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第五話 星空


 合宿十日目。


 器官干渉型共鳴は、検証から訓練へ移り始めていた。


 カレン、シエル、フィア、ユノ。


 四人とも、ルークの共鳴後に生まれた混合魔力を、短時間なら自分の意思で保持し、放出できるようになってきている。


 大きな異常はない。

 混合魔力が体内に残り続ける様子も見られない。


 回数を重ねるごとに、それぞれの扱い方にも少しずつ進歩が見え始めていた。だからこそ、ミレイアは検証の段階を一つ進める判断をした。


「勘違いしないように」


 夕方の湖畔近くの訓練場で、ミレイアが全員を見回す。


「魔力器官そのものが変わったわけじゃないわ。混合魔力は、あくまで一時的に魔力器官内の魔力が共鳴の影響を受けているだけ。使えば減るし、時間が経てば薄まる。体内で巡れば、いずれ本来の魔力へ戻っていく」


 成果が出始めているからこそ、浮かれすぎるなという釘だった。


「だから、完成ではない。今はまだ、扱える時間も量も限られている。それを忘れないこと」


「はい」


 ルークは頷いた。


「訓練として進めることは許可するわ。けれど、長時間続ける必要はない。体調に違和感が出たら、その時点で中止しなさい」


 ミレイアの視線が、ルークにも向く。


「異常があれば必ず私に報告すること。実戦魔法への応用も、段階は飛ばさない。混合魔力が残り続けていないかの確認も続ける。いいわね」


「はい」


 共鳴を起こすのは自分だ。


 だからこそ、進めるときも、止めるときも、相手の様子を見落とさないようにしなければならない。


 最初に手応えを見せたのは、フィアだった。


 ルークが手を離したあとも、淡い翠銀色の魔力は彼女の周囲に薄く残った。普段の《風読》のように全体へ散るのではなく、湖畔へ向かう流れ、仲間の立つ位置、足元の草が揺れる向きへ、細く伸びていく。


