14.1992年10月下旬、ニューヨーク
十一月も目前のニューヨークの夕方である。
南アは春だがこの時期、ニューヨークはほぼ冬だ。
クソ寒い、の言葉を飲み込んでアメリカへと入国を果たしたわけではあるが、しかしコープの中はこれでもかというほどに温められており快適であった。
ビバ・セントラルヒーティング。ビバって何語だっけ? などと思いながら、ショウは用意されたお紅茶を頂いていた。
ショウは体が深く沈み込むソファに凭れながら、アンダーソン夫人とそのお友達であるライアン・スミスを目の前に微笑みを浮かべていた。
つまりなんだ、依頼である。それもとびきり胡散臭いやつ。
10カラット級のピンクダイヤが欲しい、とのことであった。
「それでね、石を探すのならショウがいいんじゃないかしら、って話になってたのよ」
その胡散臭さに気づいていなのか、アンダーソン夫人は優雅な笑み浮かべている。
ショウはちらりとスミスを見た。
マシュー・ミラーの名を全面に出しての接触であるから何事かと思えば、蓋を開ければ依頼はスミス個人によるものであった。
アジア人然とした顔立ち、しかし洋風の名前から、彼の出自は香港かどこかであろうと推測される。華僑のお客は初めてであるが——、チラリとスミスを見遣る。
(不自然過ぎる。なんの罠だ)
なぜマシュー・ミラーの宝石商を通さない?
個人の依頼だというのならなぜマシュー・ミラーの名を出した?
いくつかの疑問が頭を擡げるが、正直なところ、そんなことは瑣末な問題であった。
まともな仕事とは言い難いだろうということは想像するに容易い。
ならばショウにできることはただひとつ。
逃走である。
しかし問題はどう逃げるかだ。ショウの頭の中はそればかりが駆け巡っていたのだ。
「アンダーソン夫人のダイヤを見せてもらってね。うちの宝石商に個人の依頼を出すわけにはいかなくて……、知っているだろう、我々の歴史を」
(このクソ野郎が)
ショウは腹の中で暴れる苛立ちをいなすように、笑顔を崩さず首を縦に振った。
——マシュー・ミラーとダンペイとの間で囁かれる確執を、宝石業界と関わりの深い者ならば誰もが知っていた。
(最悪だ)
笑顔で対応をしているだけで花丸だろう。
「君は私どもがダイヤを買えないのは知っているだろう?」
「ええ、まあ……」
「先代の方針でね。うちはダンペイとは距離を置いているんだよ。君も判るだろう?」
一体何が判るというのか。
先代が華僑と婚姻したことによって、マシュー・ミラーは彼らにひどく好意的だ。
ダンペイは一九九〇年以降、ダイヤの研磨を中国からインドへと多く移した。
人件費、量産性、政治的安定がその理由だろう。それによっていくつもの中国企業が廃業を余儀なくされたという。
そのころにマシュー・ミラーは方向転換を発表した。
ダイヤをブランドから締め出したのである。
ブランドとしての方向転換、若者向けへと舵を切ったことが理由とされているが、ようは誇りをかけたブランディングということなのだろう。
同胞を窮地に追いやった巨大企業を許さない——、そんなところであろう。
だが、である。そもそもそれ自体が無謀な挑戦というものだ。
マシュー・ミラーは世界のダイヤ、その流通の九割を手掛けるダンペイに逆らったのである。
お得意様である夫人の顔を立ててニューヨークまでやってきたわけではあるが、「危ない橋を渡ってくれ」などという依頼を受けられるはずもなかった。
「サイトホルダーと直接取引された方が、私へと依頼をするより確実かと……」
力不足で申し訳ない、と形だけの謝罪をするが、どうやらスミスはそれを受け入れるつもりはないらしい。
強固な姿勢だ。
なんとしてもピンクダイヤが欲しいらしい。
だからこうしてショウにこうして御鉢が回ってきたのだろうが、ショウはこの仕事を受けるつもりは頑としてなかった。
そもそも何故ピンクダイヤが欲しいのかが不明だ。
いや、そんなことは関係ない。
どんな理由であれ、自分の尻は自分で拭くべきである。
マシュー・ミラーのその気骨は買うが、それによって生じた負債を、無関係のショウが共に背負う必要はどこにもないはずだ。
仮にこの依頼をショウが受けたらどうなるかなど、火を見るより明らかだろう。
今まで築いてきたサイトホルダーのその営業窓口との関係が、急速に冷え込むことは間違いない。
