第十九話
神崎が京都のアトリエにしている部屋でアルが蹲っていたのを見つけたのは、偶然のことだった。偶々仕事で京都へ出ていたのこともあり、挨拶がてらアルのマンションへ脚を向けた。そこで見た光景はきっと一生忘れないだろう。
小さく丸くなり、微かに震えていた細い身体。何日も食べていないのだろう、薄くなった身体は血の気がなかった。それでも、筆を握って震えていた。悲痛な声で、呟くように。
兄さんごめんなさい母さんごめんなさい、もう兄さんにはなれないごめんなさいゴメンなさい母さんごめんなさいごめんなさい兄さん兄さんニイサン―――。
永遠に続くのではないかと想う、謝罪のような懺悔のような。小さな叫び。痛々しくて見ていられなかった。
そして、唐突に全てが遠ざかり、音をなくした。その代わりに、過去が圧倒的な力を持って思考を支配する。
アルが兄の模倣を始めた時。止められもせず、笑いかけられもしなかった自分。
神崎は、アルを小さい時から知っていた。父の前で小さくなり、母の視線に悲しく笑う少女。全てを諦めながら、本当は誰よりも愛されたがっていた少女。その小さな体が選んだ選択を前に涙を流すこともできなかった。
そんな神崎を見て、アルはただ静かに微笑んだ。
本当は、抱き締めてあげたかった。手を伸ばして、柔らかな髪を撫でて。死んでしまった彼のように、抱き締めてやりたかった。
その何ひとつ選べなかった神崎は、ただ笑うアルを前に。無力だと、身が千切れるほどの痛さで思い知った。
だから、アルが画家になりたいと、少女だった時のような強い眼差しで告げた時。
できることをしようと思った。償いのようだと思って。哀しくて、淋しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった、あの日。
遠くから、アルの悲鳴のような泣き声が戻ってくる。喪ってしまった、愛する人の名前が木霊している。今でも、覚えている。
髪の感触や、その匂い。電話で交わした他愛のない話、耳元で聞こえた声。背中で感じた温もり。次々と現われる記憶は細切れで、それと認識する前に身体の内側から破ろうとするように感情を残していく。記憶は繊細で、同時に鮮やかだ。
いかなるものも神埼を傷付け、それでも神崎はそれらの全てを愛した。幸せな記憶に目が眩む。だからこそ、アルをこんな風にしてしまった原因は自分にもあると、分かっていた。
それでも、手を差し出せなかった。小さな身体を、抱き締めて、やれなかった。自分を守るために、他人の手をとることは、神崎には出来なかった。その無惨な結果が目の前で、蹲っているのに。その後、安部を呼びアルを大阪へ連れて来た。
呪縛から、逃れるように。
呪縛。
それならば、断ち切って欲しい。私のためにも、あの優しい女の子のためにも。
喪ってしまった家族のために、兄を愛したアル自身のために、兄の模倣を続ける彼女のために。小さく呟いた言葉は形に成らないまま、空気に溶けていった。それは、ほんの少しだけ、祈りに似ていたのかもしれない。