「……少しだけ、風が散りにくいです」


 フィアは目を閉じたまま呟いた。


「全部拾う感じじゃなくて、必要な流れを選べる気がします」


「《翠銀風域》ほどじゃないな」


 ルークが確認すると、フィアは小さく頷く。


「はい。広く維持するのは、まだ難しいです。でも……前より、風が言うことを聞いてくれる感じがします」


 その声は控えめだった。


 けれど、そこには確かな手応えがある。


 ユノの変化は、フィアよりもずっと静かだった。


 白煌色に淡い銀の気配が混ざった光弾が二つ、簡易標的へまっすぐ飛ぶ。


「……乱れてません。私の《風読》にも、ほとんど触れていません」


 フィアが風を通して確認する。


「二発、三発ならいける」


 ユノは自分の指先を見下ろした。


「でも、準備に時間がかかる。混合魔力も、すぐ薄くなる。このままだと、戦闘中にはまだ使いにくい」


「それでも、大きい進歩だと思う」


 ルークが言うと、ユノは短く頷いた。


「うん。……邪魔しないで撃てるのは、大きい」


 その一言に、ルークは何も付け足さなかった。


 ユノにとって、それがどれだけ大きな意味を持つのか。

 少しだけ、分かった気がした。


 反対に、カレンの検証は一番派手だった。


「次、私ね」


 カレンは槍を構え、自信満々に一歩前へ出る。


 足元に緋銀色の魔力が走った。普段よりも、魔力の形は綺麗だった。


 荒れやすい炎が、槍の石突側へ集まりかける。出力は強い。けれど、以前より少しだけ流れがまとまっていた。


「今度こそ、綺麗に決めるわよ!」


 カレンが地面を蹴った。


 次の瞬間、その身体が一直線に飛び出す。


 ただし、標的ではなく、斜め上へ。


「ちょ、そっちじゃな――!」


 叫ぶより早く、ミレイアが動いた。


 深紅の炎が広がる。


 だが、ぶつけて止めるのではない。カレンの進路に沿って炎を滑らせ、勢いを受け流すように軌道を上へ逸らす。


「わ、わわっ!?」


 空中で勢いを殺されたカレンは、そのまま湖畔の草地へ転がった。


 一瞬、場が静まる。


 カレンは草を払って起き上がり、少しだけ間を置いてから言った。


「……今のは、ちょっとだけ風向きが悪かったのよ」


「無風だった」


 シエルが淡々と返す。


 フィアも申し訳なさそうに続けた。


「はい。ほとんど吹いていませんでした」


 ユノが小さく呟く。


「……カレンらしい」


「そこ、納得しない!」


 カレンが赤くなって振り返ると、ルークは思わず笑ってしまった。


 失敗ではある。

 けれど、ただの失敗ではなかった。


 形は、確かに良くなっている。強すぎる出力に、制御がまだ追いついていないだけだ。


 強い火力を、強いまま形にする。

 その方向へ、少しずつ近付いている。


「……でも、今の、最初はまとまってたよな」


 ルークが言うと、カレンはむっとした顔のまま、少しだけ目を逸らした。


「分かってるわよ。次はちゃんと当てる」


「次は、まず標的の方向を見てからね」


「見てたわよ!」


「斜め上を?」


「シエル!」


 軽い笑いが、湖畔の空気に溶ける。


 その中で、シエルは静かに前へ出た。


 カレンのような爆発的な出力はない。ユノのように、周囲へ強く影響を与える魔力でもない。フィアのように、風へ広げる感覚とも違う。


 シエルの課題は、いつも一つだった。


 頭の中では、術式は完成している。

 けれど、その形を最後まで満たすだけの魔力が、どうしても届かない。


 シエルは手をかざし、静かに氷の術式を組み始めた。



 合宿十日目の夕方。


 湖畔近くの訓練場には、涼しい風が流れていた。


 夕食の準備を始めるには、まだ少しだけ早い。けれど、訓練を長く続けるには、残された時間は多くなかった。


「シエル、いけそうか?」


「うん」


 シエルは短く答えた。


 ルークは、彼女の背中へ手を当てる。


 一瞬、シエルの肩が小さく揺れた。けれど、すぐに呼吸が整う。


 灰銀色の魔力が、シエルの内側へ静かに流れ込む。蒼氷色の魔力と重なり、淡い銀氷色の気配が生まれた。


 まだ濃くはない。


 それでも、これまでより少しだけ保ちやすくなっている。


「離すぞ」


「うん」


 ルークが手を離す。


 シエルはすぐに右手を前へ出した。


 彼女の前で、氷槍が形を取る。


 細い氷の軸が伸びる。歪みかけた輪郭に形状補正が乗り、槍としての線が整っていく。さらに表面固定の補助術式が重なり、薄く張った魔力が氷の外側を固めた。


 発動そのものは、成功している。


 鋭く、綺麗な氷槍だった。


 シエルが指先を向ける。


 氷槍は夕方の空気を裂き、湖畔に立てられた簡易標的へまっすぐ飛んだ。


 命中。


 乾いた音が響き、標的が小さく揺れる。


 だが、そこで終わった。


 氷槍は標的に突き立ったまま、砕けない。着弾と同時に周囲へ氷結を広げるはずの補助術式――氷結拡散が、発動しなかった。


 先端に集まりかけていた冷気だけが、ふっと薄れて消えていく。


「……惜しい」


 シエルは標的に刺さった氷槍を見つめたまま、静かに呟いた。


「今の、かなり形になってたよな」


 ルークが言うと、シエルは小さく頷く。


「うん。形状補正も、表面固定も乗った」


 そこで一度、言葉が切れた。


「でも、氷結拡散までは届かなかった」


 シエルは右手を下ろす。


 その指先には、まだ感覚が残っているようだった。


「もう一回――」


 ルークが問いかけるより先に、ミレイアが静かに首を横に振った。


「今日はここまでにしましょう」


