第五話 ユノ
夏の風が、リーベルの街を抜けていく。
フェルノ村のあの夜から数ヶ月が過ぎ、季節はもう夏になっていた。胸の痛みはほとんど無くなり、身体も動く。ガルドとの訓練にも少しずつ慣れてきた。
とはいえ。
「遅ぇ」
「うぅ……」
今日も木剣を弾かれ、ルークは尻もちをついた。ガルドは容赦が無い。
「今のは見えてただろ」
「だ、だって速いし……!」
「言い訳すんな」
そう言いながらも、追撃はしてこない。
ルークはぶすっとしながら立ち上がった。朝の訓練が終わる頃には、汗で服が張り付いている。
ガルドは木剣を肩へ担いだ。
「買い物行くぞ」
「はーい……」
少し前まで、一人で外を歩くだけでも怖かった。人混みも、笑い声も、村を思い出す音も、全部が苦しかった。けれど今は、少しだけ平気になっていた。
◇
リーベルの市場は、今日も賑やかだった。
「お、ガルドさん」
「今日は坊主も一緒か」
「……どうも」
ルークが小さく頭を下げると、露店のおじさんは笑った。
「前より顔色良くなったなぁ」
「……そう?」
「最初は今にも倒れそうだったぞ」
「余計なこと言うな」
ガルドが低く返すと、おじさんは苦笑した。
「悪ぃ悪ぃ」
周囲の大人達は、ガルドを見ると少し緊張する。体格は大きく、目つきも怖い。無口だから、余計にそう見えるのだろう。
けれど、市場の店主達はそんなガルドにも気さくに声をかけてくる。
「この前も灰狼追い払ってくれたんだろ?」
「助かったよ、ガルドさん」
ガルドは面倒そうに手を振った。
街の近くで魔物が出れば、ガルドが討伐へ向かう。狩りもする。だからリーベルでは、怖がられながらも頼りにされていた。
ルークにとっては、もう見慣れた光景だった。
「ルーク、“こむぎ亭”のパン買うぞ」
「ほんと!?」
ぱっと顔を上げると、ガルドが少しだけ呆れた顔をした。
「お前、こむぎ亭のパン好きだな」
「だって美味しいし!」
「昨日も食っただろ」
「でも好き!」
即答すると、近くのおばさんが吹き出した。
「ふふっ、元気になったねぇ」
ルークは少し恥ずかしくなって、慌ててガルドの後ろへ隠れた。ガルドは小さく鼻を鳴らす。
買い物を終えた帰り道、川沿いの道を歩いていると、ルークはふと足を止めた。
「……ん?」
少し先の川辺に、女の子が座っていた。白金色の髪が陽の光を反射して、きらきらと光って見える。年上だろうか。ルークより少し大きいその子は、ぼんやり川を眺めていた。
綺麗な子だ。
最初にそう思った。
すると、少女がこちらに気づいた。金色の瞳がまっすぐルークを見る。じっと見られて、ルークは慌てて視線を逸らした。なんとなく落ち着かない。
その時、少女の視線がルークの手元へ向いた。
「そのパン、美味しい?」
「え?」
思わず聞き返すと、少女は普通の顔で袋を指差していた。
「さっきから、ずっと嬉しそうに持ってるから」
ルークは慌てて袋を抱え込む。
「こ、これは俺のパンだからな!」
「取らない」
少女は少しだけ笑った。綺麗で、でも、全然嫌な感じがしない。
ガルドは少し後ろで腕を組み、口を挟まずに二人を見ている。
ルークは少女をちらりと見た。
「……美味しいよ」
「ふーん」
「……食べる?」
自分でも、どうしてそう言ったのか分からなかった。
少女は少し目を丸くしてから、小さく笑った。
「じゃあ、一口だけ」
川辺を吹き抜ける風が、白金色の髪を揺らす。その光景を、なぜか少しだけ綺麗だと思った。
◇
次の日、ルークはまた川沿いへ来ていた。別に約束したわけじゃない。それでも、なんとなくまたいる気がした。
「遅い」
「うわっ!?」
後ろから声が飛んできて、ルークは飛び上がった。振り返ると、昨日の女の子が普通の顔で立っている。
「びっくりした……」
「ルークが遅いから」
「なんで俺の名前知ってるんだよ!?」
「昨日、ガルドさんが呼んでた」
「あ……」
確かに呼ばれていた。
ユノは小さく首を傾げる。
「ガルドさんって、灰狼追い払ってる人でしょ?」
「……知ってるんだ」
「街で結構有名」
ユノは普通に言う。ルークはなんだか、少しだけ誇らしくなった。
「ガルド、強いぞ」
「知ってる」
「すっごい速いし!」
「うん」
「あと怖い!」
「それも知ってる」
ユノが少し笑う。なんとなく、笑われた気がした。
「……むぅ」
「でも、ルークには優しい」
「え?」
思わず聞き返すと、ユノは川辺へ座った。
「昨日見てた」
「……見てたの?」
「うん」
ルークも少し迷ってから、隣へ座った。川の音が静かに響き、風が気持ちよかった。
