7.1992年4月ニューヨーク、ダイヤモンド・ディストリクト
ドンブウェからロンドンまでが十三時間程度、それから乗り継ぎの待ち時間が三時間強、ロンドンからニューヨークまで八時間と少し。
丸一日を掛けての移動でようやく辿り着いたニューヨークは、肌寒かった。
エイプリルシャワーズ——、そんな言葉があるように、雨が降っては止むというような空模様を呈しているのだ。
四月には珍しい積雪もあり、セントラルパークでは1インチ(2.5センチ程度)が記録されたらしい。
しかし今日のような天気はまあ通常運転の範囲内だ。北半球の風物詩と言ってもいい。
車内はそんな自然的な不便さをものともしない暖かさであった。僅かに暖房を効かせた車内は快適そのものである。
だが、腰の方はそう快適とは言い難いのは事実だ。ショウはこっそりとため息をつく。
JFK国際空港を出発し、二時間近くが経っていた。
渋滞はここニューヨークでは常なることだ。ゆえに運転手にも焦った様子はまるでない。流石ニューヨーカー、渋滞は彼らの日常で、ない方が不自然なものなのだ。
とはいえ長時間のフライトを終えた後に二時間弱もの乗車。腰はそろそろ文句を言いたげである。が、こればかりは誰の所為でもなく、仕方のないことだ。
ともあれ、ニューヨークだ。世界経済の中心、ニューヨークである。
「上手くいくかねぇ……」
あの老獪を丸め込む必要があった。なんとも憂鬱だ。
ショウは車内からニューヨークを眺めた。
ニューヨークに入っても、すぐさま賑やかな街並みになるわけではない。
その景色が一変するのはやはりイースト川を超えた辺りからだろう。突然ビルの森に迷い込んだかのように、高層ビルばかりとなるのだ。まさにコンクリートジャングルと呼ぶに相応しい風景だ。
「着きましたよ」
運転手に言われて車外に出る。襟元から少しばかり冷えた空気が入り込む。
ウエスト47丁目5番街。
宝石関連の店舗やオフィスが軒を連ねる地域、所謂ダイヤモンド・ディストリクトである。
目指すスタインのオフィスもここにあった。
五分ほど歩いたところでショウは立ち止まった。
古いものの、建てられ頃には白亜であったのだろうと推測されるビル、その入り口は精緻なレリーフで飾られていた。
このビルの四階がスタインの城である。
「ミスター、」
呼び止められスタインを訪ねてきた旨を伝えると、二、三の確認後にあっさりと通される。
紳士然とした、一見武装をしているとは判らぬ風体の男によって扉が開けられ、そうしてショウはそのオフィスに足を踏み入れたのだった。
オフィスの奥、ゆったりとエグゼクティブチェアーに腰掛けた男がニヤニヤとしながらショウを見ていた。
「アポなし訪問とは頂けないな、坊や。社会に出たてのガキじゃあないんだ、宝石商を名乗る以上、誰よりも礼節を欠かさずに最上級の紳士然としていなさい」
「紳士がどうのとアンタに言われたくないですね、ミスター・スタイン」
——やれやれ、これだから坊やだというのだ。
そんな風に頭を振るう仕草に苛立ちが生まれるが、それをお首にも出さない。
誰にでも人間的に合わない存在というものがいる。ショウの場合はこのスタインだ。
父は彼と親しくしていたが、しかしその父とて彼を友達と考えていたわけではなく、単純に宝石商の知り合いとして接していただけに過ぎない。
ショウに至っては彼とは合わない以上、必要以上に接触を持つつもりはなかった。
だが、スタインの方がショウに近づいてくるのだ。
ショウは端的に言えば、この老獪が嫌いだ。
若手宝石商に経験を積ませてやっている、などという如何にも先輩の好意とでも言いたげな名目で、たびたび無茶な仕事を押し付ける。
押し付けた挙句にショウを紹介したとして依頼主から紹介料をせしめているのだ。
つまりショウがニューヨークの富豪の一部で宝石商として名が通っている原因、その半分ほどは彼にあった。
それも迷惑極まりないことであるが、ショウは彼の態度が気に入らなかったのだ。
「坊や、宝石商たるもの常に表情をコントロールしなければならないよ」
「あんたが相手の時だけですよ」
スタインは再びおかしそうに笑った。
ショウはと言えば、まったく面白くはないわけで、渋面を維持し続けている。
「睨むんじゃあないよ、坊や」
「睨まずにいられますか。あんたは無茶を投げすぎる」
色石ならともかく、富豪たちが欲しがるものと言えば形、大きさが特殊なダイヤ、それが大半だ。
しかし実のところ、ニューヨークはダイヤが集まる大都市の一つだ。つまり、ニューヨークにないダイヤならば世界のどこにもない可能性が高いのである。
そこでよくされる誤解は、アフリカは採掘国なのだからダイヤの入手も容易いのでは? という類のものだ。
