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爪先立ちのマリア  作者: 皐月
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第十話


会議室に閉じ込められたらしいアルを待つため、安部は事務所に葵を通してくれた。勝手知ったる、よそ様の事務所だ。

「どうぞ」

「ああ、有難う御座います」

神崎と安部が勤める会社は、そもそも建築やインテリア家具を主に扱うことが多い。カフェやレストランの内装なども手がけ、幅広く活躍しているようだ。そんな中では、画家のアルは異業種と言っていい部類なのだが、念願かなってやっと画廊を始めることができたらしいここではいい宣伝材料になるのだろう。アルは国際的にも評価を得ている画家だ。画廊を始めたばかりなどでは、本来取り扱えないほどの金額で売買される絵を描く。会社としても、駆け出しの画商のツテ作りにしてもこれ以上高品質の人材はいないだろう。マルボロに火を点けながら、葵はそれを誇らしく思えなかった。

「神崎さんは随分と張り切られてるようですね」

「そうなんですよ!天月先生の初の個展ですから!気合の入りようがもう、違います!」

銜えていた煙草を危うく落とすところだった。葵はアルが個展を開くと、始めて聞いた。確かに絵画数も増えてきたのだから、そろそろ開いてもいい頃合なのかもしれない。だが、聞いてなかった。アルの口から、直接、聞いていない。

「やっと、天月先生の世界が見られるんですね・・・」

その言葉に葵は、はっとした。阿部は知っているのか。そんな葵の意図を汲み取ったのか。安部は静かに懐から写真を出した。思い出を撫でるかのように静かに口を開く。

「神崎さん、若いでしょう。この頃、まだ二十歳になられたばかりなんですよ。で、これが僕と、」

「・・・アル・・・?」

安部が指を置いた場所には、学生の頃のようなアルがいた。それに淋しそうに、頭を振ったのは安部だった。

「この人が天月先生の、お兄さんです」

衝撃に、目が眩んだ。

それから安部の語りだした話は、聞いたことのない話だった。兄が死んでいるとは知っていたが、殺されていたとは知らなかった。

しかも、通りすがりの全く見知らぬ、通り魔に。そしてアルが画家を目指すのと同時に、家族とは絶縁状態になったらしい。

それまでは、兄とそっくりのアルに父と母は兄のように接し、まるで欠けた存在を埋めるかのようにアルと兄を同視したようだ。それでもアルは兄に成りきれなかった。自分を殺しきれなかった。絵を志すと両親に伝えた時、兄はそんなこと言わない、あの子はそんな夢を抱いていなかった、あの子は、あの子は。

そしてついには、兄の変わりにアルが死ねばよかったのだと言われ続けたそうだ。それから、アルは兄の模倣を本格的に始め、両親から時に兄として愛され、時にアルとして憎まれたらしい。画家になった今でも、家族と離れている今でも、兄の模倣を続けているのに。

それなのに。

それを聞いた葵は、怒りに震えた。アルが兄のように振舞いだした時。

親ならば直ぐにでも止めるべきだった。自分達を慰めるために、子供を利用してはいけなかった。アルが自分自身を曲げて、誰かのために生き方すら捧げるのは、彼らが血の繋がった両親だからだ。他にアルを変えてしまう人間なんか、いない。例え愛した男のためでも、アルは決して、自分以外にはならないだろう。家族と言うだけで許される特権は、だからこそ絶対に振りかざしてはいけないのだ。

「二人分の人生って、どれ程の重さなんでしょうね・・・」

安部の哀しそうに揺れる言葉が、葵の心に波紋のように広がった。アルを思い浮かべる。アルの背中が、肩が、指先が、全て柔らかな印象に変わっていく。外見の何が変わった訳でもない。相変わらず兄のものらしいシャツを着ているが、もうそれらは何の鎧にもならなかった。



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