 強い声ではなかった。

 けれど、判断ははっきりしていた。


「今の感覚を追いたいのは分かるわ。でも、混合魔力はまだ安定していない。疲労が出る前に止めるのも、訓練のうちよ」


 シエルは氷槍が刺さった標的を見つめたまま、少しだけ黙った。


「……分かった」


 素直に頷く。


 無理を通そうとはしない。ただ、その声にはほんの少しだけ、名残惜しさが残っていた。


「シエルちゃん、大丈夫ですか?」


 フィアがそっと声をかける。


「大丈夫。無理はしてない」


 カレンは腕を組み、氷槍が刺さった標的を見た。


「今の、本当にあと少しだったわよね」


「うん」


 シエルは頷いた。


 それ以上は言わなかった。

 ただ、自分の右手を一度だけ握り込んでいた。


 夕食の準備のため、全員がコテージへ戻り始める。


 シエルも、何も言わずに歩き出した。


 けれど、ルークは気付いていた。


 彼女が一度だけ、自分の右手を握り込んだことに。


 まるで、消えかけた感覚を逃がさないように。



 その夜。


 コテージの中は、すっかり静かになっていた。


 昼間は誰かの声が響き、夕食の匂いや食器の音で賑やかだったリビングも、今は灯りを落としている。窓の外からは、湖畔を抜ける風の音だけが聞こえていた。


 ルークは自室のベッドに腰かけ、昼間の検証を思い返していた。


 フィアの風。

 ユノの光弾。

 カレンの緋銀槍突。


 そして、シエルの氷槍。


 標的に突き立った氷槍は、確かに綺麗だった。形状補正も、表面固定も乗っていた。


 けれど、最後の氷結拡散だけが発動しなかった。


「……あと少しだったな」


 思わず呟いたとき、小さな音がした。


 こん、こん。


 遠慮がちなノックだった。


「……誰だ?」


 ルークは立ち上がり、扉を開ける。


 そこに立っていたのは、シエルだった。


「ルーク」


「シエル?」


 思わず声が少し上ずる。


 この時間に、シエルが自分の部屋を訪ねてくるのは初めてだった。


「どうしたんだ、こんな時間に」


 シエルは少しだけルークを見上げる。


 表情は大きく変わらない。けれど、その目は昼間よりもはっきりしていた。


「少し、外に来て」


「今から?」


「うん」


 返事は短い。


 けれど、軽い誘いではないことはすぐに分かった。


 ルークは一瞬、廊下の奥へ視線を向ける。


 こんな時間に二人で外へ出るのは、あまり褒められたことではない。けれど、シエルの目は真剣だった。


「……何かあったのか?」


「ある。でも、ここでは話しにくい」


 ルークは少しだけ迷った。


 茶化すような空気ではない。それに、シエルが自分からここまで動くなら、何か理由がある。


「分かった。上着だけ取ってくる」


「うん」


 ルークは部屋の中に戻り、薄手の上着を羽織った。


 二人は足音を抑えながらコテージを出る。


 夜の空気が、少し冷たかった。

 空には星が広がっている。


 湖畔の方へ歩きながら、ルークは隣のシエルを見る。


 シエルは前だけを見ていた。いつもより、少しだけ歩幅が早い。


「シエル」


「うん」


「無理してるわけじゃないよな?」


「無理はしてない」


「ならいいけど」


「でも、今じゃないと駄目な気がする」


 その言葉に、ルークはそれ以上聞けなかった。


 昼間、氷槍が標的に突き立った瞬間、シエルがじっとそれを見つめていたことを思い出す。


 悔しさを声に出すことはなかった。

 けれど、あの視線は、まだ消えていなかったのだと思う。


 湖畔近くの開けた場所に着くと、シエルはようやく足を止めた。


 少し離れた場所には、昼間の簡易標的が並んでいる。その奥では、星を映した湖面が静かに揺れていた。


 シエルはしばらく黙っていた。


 ルークは急かさない。


 やがて、シエルが口を開く。


「もう一度、共鳴してほしい」


「……今からか?」


「うん」


 返事は短い。


 けれど、迷いはなかった。


 ルークはすぐには頷かなかった。


「シエル、今日はもう訓練は終わってる。ミレイア先生も、疲労が出る前に止めるのが訓練のうちだって言ってた」


「分かってる」


 シエルは反論しない。


 止められた理由も、訓練の進め方も理解している。だからこそ、ルークは慎重になった。


「体調に違和感は?」


「ない。痛みも、気分の悪さもない」


「魔力は?」


「少し残ってる。でも、不安定じゃない」


「長くはできない。少しでも変だと思ったら止める」


「うん」


 シエルは静かに頷いた。


 落ち着いている。

 焦っているわけではない。


 けれど、昼間の感覚を逃したくないのだと、ルークにも分かった。


「どうして今なんだ?」


 ルークが聞くと、シエルは昼間と同じ簡易標的へ視線を向けた。


 そこにはもう、氷槍は残っていない。


 けれど、彼女にはまだ見えているのかもしれない。


 標的へ突き立った氷槍。

 砕けず、氷結を広げられなかった、あの未完成の魔法が。


「昼の感覚が、まだ残ってる」


 シエルは静かに言った。


「形状補正も、表面固定も、最後まで乗った。足りなかったのは、氷結拡散だけ」


「ああ」


「でも、届きかけた」


 その声に、ほんの少しだけ熱が混じる。


 大きな声ではない。

 強く訴えるわけでもない。


 それでも、ルークには伝わった。


 シエルは、あの氷槍を諦めていない。


「明日でも、また試せる」


 ルークはそう言った。


