第十三話
「神崎さんですか?」
電話に出るなり、快活な声で喋りだした神崎に、アルは思わず笑みを零す。世間話とも思える幾つかの話をしてから、漸くアルは本題へ入った。
「買い物?あ・・あー、そうでしたね。えっと、来週でしたっけ」
すっかり忘れていた。アルは、女性としての服装のセンスに全く自信がない。そのため、ほとんどの服を神崎に頼って購入している。だから、葵のあの質問には答えなかった。確かに、それもひとつの理由ではあった。月に何度か、神崎はこうして空いた時間を見繕って付き合ってくれるのだ。
しかし、着て見せたことはない。試着をしても、アルは決して外には出なかった。その理由を神崎は分かっていたのだろう。いつも優しく、切なそうに笑ってくれた。それを思い出し、アルは少し躊躇ってから、口を開く。
「あの・・・神崎さん」
呼びかけると、声の調子が変わったことに気付いたのか、神崎の声のトーンが少し下がった。都合が悪いのかと尋ねられる。なんだか、立っていられなくなり、ソファに座り込む。一瞬、葵が愛煙するマルボロの香りが鼻腔を擽った。香りが残るほど、一緒に過ごしてきた。そのことに、どうしようもなく涙が出そうになる。
嬉しさか、哀しみか、淋しさなのか。どの感情が正しいのか分からないまま。それら全てなのかも判別出来ないまま。
だが、香りに後押しされるように、唇を舐めて、湿した。
「もう、やめようかと」
口に出してしまえば楽になるかと思った。けれども、それは思ったよりも硬い調子でアルの心を刺した。神崎は少し黙り込み、それから優しい声で理由を訊く。泣くのは止めようと、そう思った。葵の傍に居るために。それなのに、他人の優しさに負けそうになる。泣きそうになる。
「ごめんなさい、神崎さん。色々協力して貰ったけど、駄目です」
だから笑おうとするが、失敗する。アルは舌打ちしたくなって、慌てて溜息に変えた。
電話の向こうは黙り込んでいる。
「まあ、分かってはいましたけど・・あいつにとって私は友人以上になりそうもありません。服装を幾ら変えたところで、もう十年もみっともない格好で付き合うてる訳です。今更過ぎるんですよ」
今度は自然に苦笑した。そうだ、分かっていた。葵が、たかが外見で何かを変える筈もないと。初めから分かっていた筈だ。
けれど、後悔はしていない。初めてスカートに脚を通した時、心が弾んだ。高校の制服以来の、軽やかな感覚だった。薄化粧をして、髪を結い上げた時だって、気持ちが良かった。男のように振舞ってはいても、この身体が女であるように。
いくら女性としての特徴が薄い身体でも、アルの肩は兄よりなだらかであり、腰も兄より柔らかい。その事実。それ以上に、自分の心はずっと女だった。外見を装うというたかがそれだけのことに心が浮き立つ位。葵の傍に居られるだけで、満たされるほどに。
女だった。
結局のところ自分に嘘は吐ききれない。だからそうやって、本当の自分を見てもらって。それで駄目だったのだから仕方がない。
葵のために差した紅は、まだ少しも減っていない。同じように、葵に恋人が出来そうだと、ゼミの学生の噂話で聞いた時の心の痛みだって、未だに消えようとはしてくれない。このひとつの決断が、何かを変えてくれるとアルは思う。
「―――諦めます」
何ひとつどうにもならなかったなど。間違ってもそんなこと、思わない。恋は傷つくものだと、知ったから。それでも、あの言葉があれば大丈夫。
友人の枠に留まらず、その癖恋人にはなれない。どこにもない狭間の領域で、何か生み出したものがある筈だ。
アルは通話の切れた電話を静かに置いて、ソファに横たわった。葵の香りがする。どんなに求めても手に入らない物ばかりだ。そう知っていても、納得出来なかった。葵の隣で、いつも何故を繰り返しては何度も諦めてきた。
それでも、あの全てを抱えて、葵の隣で笑い続けよう。友人として、許される限り。この思いに理由など求めないし、後悔も戸惑いもない。
そして恐らく『何故、こんな想いを』などと自分に問いかけることもこの先一生ないだろう。人を好きになって、それが葵だった。結局辿り着いた場所はなかったけれども。
それでも愛しいことに変わりはない。
只―――それだけのことだ。
だから、葵。どうか私を完全に切り捨ててくれますように。