冗談ではない。
夫人を盾にしているのも気に食わなかった。
同じアジア人だからその矜持を理解してくれるだろうとでも言いたいのだろう。先ほど発言からそれは見て取れる。しかし華僑の問題は華僑で片付けるのが筋だ。
夫人を噛ませて断りづらくしているのがなんともクッソタレの所業である。
夫人はいつも通り人好きのする笑顔を浮かべている。
困ったものだ。
夫人は新興の富豪のせいか、こういったやり取りに裏がない。おそらく純粋にスミスを助けたいと考えているし、純粋にショウにいい仕事を回したいとも考えている。
いつか足元を掬われますよ、夫人。そんなことを考えながら、ショウは口を開いた。
「……、ミスター、申し訳ありません。こちらのお仕事、お引き受けするわけにはまいりません」
夫人の顔が笑顔から困惑に変わる。
「私はただの宝石商。政治の話が混じったお仕事をお引き受けするなど、とてもではないができません。私の宝石商生命に関わります」
馬鹿だなぁ——、ショウは柔和な笑みを浮かべたまま侮蔑した。
はっきりと断られるなど思ってはいなかったのだろう。
ショウは夫人からの信頼失墜とダンペイからの締め出し、それらを天秤にかけ、より重みの増す方を選んだまでだ。
お得意様が一人減るが仕方がない。
二の句が継げずにいるスミスが口を開くより早く、ショウは頭を下げて再度「申し訳ありません」と言った。
「夫人も、せっかくのご紹介でしたのに申し訳ございません」
夫人の顔を潰してしまった。
おそらくスミスは夫人よりも立場が「上」、夫人の面目を潰すことは避けたかったがヒトサマの体面を守って自分が磨耗しては仕方がない。
「ですが、代わりと言っては何ですが、私の師とも言える宝石商を紹介します」
スタインに仕事を投げてしまえ。あの男ならばダメージは少ないはずだ。
ダンペイは世界最大のダイヤ関連企業ではあるが、しかし出資者がいるのである。鉱山企業、アズール・モンテ社がそれである。
スタインはアズール・モンテ社のCEOであるカール・アスカロン氏と非常にゆかりが深いのだ。
なんでも、先の大戦で共に戦火を潜り抜けた仲だとか。
そのスタインならば、角も立たずに何かしらの言い訳もたつだろう。
ただ、面倒くさがるであろうということは容易く想像できた。
普段からショウへと仕事を投げることから、そのアスカロンとも愉快な関係性ではないことは明白である。
いつだっか、「出口を塞がれた」と言っていたか。
おそらくスタインの取引について、アスカロンが何かしらの口出しをして大損をしたのだろう。
「ミスター・スタインよね? そのミスター・スタインにはお断りされたのよ、ショウ」
「……ミスター・スタインが……?」
「ミスター・スタインはなんだかここのところ、とてもお忙しいようなのよ。だからあなたを私が推薦したのよ」
嫌な感触がした。
おかしい。
突如として、極めて不愉快な違和感が襲う。
あの爺さんがこんな仕事を逃すはずない——、そう考えたのだ。
依頼は、オレンジダイヤのように見つからなくとも言い訳が立つものではない。ある程度の産出があり、存在が確定してるピンクダイヤだ。
ならばサイトホルダーの営業にショウよりもはるかに顔の効くスタインが動いた方が、獲得は確実だ。
そのスタインが「忙しい」などという理由で、アンダーソン夫人を介した依頼を蹴るだろうか。
スタインが蹴れば話は自然、アンダーソン夫人お気に入りのショウへと流れてくる。
やはり不可思議だ。
まだまだヒヨッコで、やっとサイトホルダーの営業窓口とのコネクションが出来上がってきたショウを窮地に立たせることになるであろうことが判っているにも関わらず、断るだろうか。
ショウの知るスタインは、そこまで無責任ではないのだ。
いやなによりも、そんなくだらない理由で仕事を蹴るなど、自ら顔に泥を塗るようなものだ。そんな真似をスタインがするはずがなかった。
これが事実であるのなら——、スタインが手を引くべき理由があったはずだ。
あるいは、ショウを推薦しなければならない事情が生まれたか、降りざるを得ないなにかがあるのか。
「……困りましたね、ミスター・スミス。私の手には余ると申し上げているのです」
無理だ、できない、で押切って様子を見るしかない。
スミスの唇が微かに震えた。
怒っている。いや、怯えている?