 自分でも、少し意地悪な言い方だと思った。けれど、それを聞かずに頷くわけにはいかなかった。


 シエルは小さく頷く。


「うん。明日も試せる」


 そして、自分の右手を軽く握った。


「でも、今の感覚が明日まで残ってるとは限らない。混合魔力の流れ方。術式へ入る感覚。どこで薄れたのか。まだ、手の中に残ってる気がする」


「……だから、今なのか」


「うん」


 シエルはルークを見る。


 星明かりの下で、その瞳は静かだった。


 けれど、揺れてはいなかった。


「無理はしない。長くはやらない。異常があれば止める」


 そこで一度、言葉が切れる。


「でも、今なら、もう少し届く気がする」


 ルークは、すぐに返事をしなかった。


 訓練としての許可は下りている。混合魔力の保持と放出も、ここ数日で大きな異常は出ていない。


 それでも、夜に二人だけで実戦魔法へ応用するのは、ミレイアが想定していた形ではない。


 成果を急ぐつもりはない。

 ただ、シエルの目は、無茶を通そうとしている目でもなかった。


 昼間の感覚を、ただ逃がしたくない。届きかけたものを、自分の手で確かめたい。


 その願いだけは、ルークにも痛いほど分かった。


「……シエル」


「うん」


「どうして、そこまでその魔法にこだわるんだ?」


 シエルはすぐには答えなかった。


 視線をルークから外し、星の映る湖面へ向ける。


 夜風が、二人の間を静かに抜けた。


「私は、魔法が好き」


 少しの沈黙のあと、シエルはそう言った。


 短い言葉だった。


 けれど、それは迷って選んだ言葉ではなかった。


「術式を考えるのが好き。魔力の流れを組んで、形を整えて、補助術式を重ねていくのが好き」


「昔からか?」


「うん。小さい頃から、ずっと」


 その声は静かだった。

 けれど、奥に熱があった。


「頭の中では、最後まで見えてる」


「理想の魔法が?」


「うん」


 シエルは小さく頷いた。


「氷をどう形にするか。どこに補助術式を置くか。どの順番で魔力を流せば、綺麗に繋がるか。全部、頭の中では組める」


 ルークは黙って聞いた。


 言葉は短いままなのに、そこにはずっと溜め込んできたものが混ざっている。


「でも、魔力がそこまで届かない」


 シエルは、自分の手を見る。


 細い指が、昼間の感覚を確かめるように少しだけ動いた。


「術式は組める。形も分かる。でも、最後まで満たせない」


「出力の問題か」


「うん」


 シエルは頷いた。


「扱い方は、練習で上手くなる。魔力の流し方も、無駄を減らすこともできる。でも、魔力器官そのものの出力限界は、簡単には変わらない」


 ルークは息を呑んだ。


 シエルの言葉は淡々としている。


 けれど、その奥には、何度も届かなかった時間が滲んでいた。


「分かってた。魔力量と同じで、生まれ持った差が大きい。訓練で効率は上げられる。でも、限界はある」


「……それでも、魔法士学科を選んだんだな」


「うん」


 シエルは迷わず頷いた。


「一番、魔法を使える場所だから」


 夜風が、シエルの髪を小さく揺らした。


「補助術式を学ぶ道も、魔道具や研究に近い道もあった。でも、私は自分で魔法を使いたかった」


 シエルは自分の手を見る。


「頭の中にある魔法を、自分の手で形にしたかった」


 その声は静かだった。


 けれど、奥にある熱だけは、消えていなかった。


「分かってても、捨てられなかった」


 ルークは、昼間の氷槍を思い出した。


 標的に突き立った、鋭く綺麗な氷槍。

 砕けず、氷結を広げられなかった未完成の魔法。


 あれは失敗ではない。


 でも、シエルにとっては違うのだ。


 頭の中にある完成形を知っているから。

 届かなかった最後の一層が、誰よりもはっきり見えているから。


「今日、届きかけた」


 シエルは言った。


「形状補正も、表面固定も、ちゃんと乗った。氷結拡散だけ、足りなかった」


「ああ」


「でも、今までで一番近かった」


 その声が、少しだけ揺れた。


 ほんのわずかだった。

 けれど、ルークには分かった。


 シエルは悔しがっている。


 怒鳴るわけでも、顔を歪めるわけでもない。ただ静かに、届かなかった場所を見つめ続けている。


「混合魔力なら、届くかもしれない」


 シエルはルークを見る。


「共鳴している間だけじゃなくて、私の中に残った混合魔力で。私の術式に、私の意思で流して、私の魔法として使いたい」


 ルークは、すぐには何も言えなかった。


 シエルが求めているのは、ルークに魔法を完成させてもらうことではない。


 ルークの魔力を借りる。

 けれど、最後に術式へ流すのは自分。


 届かなかった魔法へ、自分の手で届こうとしている。


「怖くはないのか?」


 ルークは思わず聞いた。


 自分の魔力器官内の魔力へ、他人の魔力を受け入れる。いくら検証を重ねていても、怖さがまったくないはずはない。


 シエルは少しだけ考えてから答えた。


「少しはある」


 正直な返事だった。


「でも、ルークの魔力なら大丈夫だと思える」


 ルークは目を見開いた。


 シエルは、照れた様子もなく続ける。


「今までは、意識しすぎてた。自分の魔力と違うものが入ってくるって思うと、少し力が入った」


「……そうだったのか」


「うん。でも、今日は違うと思う」


 シエルは星空を見上げる。


「届きたいから。拒むより、受け入れたい」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、ルークの胸に真っ直ぐ届いた。


