学校で待ち受けていたもの
十五分後、僕は正門の前にいた。ランドセルという重石を背負わされて。あんなに嫌だと言ったのに。二人は弁解を一切聞き入れてくれなかった。だからと言って、今から家に帰ったところで、何を言わるのか分からない。
玄関の前で二人にこんな事を言われた。
「子供は親の人形だよね、お父さん」
「そうそう、糸で繋がれた操り人形みたいなものだ」
「糸の切れた人形は役に立たないから、捨てた方がいいよね。月曜か水曜の燃えるゴミにでも出して」
「そうそう、児童会長もなれないどころか、学校にも行きたくないなら、残念だけどお父さんとお母さんの子供じゃないな」
「まあ、冗談はさておいて、京介は気にせず早く学校へ行きなさい。そして、児童会長になるのよ」
「もしも、嫌って言ったら?」
止めておけばよかったのだが、どうしても気になるので聞いてみた。
「あ、お父さん会社に行かないと」
「私も近所の田中さんの奥さんと井戸端会議しなきゃ」
逃げられた。
僕は気の向かないまま、二年ぶりに校門をくぐった。児童会選挙の候補者が大声で挨拶するのを素通りして、下足場を過ぎて、長い廊下を歩いて、階段で三階まで上がりきる頃には、すっかり息切れを起こしていた。ひきこもりによる運動不足のせいだった。新しいクラスの教室が遠く感じる。
五年一組が僕の新しいクラスだった。
扉を掴んだ途端、手が震えた。足が動かない。頭がぼんやりする。体中が抵抗しているのだ。教室に入りたくない、そう訴えているようだった。
そうだ! 僕は良案をひらめいた。お父さん達は学校へ行けと言ったが、教室に入れとは言ってない。そんな生徒を都合よく受け入れてくれる部屋を、僕は知っていた。
急いで一階へ降りて、軽やかな気分で件の場所――保健室の前まで来た時、僕は落胆する羽目となった。
扉の前に張られた一枚の紙。そこにはこう記されていた。
『出張でしばらくいません。保健室は閉めておきます。怪我をした子は次の呪文を唱えて我慢して下さい。イタイノイタノ飛んでけ! それでも痛い場合は根性で乗り切りましょう。 保健室の先生より』
こんな保健室の先生なんか、地方へ飛んでけ! 呪いを心の中で念じながら、僕は三階の五年一組へとんぼ返りした。
そして、さっきと同じようにドアの前で茫然と立ったままでいた。
「何してんの?」
ふいに後ろから声をかけられた。僕は飛び上がりそうになった。寿命が少し縮んだかもしれない。
「うちのクラス?」
背の低い男子生徒が不審げに眺めている。僕はこくりと頷くと、彼はいそいそと教室に入っていく。教室の中からこちらは丸見えだった。数人が僕を見つけたが、一瞥するだけだった。何の事もない。学校に行かなくなったのは二年も前だ。覚えている奴は多くないはずだ。五年生ならクラス替えもあるはずだ。
僕はゆっくりと教室に足を踏み入れて、あらかじめ担任から教えられていた席に座った。がたつく椅子、埃まみれの机……懐かしい感覚が僕を包み込んだ。二年前は当たり前のようにして座っていたんだ。
こうして今だって、学校になじめるかもしれない。最初はそう信じていた。
やはり、災難は待ち受けていた。
災難の原因を作ったのは、担任の小林先生による出席確認だった。
「宮地京介くん」
「はい!」
緊張のあまり、声変わりのない大きな声を出してしまった。辺りでクスクスと笑いが漏れる。もちろん、笑わすつもりはまったくない。もしも、小さな声で言ってさ、「声が小さいわよ。はい、もっと元気に」とか言われて悪目立ちしたら、それこそカッコ悪かった。
おまけに返事をした際、数人がこちらを振り向いた。笑いというより、驚きを含んだ表情を浮かべていた。おそらく、僕を覚えている連中だろう。