「……」
沈黙が流れる。離脱できない。ショウがここから逃げるには鍵が足りない。
ふと、思いつく。
スミスは本当にピンクダイヤが欲しいのだろうか。
いや、別にピンクダイヤでなくても構わないが、ピンクダイヤだと都合がいいのではないか——、そう考えたのだ。
つまり、指定の地域、あるいは鉱山がある——、そこに誘導したいのではないだろうか。
だが何のために?
懇意にしている鉱山があるのならば取引をすればいいだけだ。
できない理由がある?
そもそも誰からの購入を考えているのだろう。
ここまで一足飛びに考えるが、答えは導き出せずにいた。
流石に飛躍しすぎた思考だろうか。
だが、スミスの意固地な態度に、並々ならぬ圧に、これは普通の取引ではないのだろうという確信と、同時に凄まじい違和感が襲うのだ。
とんでもない事案に巻き込まれているのではないか。アラートが脳裏で鳴り響く。
「……ピンクダイヤの用途は?」
「自身のコレクションに……」
「……なるほど」
購入後も表に出すことはない、ということだ。
つまり真の購入者がスミスの背後にはおり、彼はただのお使い要員。彼は顧客のふりをするだけ。
表に出せない真の購入者、資金は潤沢、わざわざショウのような一宝石商を使いたがっている、スタインはなぜか忙しくてこの仕事を受けられない。
逃げるべき条件は揃い切っている。
関わってはいけない案件だ。
「どちらの鉱山のものをご所望ですか?」
「……、」
何か言い淀むような雰囲気。
指定の鉱山などない、とは言えない——、つまりショウを派遣したい特定の鉱山があると言うことだろう。
その時、電話が鳴った。
アンダーソン夫人は二人を気にしながらも「ごめんなさい」と一言添えて席を外す。
ガタン、という音がして、腕をグイッと引っ張られる。避けようと思えば避けられたが、スミスの出方を見たかったのだ。
スミスの吐息が耳元を掠める。生暖かい空気が気持ちが悪い。
「オレンジダイヤは素晴らしい品だった。どんな手を使って手に入れたんだ?」
「——、」
オレンジダイヤだと、とショウは面食らう。
こいつは馬鹿か——、とため息を飲み込み、ドサリとソファに腰をかけ直すスミスを見た。
何かスッキリとした表情さえ浮かべている。
わざわざオレンジダイヤと言ったのだ、この男は。
本人はただの脅しのつもりだろうが、これはスミスが誰から依頼を受けたのかを吐いたようなものだった。
オレンジダイヤに後ろ暗い何があると、スミスは知っている。
ショウとスタインで消し去ったオレンジダイヤの出所、それを知っているとこの男は言っているのだ。
それを調べられる存在など、限られていた。
そう、アメリカ政府である。
スミスは自分が今何を口走ったのか判っていないに違いない。その意味が判っていたら、こうして勝ち誇った笑みなど浮かべられるわけがあるまい。
「見事なダイヤだったでしょう?」
ならば、とショウも判らないフリで応戦する。冗談ではない。
(危ない橋を渡れってえのか。俺はアメリカ市民でもあるってぇのに)
腹の底に煮えたぎる苛立ちをお首にも出さずに微笑むと、スミスは怯む。
(what a mess)
スタインは忙しいらしい。
つまり、スタインが今どんな状況であるかは判らないが、動けないと言うことだ。
もしかしたら宝石商としての身動き、その一切を封じられているかもしれない。下手をしたらニューヨークにいない可能性さえもある。いや、実質軟禁状態なのかもしれない。