 信頼されている。


 それを嬉しいと思うより先に、重いと思った。


 軽く扱っていいものじゃない。シエルが差し出しているのは、ただの魔力ではない。


 ずっと届かなかった理想へ向かうための、一歩だ。


「俺も、少しだけ分かる」


 ルークがそう言うと、シエルは静かに顔を向けた。


「ルークも?」


「ああ」


 ルークは自分の手を見下ろす。


 夜の冷たい空気の中で、指先に灰銀色の魔力をほんの少しだけ滲ませた。


 火でもない。

 氷でもない。

 風でも、光でもない。


 無属性の魔力。


「俺は無属性だから、普通の属性魔法は使えなかった」


 皆が当たり前みたいに火を出し、氷を作り、風を操る。けれど、ルークの魔力だけは同じ形にならなかった。


「形が見えても、そこに届かない。そういう感じは、少し分かる」


 シエルは何も言わなかった。


 ただ、ルークの手に浮かぶ灰銀色の魔力を見ていた。


「今は、届いてる?」


 ぽつりと、シエルが聞いた。


 ルークは少し考えてから答える。


「まだ途中だ」


「途中」


「ああ。でも、一人じゃ届かなかったところには来られた」


 ルークは灰銀色の魔力を消した。


「俺の魔力は、普通の属性魔法にはならなかった。でも、皆の魔法に触れて、支えることはできた」


 シエルは静かに聞いている。


「だから、シエルの気持ちは少し分かる。見えているのに届かないのは、悔しい」


「……うん」


 シエルは小さく頷いた。


 それだけだった。


 けれど、その短い返事が、いつもより柔らかく聞こえた。


「ルークも、届かなかったんだ」


「ああ」


「でも、諦めなかった」


「諦めが悪かっただけかもしれない」


「それは、たぶん同じ」


 シエルがそう言った。


 ほんの少しだけ、口元が緩んだ気がした。


 ルークは思わず目を瞬かせる。


「今、笑ったか?」


「気のせい」


「そうか?」


「うん。たぶん」


 シエルは視線を湖面へ戻す。


 けれど、さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ和らいでいた。


「ルーク」


「ん?」


「私も、届きたい」


 その言葉は静かだった。


 けれど、迷いはない。


「誰かに完成させてもらうんじゃなくて、自分で届きたい。でも、一人だと足りない」


 シエルは、まっすぐルークを見る。


 短い沈黙のあと、静かに言った。


「だから、支えてほしい」


 ルークは、すぐには答えなかった。


 シエルの想いは聞いた。届かなかった悔しさも、届きたい理由も分かった。


 それでも、軽く頷くことはできない。


「……一回だけだ」


 ルークは静かに言った。


「本当に少しでも違和感があったら止める。シエルが続けたいって言っても、俺が止める」


「うん」


「明日、ミレイア先生には全部報告する」


「分かった」


 シエルは小さく頷いた。


 その表情はほとんど変わらない。けれど、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。


「ありがとう」


「まだ成功すると決まったわけじゃない」


「それでも」


 シエルは静かに言った。


「頼めた」


 その一言に、ルークは胸を突かれた。


 シエルが、自分の魔法のために誰かを頼る。

 それはきっと、彼女にとって簡単なことではなかった。



 シエルは、ルークに背を向けた。


 夜の湖畔に、静かな風が流れている。昼間の訓練場とは違って、周囲に仲間達の声はない。


 聞こえるのは、湖面が揺れる音と、二人の呼吸だけだった。


「始めるぞ」


「うん」


 ルークは、シエルの背中へそっと手を当てた。


 一瞬、シエルの肩が小さく揺れる。


 けれど、それだけだった。


 昼間よりも早く、彼女の呼吸が整う。背中越しに伝わってくる緊張が、ゆっくりとほどけていく。


「大丈夫か?」


「大丈夫」


 シエルは短く答えた。


 その声に、無理はなかった。


 ルークは深く息を吸い、灰銀色の魔力を静かに流す。


 強く押し込まない。

 急がない。


 シエルの魔力器官内に貯められた蒼氷色の魔力へ、慎重に触れる。


 今までなら、そこでわずかな硬さがあった。


 シエルが拒んでいたわけではない。ただ、自分とは違う魔力が内側へ入ってくる感覚に、どうしても意識が向いていた。


 その一瞬の強張りが、流れを浅くしていた。


 けれど、今は違う。


 蒼氷色の魔力が、灰銀色を押し返さない。


 避けない。

 警戒しすぎない。


 静かに、重なる。


 ルークは目を細めた。


(今までより、奥で重なってる)


