第二十一話
神崎に聞いたマンションのビジタースペースに車を停める。教えられた部屋の前で、深く息を吸って吐く。収斂されていく想いが、出口を求めて零れんばかりに葵を満たす。
チャイムを静かに鳴らした。扉の隙間から心配そうな顔が覗く。僅かにその光景が滲む。静かに、息を、吸う。
「アル」
溢れる。
「会いたかった」
今はもう、それ以外の、それ以上の言葉が見つからなかった。
その言葉にアルは腰が抜けたように、座り込んでしまった。ああ、失ってしまう。失いたくないのに、そうアルは思って、震えた。彼だけは、失えないのに。
「アル?・・・震えているのか?」
「葵・・・」
「何が・・・何をそんなに怖がってるんだ」
聞かれて素直に言葉が浮かんだ。それを吟味する間もなく口を突いて出てしまった。
「愛情が、なくなったって言われることを」
言った瞬間。きっと子供のように、声で、視線で、縋ってしまっていた。聡い葵は当然直ぐに、アルの押し隠してきた筈の感情を見抜いた。
兄として愛してくれた母のことが頭を過ぎる。昔より小さくなった体で、抱きしめてくれた母は一度もアルの名前を呼ぶことをしなかった。それでも、嬉しかった。愛されたことが嬉しかった。そんな母は時折、思い出したように、兄と違うアルを憎んだ。アルはそれでも、母を憎むことは出来なかった。愛されたかった。愛したかった。愛しかった。家族を失った母が、自分と同じく兄を失って悲しむ母が。愛しかった。
だから、アルは恐ろしくて堪らない。愛情が、消えてしまうことが。
賢明な葵はそれをアルのように直ぐに口にしてしまうことはなく、喉の奥で押しとどめるような気配があった。それから、苦しげに顔を歪ませた。
「そんな日は来ないと、言ってやれたらいいと思うよ、アル」
アルは、嗚咽を堪えた。きっと情けない顔をしているに違いないと思う。
息をする度に、身体が震える。怖い。
「けど先のことなんて分からない。分からないことを約束することは出来ない。だが・・ああ泣くな・・・頼むから。だがそれは、今だって同じだと思わないか」
「今って、だって、」
「プライベートを共有するってのはそういうことじゃないのか。永遠なんて有り得ない。人は簡単にすれ違う。俺はな、アル。これでも、努力してるんだ」
葵は困ったように眉を寄せる。どうすれば伝わるのか。アルへと届くのか。それだけを考える。思考が解けては絡む。
「お前といる時間を大事にしようとしている。もし関係が変わったとしても、俺は努力し続ける。それだけは約束できる。心地よさを受け取るだけの緩慢な関係は、関係と呼べない。単なる搾取じゃない、俺はお前のために祈ったっていい。アル。聞いてるのか?」
「聞いとるわ、阿呆。そんな近くで聞こえんとでも思うてんのか」
「お前のことだ、分からないさ。なぁ、泣き止めよ」
無理を言わないで欲しい。許されるなら、声を上げて泣きたいくらいだ。
アルは思う。自分は傲慢だったのだろうか。自分が確信している愛情というものを盾に、葵にもそれを強要したのだろうか。振って欲しいと思いながら、強要してきたのだろうか。
けれど、人との関係は双方向で。言ってみれば、今は揺るぎないと思っているこの感情だって、永遠を強要されれば分からないとしか答えようがないのだ。そうでなければ人はただ成長をやめてしまっただけの、単なる生き物にしかならない。空気のような存在、などというのは。互いに尊敬を放棄しあった馴れ合いなのかもしれない。
「約束するさ、アル。俺はお前と一生いたいと強く思う」
その言葉に、アルは涙を流した。堪えられなくて、どうしようもなくて。葵の真摯な言葉と真っ直ぐな眼差しに、覚悟を見て。アルは、泣いた。
思い続けるそのためのあらゆる努力が、幾重にも積まれて重なって。そうやって、愛する気持ちは守られていくのだろうか。