最悪だ。ショウは奥歯を噛み締めた。
ショウがそこまでしてやる義理はない。スタインが同じ状況下ならば知らぬ存ぜぬで済ませる可能性が高い。
だが、オレンジダイヤ。
あの借りがまだ残っている。
ここでスタインを見限れば、返してない借りについて、あの老獪がショウをどんな風に扱うかは判ったものではなかった。
身動きを取れないのは、ショウも同じだ。
(ちくしょうめ。ステイツのそういうやり方が敵を作るってんだ。いつか痛い目をみるぞ。飛んだ茶番だ)
「あんた、俺に何させようってんです」
問うべき相手はアメリカ政府だが、この場にいるスミスに問うしかない。
スミスが口角を持ち上げた。
底が浅い。人としても、ビジネスマンとしてもだ。おまけに頭もよろしくない。
彼は、「スミスがオレンジダイヤの出自を知っていること」についてショウが尾を丸めたと考えていることだろう。
でなければアメリカ政府が噛んでいる可能性を示唆したあとに、チェックメイトを宣言したかのような顔などできるわけがない。
マシュー・ミラーはかつて高級時計メーカーであった。
時代の流れともに落ち込んだ売り上げを伸ばしたのはこの男、ライアン・スミスの手腕によるものとされていたが、今ならば、それは時代の流れによる偶然が生んだ回復なのだろうとショウも判断できる。
それよりも問題はステイツだ。
スミスの背後にいるのがアメリカだということは判ったが、そのアメリカが民間人のショウを使って何をしようとしているのかが判らない。
また、スミスが何故アメリカ政府の使いっ走りをしているのかが不明だ。
ぶら下げられた人参は一体何なのか——、そこが判らなければ危機回避もできまい。
「希望の鉱山がある」
意味あり気にスミスが言った。
「ディタボラなんだがね——、家族経営の鉱山でね」
「……、」
ディタボラ——、あそこは資源はあるが、政権は脆い国だ。独裁政権が敷かれて長い国である。今回の旱魃でかなりの数の餓死者を出したと聞く。
なるほどな、とショウは考えた。
ダンペイの息がかかっていない地域——、というか、ダンペイの包囲網から締め出された国。
そのダイヤをアメリカ政府が購入する。
つまりはそういうことだ。
(だから俺はアメリカって国が嫌いなんだよ。ああそう、ディタボラね)
まあいい、不愉快ではあるが仕方がない。
旅の途中で父に頼まれていたブルーダイヤもついでに見つけられそうだ。
「……前金はいただきますよ」
「勿論だ。君はピンクダイヤの鑑定をし輸送に付き添ってくれるだけでいい」
呆れたものである。
つまり必要なのは、ショウの肩書きとショウがアメリカにピンクダイヤを持ち込んだ履歴だけ、ということである。
まったくクソみたいな依頼だ。リチャード・ハリスかよ、とショウは苛立ちを覆い隠して考える。
この馬鹿は自分が何に加担しているかも、この後何が起きるかも判っていないに違いない。
どんな人参かは判らないが、それがしでかしたこととの釣り合いがまるで取れていない可能性をショウは考えていた。
舐めた真似をしやがって。
(ベトナムが尾を引いていて大っぴらに動くのは憚られるってことか)
なんのことはない、アメリカが悪趣味クソボードゲームに再び興じ始めたということだろう。
まったくクソみたいな依頼だ。
これだからアメリカって国は本当に——、ショウは奥歯を噛み締め仕方がなく片手をスミスに向かって突き出したのであった。