 これまでよりも、ずっと自然だった。シエルの魔力が、灰銀色の魔力を異物として弾いていない。


 蒼氷色と灰銀色が混ざり合う。


 淡い銀氷色の魔力が、シエルの内側でゆっくりと形を保ち始めた。


 魔力器官そのものが変わったわけではない。そこに貯められた魔力が、一時的に共鳴の影響を受けているだけだ。


 それでも、今までとは明らかに違った。


 濃い。


 昼間よりも、ずっと。


「シエル」


「うん」


「今までで一番、混ざってる」


 シエルは少しだけ黙った。


 それから、静かに息を吐く。


「分かる」


 その声は落ち着いていた。


「ルークの魔力が、前より遠くない」


「遠くない?」


「うん」


 シエルは言葉を探すように、少しだけ間を置いた。


「別のものだけど、邪魔じゃない。私の魔力の流れに、重ねられる」


 ルークは、魔力の流れをさらに細く整えた。


 シエルの言葉に合わせるように、灰銀色の魔力が蒼氷色の内側へ溶けていく。


 混ざる。


 でも、染め替えない。


 支える。


 でも、奪わない。


「無理はないか?」


「ない」


「痛みは?」


「ない」


「気持ち悪さは?」


「ない」


 短い確認に、シエルは一つずつ答えた。


 その間にも、銀氷色の気配は薄れない。むしろ、シエルが落ち着くほどに、混合魔力は安定していく。


 ルークは手のひらに集中した。


 ここで欲を出せば、流れが乱れる。もっと濃くしようとすれば、シエルの負担になる。


 必要なのは、押すことではない。


 届くための形を、崩さないこと。


「もう少しだけ保つ」


「うん」


 シエルは頷いた。


 その背中から、怖さはほとんど感じなかった。


 代わりにあるのは、静かな意志だった。


 届きたい。

 自分の魔法を、自分の手で完成させたい。


 その想いが、魔力の流れにまで乗っているようだった。


 ルークは慎重に、最後の調整を終える。


 シエルの内側に、一時的な混合魔力が形を保つ。


 長くは続かない。


 使えば減る。

 時間が経てば薄まる。

 やがて本人本来の魔力へ戻っていく。


 それでも、今この瞬間だけは。


 シエルが望む魔法へ届くための力が、確かに彼女の中にあった。


「……離すぞ」


 ルークが言うと、シエルはゆっくり頷いた。


「うん」


「離したあと、すぐに無理して流すな。まずは自分の中で保てるか確認してくれ」


「分かった」


 ルークは、背中から手を離した。


 触れていた感覚が消える。


 だが、銀氷色の気配は消えなかった。


 シエルの内側に残った混合魔力が、静かに巡っている。


 シエルは目を閉じた。


 右手を軽く開く。


 昼間、消えかけた感覚を逃がさないように握り込んでいた手。


 その手に、今度は淡い冷気が集まり始める。


「……保ててる」


 シエルが呟いた。


 ルークは一歩下がる。


 ここから先は、彼が術式に直接干渉する場面ではない。


 シエルが、自分の中に残った混合魔力を術式へ流す。


 シエル自身の魔法として、形にする。


「いけるか?」


「うん」


 シエルは目を開けた。


 星明かりの下で、その瞳はまっすぐ標的を見ていた。


「今度は、届かせる」


 ルークは一歩下がった。


 もう、シエルの背中には触れていない。灰銀色の魔力を流し込んでもいない。術式へ干渉しているわけでもない。


 ここから先は、シエル自身の魔法だった。


 シエルは右手を前へ出す。


 夜気に、淡い冷気が滲んだ。


 体内に残った混合魔力が、ゆっくりと術式へ流れていく。蒼氷色に銀の気配を帯びた魔力が、細い線となって空中へ走った。


 まず、氷の軸が生まれる。


 形が崩れかける前に、形状補正が乗る。槍としての線が真っ直ぐ通り、表面固定の魔力が氷の外側を包み込んだ。


 そこまでは、昼間も届いた。


 問題は、その先。


 シエルの指先が、わずかに震える。


 だが、呼吸は乱れない。


 銀氷色の魔力が、槍の内側を通って先端へ流れる。


 昼間はここで薄れた。


 氷結拡散の補助術式。

 着弾と同時に氷を砕き、周囲へ冷気を広げるための最後の一層。


 そこへ、魔力が届く。


 シエルの目が、静かに細められた。


「……いける」


 小さな声だった。


 けれど、ルークにははっきり聞こえた。


 氷槍が完成する。


 昼間とは違う。


 形だけではない。

 表面だけでもない。


 先端に集まった冷気が、内側で細く震えている。着弾の瞬間を待つように、術式の最後まで魔力が満ちていた。


 シエルは標的を見据える。


 そして、指先をわずかに動かした。


 氷槍が放たれる。