「はい、元気な声でなりよりです」
小林先生は今年教師になったばかりの新人らしい。顔見知りの先生ではないところはせめてもの救いだと、最初は思っていた。しかし、それは僕の勘違いと思い知る羽目となる。
小林先生は次の人の名前を呼ぶ代わりに、こう付け加えた。
「宮地くんは三年生からお家にこもって、今学期にやっと学校へ来るようになりました。本当に偉いですね。まあ、当然なんですけどね。皆さんも学校へは毎日通いましょうね。そうじゃないと、ろくな大人になりませんよ」
かわいい顔をした新人教師の恐ろしい失言に、大半のクラスメイトがこちらを振り向いた。今度は驚きだけではない。馬鹿にしたような表情、同情を込めた表情……いずれにせよ、僕は二つの事実を思い知らされた。
一つは、僕の新しい担任はハズレだという事。
二つ目は、大半が初対面であるはずのクラスの全員に僕が元引きこもりだと知られた事であった。
しかし、休み時間、僕は三つ目の恐ろしい事実に知る羽目となる。
「よお、宮地」
二時限目が終わってすぐの休み時間、聞き覚えのある声に僕は金縛りにあった。僕の背中が机と椅子ごと震えた。
「久しぶりじゃねえか。てっきり卒業まで来ないと思っていたぜ」
「た、竜田くん……やあ」
僕は震える声で作り笑いしたが、すっかり恐怖で固まっていた。身長一五五センチの僕のより、一回り背も高く、サッカーのゴールキーパーになれそうなほど横幅も広い。もっとも、本人はボールをよりも自分よりも弱い者を蹴ったり、殴ったりした方が好きだった。竜田というのはそういう奴で、五年生になっても変わらない。
そう、こいつこそ、僕を引きこもりに追い込んだ張本人だ。
こいつと同じクラスになってしまう僕は、この世界で一番不運に違いない。やっぱり、家に引きこもっていた方がよかったと、今頃になって後悔したが、すでに手遅れだった。
「ワリィけど顔貸してくんない? ちょっと運動場に行こうや」
「何しに?」
「馬鹿だな。運動場に出るんだから、運動するに決まってんだろ」
七一二日ぶりの登校日。今朝に時間を戻せるなら戻したかった。
渾身の一撃をくらった僕の体は、砂場の上に沈んだ。その背中に容赦なく、巨体が倒れ込んだ。「ぐえっ!」と踏まれた蛙みたいに情けない声が、僕の口から漏れた。息が止まるほど苦しかった。
「お前がいない間、さびしかったぞ。どうだ、俺の新しい技は?」
「参りました」
「じゃあ、この問題の答えが分かるか、引きこもり。第一問、俺とお前ならどっちが強い?」
「竜田くんです」
そう答えたら、脚の関節を無理やり締めあげられた。骨が折れそうな激痛にのたうち回った。
「答えは竜田様。竜田くんじゃない」
「はい」
「二問目、その俺よりも弱いのは誰だ?」
「僕です。宮地京介です」
次は首を絞められた。
「答えは引きこもりの負け犬のクズの宮地。違うか?」
「はい……僕は引きこもりで負け犬でクズの宮地です」
「よし、最後の問題だ。そんなお前に技を教えてやっている俺に、お前はどうすべきだ? ヒントは、三年の時と同じだ」
「竜田様にお金を払う」
「そうだ。おれの授業料は五百円だ」
大きな足が僕の背中を踏みつけた。
「ごめんなさい。今、お金は持ってません」
「シケてんな。ただで俺のレッスンを受けやがって。じゃあ、明日は二千円持って来い。忘れたら、強化試合を受けさせてやるからな」
校舎へ戻っていく竜田の背中を見つめながら、僕は全身の痛みに悶えていた。顔は涙と鼻水で濡れていた。どうしてか分からないけど、たまらなく笑いたくなった。自分自身に向かって。
「そこの君」
