第十五話
朝とも夜とも言えない、薄墨を流し込んだ闇。
そんな深夜の精神攻撃じみたチャイムの連弾に個展用の作品に没頭していたアルの、さして長くも容量もない堪忍袋の緒は綺麗にあっさりと切れた。
「電話くらいせぇ!」
「アルはいるだろう」
勢いよく開けた扉のすぐ其処に、色々ボロボロな葵が立っていた。
「在宅業者の何が悪い。絶賛修羅場中や」
「相変わらず意味不明だな」
そう笑って葵はまるで我が家のような振る舞いで、リビングへと脚を向けた。キッチンに立ち、珈琲を入れ始める。アルはソファに座り、その草臥れた背中に言葉を放った。
その背中が好きだよとは言わず。
「それで?葵、お前は何しに来たんや」
生憎と今はインスタントな珈琲しか置いてない。葵は、二人分のカップを持ってお決まりの定位置に腰を下ろした。アルの隣の席へ。
「話をしに来た」
「ふん?何の話やの?」
アルの中では既に完結し、解決し、終わっている話なのだろう。だが、葵の中では未だ何も終わってはくれない。
「時間を、くれないか」
「なんの」
それこそ怪訝そうに即答された。
「結論を出す、さ。お前のことをどう思っているか見極める時間が欲しい。当然の要求だと思う」
アルはカップを手にしたまま、小首を傾げる。これは、理解してない表情だ。長い付き合いだから分かる。
「論文書いて他人の論文指導して、研究室の予算出したり文献読んだり、書類書いたり提出したり教授とやりあったり研究会の世話したり、合間に学生に授業して、しかも年末近くて余計忙しい時に告白なんかされたって、俺はとてもじゃないが見極める時間なんてなかったさ」
「合間に授業って、何やの。お前の生活支えてんのは、あの子らのお金やで」
「そう、だから時間をくれないか。俺は生憎、ヒューマンなんだ。譲歩してくれ」
アルは沈黙している。横目で確認すると、さらりと肩を滑る髪に隠されて表情は伺えない。
「とにかく、とりあえず今までどおり、って訳にはいかないか?」
沈黙。当然ではあるが否定の言葉が出るかと葵は考えた。アルの中で完結したことをわざわざ蒸し返しているようなものだ。しかも、卑怯な言い方をしていることを葵は自覚していた。失いたくないから、アルが逃げないように、言葉を選ぶ。卑怯者め。
そう思ったが、アルはゆっくりと笑った。少し、恥ずかしそうに。
「もし君が、本当にそうしたいと思うてるんなら、」
「本当さ。嘘はない」
「そうなら・・とても意外で、すごく・・」
嬉しい話や、と呟いた。その言葉に、葵はしばし胸を打たれて沈黙した。
そして初めて、アルの告白を正面から受け止めた。
「俺はね、葵。君がどんな結論出しても、後悔せえへんの。ずっと自分を誤魔化し誤魔化しやってきた。決定的に拒否されることなく諦めようと思うた。・・・逃げたんやね。だから、君のあの言葉を聴いた時、決めた。君にカードを提示しないまま終わるんは止めよう。全部曝け出してしまおう。受け入れられるなんて思うてない。ただ、気持ちを伝えておきたかっただけ。ただ出来るだけのことをして、うーん、稚拙な言葉で言えば、頑張ってみよう、って感じやね。確かにこんな気持ちになるのは、随分久しぶりで、何やよう分からんけど・・。やから、駄目でも俺は平気やの。分かる?」
心の内を吐露したせいなのか。アルは耐えられないとでも言うようにまるで怒っているみたいな顔を押さえて立ち上がった。
そしていつもの毛布を持ってきて、ソファに投げ出す。
「よし、俺が忙しい言うのは本当や。今から部屋に篭るし、君は勝手に適当にし。そんならな。邪魔すんなよ」
伸びた前髪に乱暴に手を差し入れながら、アルはアトリエにしている部屋のドアを開けた。
「アル!」
「何や!」
「・・あの時は驚くだけで余り覚えてないんだ。お前の気持ちってやつ、もう一度ちゃんと言ってみてくれないか」
呆れたようにアルは振り向く。そして思案するように少し上を見つめる。その視線が降りてきて、通り過ぎて床に落ちて。アルは告げた。
「・・・君が好きや、葵」
「・・・おやすみ」
「そやから俺は寝るんやない、お仕事や」
カチリ、とドアが閉ざされる。覚えるために見ていたアルの。はにかんだような笑みは、それでも胸に残る。
「ああ、全くお前らしい・・・」
媚態でもそれらしき態度でも、気を引くような視線でもない。真っ直ぐな告白を貰ったのは葵自身だって随分と久しぶりだった。ないがしろにしたつもりはないのに。
それでも、あの脆く壊れやすい、透き通るような穏やかさの意味を。あんなにも哀しい優しさがあるという事実を。こんなにも残酷な暖かさが、あるのだという現実。壊れそうなほど柔らかな微笑みは、そこにどれ程の痛みを背負っているのだろうか。苦しんでいたのだろうか。たったひとりで。そのことに気付かなかった。
否、本当は気付いていたのかも知れない。
ただ、そのカードが目の前に提示されるとは考えてもいなかった。都合のいい話だ。
そして、アルの伏せた目と、切実な声を。葵は思った。




