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9.1992年4月、ニューヨーク、マンハッタン

 ニューヨークのビルは、新しいものだけでなく、歴史的で趣のあるものなども多数入り混じっている。


 ショウは無言で車に座していた。


 ニューヨークの景色をわざわざ眺めることはしない。そう珍しい風景ではないからだ。

 打ち合わせでも何度も訪れた。まあそれ以前に、ショウにとってニューヨークは、ある程度は知っている街であったのだ。


 ショウはニューヨーク生まれなのである。


 八歳までをアッパー・ウエスト・サイド、その後二十歳(ハタチ)までを日本で過ごした。

 二十歳の誕生日直前に日本国内の役所で日本国籍の宣言を行ったが、アメリカ国籍はそのままなので、重国籍状態が維持されていた。一応、違法性はない。


 とは言え、それ以降アメリカの地を踏んだのは仕事の時のみで精々が二十回程度。

 父の仕事に同行し、八歳から十九歳までの間にアメリカへと出入りした回数の方がはるかに多いくらいだ。


 特にニューヨークは出身地ではあるが、訪れた回数はそう多くはない。離れて久しいとなるとその街並みには懐かしさよりも物珍しさがあるものだが、しかし街の匂いは幼少期の記憶としてキッチリ染み付いておりそのような感覚もさほどない。


 建物はあちこち変わっているものの、ここで放り出されても迷わない程度には地理は染み付いているのだから、幼少期の記憶というものはなかなか侮れないものだ。

 そうこうしていると、パーク・アベニューに入ったことを運転手——、スタインお抱えのだ——、に告げられた。


 ショウがニューヨークへと到着してから二週間が経っていた。


 スタインの手引きで、ショウが持ち込んだスフェーンは第三者機関——、最も権威があり、正確性の高い鑑定をするとされているAmericanアメリカ Gemological《宝石》 Laboratory《鑑別所》、通称AGLへ送られ鑑定を受けた。


 ショウが想像した通り、スフェーンのうちの一つはオレンジ色を呈する見事なダイヤモンドであると確定されたのだった。


 その後にアンダーソン夫人への根回しを済ませ訪問の許諾を得たわけだが、彼女は電話越しでもその興奮が伺えるほどであった。


 完全なるダイヤが見つかった。サンプルをお見せするまでもないほどに完璧なダイヤである。


 その旨を至極丁寧な言葉で伝えると、弾むような声で彼女は「来訪を楽しみに待つ」と告げたのだった。

 そしてその引き渡し日はいよいよ今日、というわけだ。


 歩いた方が早いがまさか数百万ドルの石を抱えて徒歩というわけにもいくまい。

 蟻の行列じみた渋滞に巻き込まれながら、ショウは小さくため息をついた。


 このあたりのビル群は、織り目正しく規則的に整列している。

 子供時代にもあまり近寄った記憶はないが、ただこの整然とした雰囲気はよく覚えていた。


 朝眠いまま父に抱き抱えられ、どこに行くのかとぼんやりとしているうちにニューヨークの其処彼処に降ろされ、「さあ家までの道を案内してくれ」などと父に言われたことは一度や二度の話ではなかった。

 日によって地域は変わったが、この場所にもそのような遊びの延長で幾度か訪れたのだ。


 ふと、ニューヨーク・タイムズから視線を持ち上げると爪が少々荒れていることに気づく。

 貧乏臭く見えない程度には整えてはいるのだからまあ、合格ラインではあろう。


 それにしても見事なビルの森だ。

 空を目指すように伸びるビル群。人々の生活を見下ろす彼らには、このニューヨークはどんな風に見えるのだろう。


 自然豊かなケープタウンに根差して長いショウには緑の少ない風景というものは少々味気なく思える。

 美しく整えられたセントラルパークは素晴らしいが、人工的な趣きがやや強く感じられるのだ。


「ミスター、間も無くご到着です」


 運転手に告げられ、ショウはちらりと窓の外を見遣った。


「ミスター・サトナカ、ニューヨークは初めてですか?」


「いいえ。でも、パークアベニューには数える程度しか入ったことがないですね」


 そのうち数回は、アンダーソン夫人へのサンプル提出も兼ねていた。


「私もミスター・スタインのお供で訪れる程度ですね。庶民は少々気後れしてしまいます」


「私もそうですよ」


 運転手の言葉にショウは頷きながら答える。


 パークアベニューは、ニューヨークの中でも富裕層がこぞって居を構える場所だ。

 石造りの美しい高級アパートメントやタウンハウスが立ち並ぶが、そのどれもが目眩のするような金額であろうことは安易に推測される。

 残念ながら、ショウにもまた、縁のない世界である。


 新興の富豪であるアンダーソン夫人が居を構えるのもここマンハッタンはアッパー・イースト・サイドのパークアベニューであるが、パークアベニューには新規の転居が難しいとのことである。

 もしかしたら、アンダーソン夫人、もしくは彼女の夫であるトーマス・アンダーソン氏に強いコネクションがあるのかもしれない。


「ご到着ですよ、ミスター・サトナカ」


 車は、歴史深い伝統的な造形のコープの前に静かに停車した。まるでヨーロッパの宮殿だ。


 金属製の門扉、その横の小さなドアから、男が一人姿を現した。身なりがきちんと整えられている。服装は清潔であったし、着崩されてもいない。髪もしっかり、丁寧に撫でつけられていた。


 彼は無表情のまま車をじろりと見遣り、車内の確認を行なった。


 運転手が「ヘレナ・アンダーソンの客だ」と説明する。 男はショウを見た。ショウも平静を装ったまま彼をチラと見った。

 一応は、と微笑みの形を作るが、彼が笑顔を返すことはなかった。

 

 ここのドゥーマ——、セキュリティスタッフはいつもこうなのだ。無駄な愛想を振りまかない。


 それにしてもやたらとガタイのいい男だ。

 一見優男ではあるが、しかし衣類の下の筋肉がかなり鍛えられていることは安易に知れた。

 その上、ジャケットの中に彼は銃器の類を隠し持っているではないか。

 どれくらい実戦に耐えうるかは判らないが、そういうものが出入り口を守っている事実が重要なのだろう。


 ひとしきり車内を確認した彼は頷き、それから中に向かって何やら合図を送る。

 門扉を開け放つよう、もう一人のスタッフへと命じたようだ。


 やがて開け放たれた門扉を通過すると、そこはニューヨークの喧騒を忘れたかのような空間が広がっていた。


 建物のは回廊型に建設されており、今車が乗り入れられた空間の真ん中には、手入れされてコケ一つ生えていない白亜の噴水があった。

 いつ見ても見事である。


「ミスター」


 声をかけられ、車外へ出る。

 ショウは警護スタッフに付き添われて最上階——、ではなくその一つ下の階へと向かったのだった。

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