その時、後ろから声をかけられた。
「どこかで会った顔だね」と、彼は眼鏡を外したり遠ざけたりしながら、僕を観察した。よく見ると、かけているのは伊達メガネのようだ。
「やや、君は宮地くんではないのか?」
「そうだけど。君は誰だったけ?」
「池沢宗助だよ。本当に久しぶりだね。最後に会ったのは三年の塾以来か。君が休んでから、成績は僕の不戦勝だ。もっとも、塾の中で最下位だがな」
そう言えば、通っていた進学塾にいたような気がする。自称、天才少年。孤高の神童。二十一世紀の偉人予定。夢はノーベル賞と公言していた、変わり者だったかな。塾に通っていた間、ずっと彼からライバル視されていたが、そんなに親しかった記憶はない。
そもそも、僕のいたクラスはA組。彼のいたのは、確かG組。他の人はゴミのGだと言っていた。つまり、最下層のクラスだ。
「サボータージュに走った君が、学校に来るなんて珍しいな」
「それも止める。また家に帰るんだ。笑ってもいいよ」
「笑わない。君は一般人とは違う世界に生きている。僕のようにね。目指す道は違うけど、同じ天才だと思う。学校がいかにつまらない場所か、身を挺してで、それを証明したんだから」
「ただ、いじめられただけで?」
「学校へ行けば、暴力を振るわれ迫害される。六年間もコンクリの建物に無理やり収容され、一日の三分の一も拘束されて、類型化され、比較され、教化され、最後には卒業証書という紙切れを渡されてほっぽり出される。自由を求めたら、問題児扱い。学校はいつの時代も病んだ社会の縮図だよ。教室という名の檻の中で、要領の良いだけの猿達は、教師という調教師に、餌という成績を与えられ、真実を知る天才は変人呼ばわりされて、檻の隅にゴミやチリと共に追いやられる」
池沢くんの演説は長い上に、何を言っているのか理解できない。本人でさえ分かっているのかは疑問である。
「確かにそうかも」
適当に返答してから、僕はトボトボと校門へ歩き出す。その横に池沢くんがついてくる。
「池沢くんもサボる気?」
「僕は君のような行動派じゃない。だけど、相談には乗れると思う。いじめはれっきとした犯罪だから見逃すわけにはいかない。同じ天才は貴重だ」
竜田の親は有名なモンスターペアレントだ。何かあるとすぐ学校に怒鳴りこむ。あいつの親によって、この学校の校長は三回も替わったはずだ。僕がいじめを訴えたとしても、学校は動かない。そもそも告発すれば、あとであいつの“強化訓練”が待っている。明日までにお金を持ってこないといけない。持って来ても、またズタボロにされる。もう児童会長を目指すどころではなくなった。だからといって、引きこもりに戻ろうものなら、あの両親に何をされるか分かったもんじゃない。
「ありがとう、池沢くん。その気持ちだけでもうれしい。でも、僕の悩みは、竜田のいじめよりも深刻なんだ。誰にも解決できるわけがない」
僕は、まさに切羽詰まった状況だった。
「できるとも」
池沢くんは力むように言った。その顔は異常に明るい。昼間なのに目が輝いて見える。
「本当に?」
「相談役は僕ではない。放課後の午後四時、商店街の本屋へ向かうといい。時間に間に合えば、面白いものを拝める」
「一体何があるの?」
「君の相談にピッタリな人物に会わせてやる。彼女は用心深いから、僕を通して紹介してあげよう」
「彼女……?」
「一つだけ君に忠告しておく。多少のお金は持ってくるといい。彼女は僕らと同じ世代とは思えないほど、お金にうるさい。くれぐれも言動に気をつけろ」
そう告げると、池沢くんは逃げるように立ち去って行った。三時間目の予鈴が告げる中、僕は迷った挙句、校門を出るのを止めて、校舎へと向かった。