 夜の空気を、鋭い音が裂いた。


 銀氷色の軌跡が一筋、星明かりの下を走る。


 命中。


 氷槍が簡易標的を貫いた。


 次の瞬間、標的に突き立った槍の先端が細かく砕ける。


 ただ砕けたのではない。


 砕けた氷片が冷気を帯び、標的の表面へ白い霜を走らせた。ひび割れた氷が、枝のように広がる。


 氷結拡散。


 昼間は起こらなかった最後の効果が、確かに発動した。


 シエルはしばらく、その光景を見ていた。


 標的に広がった氷。

 夜気に散る白い冷気。

 自分の術式が、最後まで届いた証。


 その横顔は、いつも通り静かだった。


 けれど、ルークには分かった。


 シエルは今、動けないほど大きなものを見ている。


「……届いた」


 その声は、とても小さかった。

 ただ、確かめるような声だった。


 ルークは頷く。


「ああ」


 シエルは右手を見下ろした。


 もう一度だけ術式を組もうとする。だが、空中に生まれかけた氷の線は、すぐに揺らいだ。


 銀氷色の気配が、さっきよりもずっと薄い。


 シエルは無理に続けず、右手を下ろした。


「二本目は、まだ無理」


「十分だ」


 ルークはすぐに言った。


「今ので進んだ」


 シエルは標的へ視線を戻す。


 氷結は、もう広がっていない。ほんの一度だけの成功。


 それでも、そこには確かに、シエルが届かせた魔法の跡が残っていた。


「うん」


 シエルは短く答えた。


 そして、ほんの少しだけ目を伏せる。


「私の魔法で、届いた」


「シエルの魔法だ」


 ルークがそう言うと、シエルは黙って頷いた。


 大きく喜ぶことはない。

 声を弾ませることもない。


 けれど、夜の湖畔に立つシエルの表情は、昼間よりずっと柔らかかった。


 標的に残った氷が、星明かりを受けて淡く輝いている。


 その光を見つめながら、シエルはもう一度だけ、小さく呟いた。


「……届いた」



 標的に残った霜は、星明かりを受けて細く光っていた。


 昼間には届かなかった最後の一層。

 それが、確かにそこに残っている。


 もう一度試す必要はなかった。


 混合魔力が大きく薄れたことは、さっき確かめている。今の完成度で氷槍を放てるのは、まだ一度だけ。


 それでも、届いた。


 その事実だけで、今は十分だった。


 ルークはすぐには声をかけなかった。


 湖面には、星が映っている。風が吹くたびに、星の光が細かく揺れた。


 シエルは夜空を見上げる。

 ルークも、隣で同じ空を見た。


 何かを言わなくてもいい。

 今は、その沈黙が心地よかった。


「ありがとう」


 ふいに、シエルが言った。


 ルークは少しだけ目を瞬かせる。


「俺は、少し手伝っただけだ」


「それでも」


 シエルは夜空を見上げたまま続ける。


「一人だと、届かなかった」


 その言葉に、ルークはすぐには返せなかった。


 シエルの氷槍は、シエル自身が完成させた。術式を組み、混合魔力を流し、最後まで届かせたのは彼女だ。


 けれど、そこへ至るまでには、ルークの魔力が必要だった。


 一人では届かない。

 だから、支える。


 それは、今のUクラスそのものの形にも思えた。


「俺も、一人じゃここまで来られなかった」


 ルークが言うと、シエルは横目で彼を見る。


「同じ?」


「たぶん、少しな」


「そっか」


 シエルは小さく頷いた。


 それきり、しばらく黙る。


 気まずい沈黙ではなかった。


 標的に残った氷が、少しずつ夜気に溶けていく。広がった霜も、時間が経てば消える。


 混合魔力と同じだ。


 永遠に残るものではない。使えば減り、時間が経てば薄れていく。


 それでも、届いたという事実は消えない。


「戻るか?」


 ルークが聞くと、シエルは少しだけ空を見上げたまま答えた。


「もう少しだけ」


 珍しく、すぐには戻ろうとしなかった。


 ルークは頷く。


「分かった」


 二人はそのまま、星空を見上げた。


 夜風は冷たい。

 けれど、急いで戻るほどではない。


 言葉にすれば、きっと大げさになる。


 だから二人は、何も言わずに星を見ていた。


 届かなかったものに、一度だけ届いた夜。


 その静かな余韻を、少しでも長く残すように。



 翌朝。


 朝食を終えたあと、ルークとシエルは昨夜のことを全員に報告した。


 リビングに、少しだけ静かな空気が落ちる。


 最初に反応したのは、ミレイアだった。


「夜に二人で検証したのね」


「はい」


 ルークは素直に頷いた。


「予定外だったのは分かっています。すみません」


 隣で、シエルも小さく頭を下げる。


「私が頼んだ」