「今日はパンないの?」
「ある!」
ルークはすぐ袋を持ち上げる。
ユノが小さく目を丸くした。
「ほんとに好きなんだ」
「こむぎ亭のパン美味しいもん」
「ふーん」
興味があるのか無いのか、よく分からない返事だった。でも、嫌な感じはしない。
ルークは袋からパンを取り出す。
「……食べる?」
「またくれるの?」
「一口だけだからな!」
「けち」
「ユノが食べすぎるかもしれないし!」
「そんな食べない」
ユノは少しだけ笑いながらパンを受け取ると、一口食べた。
「……美味しい」
「だろ!」
ルークはちょっと得意げになる。ユノはそんなルークを見て、また少し笑った。
◇
その日から、なんとなく一緒にいる時間が増えた。川辺で石を投げたり、市場を歩いたり、意味もなく走ったり。他愛ないことばかりだったけれど、その時間は不思議と嫌じゃなかった。
強かった日差しも、少しずつ柔らかくなっていく。季節は、ゆっくり秋へ変わり始めていた。
夜、悪夢で目を覚ます日もまだある。村の光、悲鳴、父親の背中。思い出すだけで、胸が苦しくなる。
けれど朝になると、いつもの場所でユノが待っている。
「ルーク」
それだけで、少しだけ前を向ける気がした。
ある日の夕方、空が赤く染まり始めた頃、ルークとユノは川沿いの道を並んで歩いていた。
「じゃあ、また明日」
ユノが自然に言う。まるで、明日も会うのが当たり前みたいに。
「……うん」
ルークも自然に頷いていた。
明日。
その言葉を聞いて、少しだけ。本当に少しだけ、明日が来るのが怖くなくなった気がした。
吐いた息が、白く空へ溶けていく。季節は、もう冬になっていた。
ある日の昼、家の扉が勢いよく開いた。
「よぉ、ガキ」
「クロウさん!」
ルークがぱっと顔を上げる。そこにいたのは、久しぶりに見るクロウだった。相変わらず少し目つきが悪い。でも、笑っている顔を見ると、なんだか安心した。
「おぉ、ちゃんと元気そうじゃねぇか」
「もう普通に動けるよ!」
「へぇ?」
クロウがにやりと笑う。
「旦那、ちゃんと世話してたんだな」
「うるせぇ」
ガルドが眉を寄せると、クロウは笑いながら椅子へ座った。
「ミレイアは?」
「セフィリアだ」
「あー……まぁ忙しそうだったしな」
クロウは肩を回し、それから少しだけ真面目な顔になった。
「……で、フェルノ村の件だ」
部屋の空気が変わる。
ルークも自然と姿勢を正した。
クロウは机へ肘をつく。
「王国、魔法士ギルド、教会。一応、全部動いた」
低い声だった。
「かなり大規模に調査したらしい」
ルークは息を呑む。
「……わかったの?」
クロウは少し黙ったあと、口を開いた。
「……原因不明だとよ」
「え……」
「魔力災害。そういう自然災害の一種として処理された」
ルークは俯いた。
原因不明。つまり、父さん達がなぜ死んだのか、結局、誰にも分からなかったということだ。
「……そっか……」
小さく呟くと、胸の奥が少しだけ重くなった。
クロウは頭を掻く。
「俺も納得してねぇけどな」
「クロウ」
ガルドが低く呼ぶと、クロウは小さく肩を竦めた。
「まぁ、今のは忘れろ」
それから、ルークを見る。
「お前は、ちゃんと生き残った」
その言葉は、不思議と重かった。
「なら、とりあえず前向いとけ」
ぶっきらぼうだった。でも、クロウなりに励ましているのは分かった。
ルークは小さく頷く。
「……うん」
しばらくして、クロウは立ち上がった。
「んじゃ、俺はもう戻るわ」
「もう行くの?」
「仕事あるしな」
クロウはルークの頭を、ぐしゃっと乱暴に撫でた。
「元気でやれよ、ガキ」
「うわっ」
「あと、旦那困らせすぎんな」
「困らせてない!」
「どうだかな」
クロウが笑う。その笑い方が、少しだけ寂しそうに見えた。
扉が開き、外の光が差し込む。クロウは振り返らなかった。
「じゃあな」
それだけ言って、家を出ていく。
扉が閉まると、部屋は静かになった。ルークはしばらく、閉じた扉を見ていた。
『夜明の灯』。
信頼し合っていた、ベテラン魔法士パーティー。
もう、あの頃には戻らない。みんな、別々の場所へ進んでいる。
少しだけ寂しい。
でも、嫌じゃなかった。
きっと、前へ進むってこういうことなんだと思った。
「ルーク」
外から声が聞こえる。ユノだった。
ルークは顔を上げる。
「今日、川行く?」
いつも通りの声で、いつも通りの空気だった。
ルークは少しだけ笑った。
「行く!」
その返事を聞いて、ガルドが小さく息を吐いた気がした。