その都度、ショウは「否」と断じている。
ショウの住む南アフリカ共和国は、確かに採掘国ではあるがしかし掘り出したダイヤをショウのような一介の宝石商が好き勝手に買えるわけではない。
世界中のダイヤを採掘し、研磨し、流通に乗せるのは、ダンペイ社である。
ダンペイは世界のダイヤ、その九割の流通をになっており、それは南アでも同じことなのだ。
南アで採掘された石は一旦はロンドンのそのダンペイ本社へと運ばれる。
その後選別され、南ア国内に戻るのは一般的な石——、形、扱いやすいという意味だ——、なのである。
つまり、富豪の求めるような変わった趣のダイヤとなると、ロンドンかあるいはニューヨーク、アントワープを漁る方が早い、というわけだ。
ニューヨークのスタインが「ない」と判断したものを、ショウはあるかどうかも判らぬまま世界中を駆けずり回り探すことになるということだ。
「ポーカーフェイスもできないくらいにお疲れかい、坊や。飛行機では眠れなかったのかい?」
揶揄う声に苛立ちが募る。
誰のせいだと思っているという言葉は飲み込み、ソファにどさりと座り込む。
「いい加減若手宝石商に仕事を放り投げるのやめてもらっていいですかね」
「情けないね。私が若い頃はいくつもの国境を徒歩や電車で超えたものさ」
グッと言葉に詰まる。何も言い返せないではないか。
「……とにかく、いい加減若手を揶揄う仕事はやめていただきたいですね。ダイヤは利益をあげにくい。だからあんたもこちらに押し付けているんでしょう。まったくタチが悪い」
「おやおや、若者が甘ったれたことを言う。経験を積めるだろう? お釣りが来るくらいだ」
「お釣りなんてありゃしませんよ。判っているでしょう。ダイヤは利益が出にくい」
ショウはあからさまに舌打ちして見せた。
南アといくつかの国、それからニューヨークを行き来することはなかなかの重労働である。
であるにも関わらず変わらず、利益が生まれにくいのには理由があった。
標準価格表の存在だ。
つまり、ダイヤはおおよその価格というものが決まっている、ということだ。
ダイヤの捜索費用を上乗せするにも限度がある。ダイヤそのものにはラパポートから大きく外れる金額を提示することはできない仕組みが確立している。
つまりショウは、南アを飛び出しいくつもの国を跨ぎ、ようやく見つけた変わり種のダイヤについて、労力に見合うだけの金額を受け取ることができない、というわけである。
ラパポートの対象外であるファンシーカラーダイヤならば上乗せは可能であるものの、しかし天然で色付きのダイヤはそれそのものが数が少なく探すには苦労が付きまとう。
よって、ダイヤを探せとの依頼はあまり受けたくないのが本音だ。
スタインはそういった面倒を自らが踏むのを厭い、二十八の若造に仕事を押し付ける。そんな老人を果たして紳士と言えるだろうか。
「君、下りなさい」
警備員へとスタインが告げる。
「ミスター・スタイン、ですが……」
「大丈夫、坊やは紳士さ。なにもしやしない」
オフィスに静けさが訪れる。
(|Old bastard……)
「それで? 用事があって来たのだろう?」
スタインに促され、ショウはアタッシェケースを目の前に置いた。
「スフェーンがいくつかある。確認してくれ。特にそのうちの一つは完璧なスフェーンだが、なにか違和感がある」
老獪が何事かを口にする前にとアタッシェケースを開いて中を見せる。
「どれもこれも5カラット以上の一級品だ」
スタインは目を眇めるとそれをジッと見た。気づかなければ間抜けと罵られても反論できまい。なにせ彼は宝石商だ。
ショウはその間抜けに徹したわけではあるが、スタインほどの男——、ニューヨークのトップディーラーたるこの男にその言い訳ができるはずがなかった。
「どれかを買い取ってくれ」
スタインは無言で10倍ルーペを取り出し、6カラットに及ぶあのスフェーンを覗き込む。
驚いた様子もない。
流石、第二次世界大戦を生き抜いた男だ。ちょっとやそっとでは動揺などしやしない。
続いて18倍ルーペ。それを済ませるとようやくダイヤモンドテスターの出番である。 室内に小さな音が響く。
「よいスフェーンだな、坊や」
スタインは短く言った。
「だがまぁ、鑑定は必要だ——、私は坊やから買い取ったいくつかのスフェーンを鑑定に出した。坊やの手元に残ったこの大粒のスフェーンもついでに私の名前で鑑定に出してやった。それがダイヤだと発覚した。その石を坊やはアンダーソン夫人に売り払い、その後150万ドル程度を手に入れ納税をする。この筋書きでいいかい、坊や」
ショウは頷いた。
ショウはドンブウェから命を狙われることは避けたかった。
だからショウはこの石を「スフェーンとして」合法的にアメリカに持ち込む必要があったのだ。
