第十八話
それから、葵は悩んだ。一週間は悩んだ。
同情なのか、好意に流されているだけではないのか、ほだされただけではないのか、それはもう大いに悩んだ。
そして不意に、アルの画集を手に取った。本当に偶然のことだった。論文に必要な資料の隣にあったという理由だけで手にした。
そこにはアルがいた。アル自身の世界。アルの全て。
そして、ゆっくりと表面張力を破って想いが溢れ出した。
愛してないと言えないこと。
そのことに、愛している以外の理由があるのだろうか。
会いたい。ただ、会いたいと、葵は初めてそう思った。
その日の夜、葵はアルのマンションに居た。
家主は、不在だった。合鍵は持っているので、構わなかった。
だが、以前まではあった、買い込んでいた女性物の服が全てなくなっていたことに唖然とした。
やけにすっきりとしたクローゼットの前で葵は立ち尽くした。化粧品類も靴も全て、なくなっていた。緩慢な動作で、マルボロに火を点ける。焦燥か何か分からないものを落ち着かせる。
そして携帯電話を取り出した。かける相手はただひとりだ。
「はい、神崎です」
「お久しぶりです、葵です」
電話越しですら分かる。神崎が今、笑っていることが。
「あら、先生どうかされました?」
しかも言うことが白々しさで一杯だ。葵は苦虫を噛んだような表情をしたが、声は冷静さを装ったまま。
「アルはどこにいます」
単刀直入に本題を切り出す。その葵の声の真摯さに、電話の向こうに沈黙がおりた。
「ねぇ、先生」
溜息交じりの呼びかけには応えない。神埼も応えを期待しているようではなかった。
「人を愛するって、恐ろしいことだと思いませんか?」
今度は葵が沈黙する。正しくは言葉を失った。何も言えなかった。
「かつての恋人への想いは、もうぼやけて形すらなくしてしまっているのに」
どこか物思いに耽るような声だった。思い出を撫でているのだろうか。そうやって慰めているのだろうか。
「けれど、消えてはくれなくて、ふたりの過去の時間と共にそれは漂うんです」
撫でては絶望を繰り返してきたのだろうか。この人も傷付いた人なのだと、葵は思った。愛した人を永遠に失った女性なのだ。
「会えなくても会えなくても時々忘れても、愛したと言うことはそういうこと。人を愛し愛されるって、そういうことなんです」
謝罪のような懺悔のような、絞り出すような。そんな声だった。
「呪縛のようですらあるでしょ?」
「・・・不変は存在しません」
「それを一番恐れていたように見えた先生から、その言葉を聞くと思わなかったですね」
やはり見抜かれていたかと、心中舌打ちをする。
それでもそんなこと、今はどうでもいい。
「ええ、私は変化を確かに恐れていました。それが、互いのためであると信じたかった。けれどそれは、大きな間違いでした」
間違えた。最も大切な人を前に、間違えてしまった愚かな自分。葵は思う。アルは今どうしているだろう。
「感情はいつだって試されていると私は思います。時間に、世間に、環境に、自分自身に。問われ続けるものです。」
それが一方通行ではなく、双方向であるのなら、尚のことだと葵は思う。だからこそ、間違うこともあるのだろう。恐れる余り、不安に駆られて、焦燥に耐えられず、間違ってしまうこともあるだろう。
だがそれは、一人ではないという、その証のようじゃないか?アル。
沈黙は静寂へと変わっていた。それでも葵は構わない。
「私は彼女自身が呪縛から逃れたいと思うなら、背中を押してやりたい。どこかの誰かが望む方向へではなく、その人自身が望む方向へ」
沈黙が重くおりる。静寂が漂う。それを破ったのは、神崎だった。
「誰かのために、死ねると。想ったことはありますか?」
予想外の問いだった。だが、考える前に言葉は紡がれた。
「その人と共に生きたいと。想う人ならひとりいます」
それに神崎は笑う気配を見せた。
「月神は今、大阪にいます」
詳細な所在地を聞き、それに感謝を述べる。通話を切ろうとした、その時。
「先生、私はね。そう想いあった人がいました。そして、結果その人のために生きることになってしまったんです」
祈るような、そんな切実さのある願いが響いた。それには応えず、今度こそ通話を切った。
誰かが、悪い訳じゃない。選び取るその選択を、時には間違ってしまうことだってある。自分だってそうだ、間違えてきた。
それでもアルは笑ってくれたから。そうと気付かないフリをし続けられた。
溜息を吐く。だが、もう引き伸ばす訳にはいかない。遅すぎるくらいだ。そうして葵は愛車の鍵を手にした。
失わなくてはならないものに残る未練を吹き飛ばすかのように。
通話が途切れた受話器を手に、神崎は細く息を吐く。愛を語られてしまった。それがどこか愉快で、どこか切なくて、ふふ、と笑ってしまう。「呪縛、か・・・」
そうして、アルを想う。