「それでも、止める判断をするのはルークの役目でもあったわ」


 ミレイアの声は厳しすぎない。

 けれど、軽く流す気もなかった。


 ルークはもう一度頷く。


「はい。体調と魔力の違和感は確認しました。長くはやっていません。終わったあとも異常はありませんでした」


「今は?」


 ミレイアがシエルを見る。


「問題ない」


 シエルは短く答えた。


「痛みも、気分の悪さもない。混合魔力は、もうほとんど薄れてる」


 ミレイアはしばらくシエルの様子を見てから、小さく息を吐いた。


「次からは、事前に報告しなさい」


 ミレイアの声が、少しだけ硬くなる。


「訓練としての許可は出したわ。でも、夜に二人だけで実戦魔法への応用を進めるなら、先に相談してほしかった」


「はい」


 ルークは素直に頷いた。


「結果として成果は出た。でも、再現性も、消耗も、まだ確認が必要よ」


「分かった」


 シエルも短く答える。


 ミレイアは二人の様子を確認してから、小さく息を吐いた。


「ただし、成果そのものは大きいわ」


 その言葉に、カレンが身を乗り出す。


「成功したのよね? シエルの氷槍」


「うん」


 シエルは頷く。


「ルークが手を離したあと、残った混合魔力を自分で流した。氷結拡散まで乗った」


「つまり、昨日届かなかった最後のやつまで?」


「うん」


 フィアの表情が明るくなる。


「シエルちゃん、すごいです」


「すごくはない」


 シエルは淡々と返す。


「一度だけ」


「でも、一度できたのは大きいです」


 フィアは柔らかく笑った。


 シエルは少しだけ視線を逸らす。


「……うん」


 カレンは腕を組み、悔しそうにしながらも口元を上げた。


「シエルが先に行ったってことよね。なら、私も負けてられないわ」


「カレンは、まず標的の方へ飛ぶところから」


「シエル!」


 昨日と同じように言い返すカレンに、リビングの空気が少し軽くなる。


 けれど、ミレイアはそこで話を戻した。


「成果としては大きいわ。でも、完成ではない」


 全員の視線がミレイアへ向く。


「成功は一度だけ。混合魔力は使用後に大きく薄まった。連発、大規模魔法、長時間維持はまだ無理。再現性も確認できていない」


「分かってる」


 シエルは素直に頷いた。


「まだ一度だけ」


「そう。だから、今日から確認することは増えるわ。保持時間、消耗、再現性。それから、成功した条件」


 ミレイアはルークとシエルを交互に見た。


「昨夜は、昼間より混合魔力の濃度が高かったのよね?」


「はい」


 ルークは頷く。


「シエルが、今までで一番自然に受け入れてくれた感じがありました。押し込むというより、流れに重なったというか」


「信頼の影響は、やはり大きいかもしれないわね」


 ミレイアは考えるように言う。


「ただ、それも感覚だけで断定しない。今日以降、慎重に見ていきましょう」


「はい」


 ルークは頷いた。


 その横で、ユノは静かにシエルを見ていた。


「最後まで届かせたんだ」


「うん」


 シエルが頷くと、ユノは自分の指先へ視線を落とした。


「私も、もう少し進めるかもしれない」


 小さな呟きだった。


 ミレイアはユノを見る。


「焦らないこと。あなたの場合、まず大事なのは、周囲への干渉を抑えたまま安定させることよ」


「分かってます」


 ユノは静かに頷いた。


「皆の近くで、普通に戦えるようになりたい」


 それ以上、ユノは何も言わなかった。


 けれど、その短い言葉だけで十分だった。


 シエルが一歩進んだことで、ユノも、カレンも、フィアも、それぞれの先を見始めている。


「じゃあ、今日の訓練も慎重に進めるわよ」


 ミレイアが手を叩く。


「はい!」


 カレンが元気よく返事をする。


 フィアが柔らかく頷き、ユノも静かに顔を上げる。


 シエルはいつも通りの表情で、けれど少しだけ軽くなった声で言った。


「次は、もう一度できるか試す」


「その前に、朝の片付けね」


 ミレイアがさらりと言う。


 シエルは一瞬だけ黙った。


「……分かった」


 カレンが笑う。


「まずは皿洗いからってことね」


「それも検証?」


「違うわよ」


 軽い笑いが、リビングに広がる。


 それでも、全員の胸には昨夜の成果が残っていた。


 翌朝。


 シエルの氷槍は、一度だけ理想に届いた。


 器官干渉型共鳴は、まだ完成していない。


 それでも、一人では届かなかった場所へ、誰かとなら少しずつ近付ける。


 昨夜の氷槍は、そのことを確かに示していた。

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