入国前に事が露見するのは最悪だ。ドンブウェが取り戻せる石、その照会がドンブウェまで飛んでしまうことになる。それは即ち、没収の危険性を孕んでいた。また、ショウが故意にダイヤをスフェーンとして掠め取ったのではないかと疑われ、追求を受ける可能性もあった。
もっと悪ければ殺されるだろう。
しかしショウは見事、この石をスフェーンとして税関を通過させたのだ。
アメリカの税関を通過した時点で、これらのプロセスは「スフェーンと申告された石の持ち込みを、アメリカ政府が承認した」ことになる。
これで「ショウがダイヤをスフェーンと誤認した」ことがアメリカ政府の名のもと、事実として成立したわけだ。
「数の辻褄はどうするんだい」
「うち一石、カラーサンプルとして南アから持ち出したものですよ」
「周到なことだな」
「意図はありませんでしたよ」
これは本当だ。ただ、ドンブウェで希望に即するダイヤが見つかると言う、まさかのイレギュラーが発生しただけだ。
——ショウがドンブウェから買い取った石は五石であった。
仮にこれをABCDEとしAがダイヤと目される物とする。そこに南アから持ち込んだFを加える。
ショウはA以外のいくつかをスタインに売る。
それはBCDかもしれないし、CDEかもしれない。
だがショウはここに、スタインへの売却にFも加える。それはドンブウェの預かり知らぬことだ。
「で、どれが南アからの石だい」
「これです」
ショウは右端のイエローブラウンの石を指した。
「では私は坊やからこれと……、そうだな、こちら……、それにこちらを買い取ろう」
「判った」
「送金はいつもの口座でいいかい」
「それで構わない」
「すぐに送金させよう」
スタインはデスクのベルを鳴らした。
すると屈強な大男が現れて、スタインの指示を聞いていく。
「……畏まりました」
「悪いね、早急に頼むよ」
「はい。今から銀行に行きます」
男はちらりとショウを見たが何も言わなかった。
「……、さて、これで私は坊やからスフェーンを買い取った事実が作り上げられた」
スタインはCD、それにFを買い取った。
ショウの手元に残ったのは、BとE、それにAだ。
「で、それもついでに私の名義で鑑定に回す。そうだな、私が抱えている在庫のうち、名称不明の石も一緒に鑑定に出そう」
「助かる」
ショウはAもスタインに預ける。この石はスタインの名義で鑑定に出され、おそらく「ダイヤモンド」のラベルを携えこのオフィスに戻ってくる。
ショウはそれを速やかにアンダーソン夫人へと売却する。
ショウの手元に残った石は、BとEだけとなった。
これでスタインが鑑定に出したのは、スタインの在庫なのか、ショウからランダムに買い取った石なのかが書類上は判らなくなる、というわけだ。スタインが買い取った石は三つ。数に齟齬もない。
のちにドンブウェがショウの落札物にダイヤが含まれていたと気づいたとしても、ショウに残されているものはスフェーンを売った履歴と二石の売れ残りのスフェーン、BとEだけだ。
ショウはスフェーンを売っただけ。そう言い訳の立つだけの体裁が整っている。
Aのダイヤがどこに行ったのかをドンブウェが追跡することはできない。ショウとスタインのやり取りが、このオフィスをブラックボックス化させたからだ。
「坊や、今回の取引、私に旨みが何もないのだが?」
「馬鹿を言わないでくださいよ。あんたの投げた仕事を何度も引き取ってきた。これでチャラだ」
「だがそのおかげで各国のサイトホルダー、その営業と軽口が叩ける仲になっただろ? あるいはバーで食事でもしているか?」
「それは結果論でしょう」
「やれやれ、年々父親に似て可愛くなくなっていく。まあいい。今回は手を貸してやろう。だがな、坊や、覚えておきなさい。私は商人だ」
スタインが手を差し出した。
「|Mazal u'Bracha」
「……」
スタインは狡猾な男である。だが、約束を何よりも重んじる男でもあった。
第二次世界大戦の最中、多くの裏切りにあい命を落としかけると同時に、多くの約束によって生き延びた過去があるからだろう。
スタインは裏切りを許さない。
約束を反故にすることは絶対にない。
スタインが「こうする」と言ったことは覆ることがない。
そう確信できるほど、ショウとスタインは長きに渡る付き合いが——、残念ながら——、あるのだ。
そして自分がどういうわけかスタインに気に入られている自覚もあった。なくすと惜しい、という程度なのだろうが。
『程よい距離感で付き合え。彼は存外役に立つ。ただし利用されるなよ』
いつだったか、父がそう言っていたのを思い出す。
ショウはスタインの手を握り返し、Mazal u'Brachaと返したのだった。




