが、面白いところだと思います」
汐音が笑った。穏やかな声だった。
「瀬名さんも、決められた通りにはならないですよ。きっと」
鞆ノ津の港が近づいてくる。常夜燈が午後の光の中に立っている。
五色岩の色がまだ目の奥に残っている。赤、白、黄、青灰、黒。そしてわたしの色は藍。海の底の色。
——この世界は、誰かが描いた絵の中ではない。
仙酔の言葉が頭の中で回り続けている。
ゲームの知識で裁きを回避するという前提が——揺らいでいる。この世界がゲームの通りに動くとは限らない。50年前の潮守家の事件は、ゲームには存在しなかった。ゲームに描かれなかったものが、わたしの運命を左右するかもしれない。
でも同時に、それは希望でもある。ゲームの通りに動かないなら、ゲームで決められた裁きも——変えられるかもしれない。
小舟が雁木に寄せられた。
千歳が港で待っていた。何も言わずに手を差し出してくれる。石段に足を下ろすと、潮に濡れた石の感触が足裏を冷たく包んだ。
「お嬢様。明日の朝、潮が良ければ鷲羽に戻ります」
「ええ」
振り返った。仙酔島が午後の陽に照らされて、五色岩の赤い帯がかすかに見えている。
あの島で聞いた言葉を、わたしはたぶん忘れない。
あなたの色は藍だ。海の底の色。深くて、暗くて、でも光を通す。
明日、鷲羽に帰る。
帰ったら、あの地図をもう一度広げる。消された家紋を見る。潮守家のことを、もっと調べる。
——そして、次はもっと遠くへ行く。尾ノ道に。來嶋ノ瀬戸に。この海の、もっと深いところへ。
潮の匂いが、もう他人の匂いではなくなっている。




