第四〇譚 そして少女は紫衣を纏ふ
ざーざーと降りしきる雨粒の中、ぼんやりと目を開けた。
気怠い。長時間雨に打たれていたせいだろうか、それとも泥水の中で倒れ伏しているからだろうか。身体はビックリするほど冷え切っていて動かない。断続的な吐き気が止まらない。だが、痛みは感じられなかった。多分、各所から断続的に送られてくる痛みの信号が脳を飽和状態に陥らせているのだ。痛いのだが痛くない。それはまるで心と身体が分離してしまったような、とても奇妙でとても気持ち悪い感覚。
視界はぐにゃぐにゃとしていてとてもじゃないがはっきりしないが、どうやら爆心地で倒れているようだった。辺りは荒廃しきっていて、どう頑張っても港とは認識できない。降りしきる雨にも負けず、あちこちで炎が上がっていて瓦礫の山だらけ。少し前までは港だったのにコンビナートも見当たらない。繋留されていた貨物船も炎を巻き上げている。時より小規模ながら爆発が各所で起こっていて、遠くからサイレンのような音が近付いているような気がしないでもない。
犠牲者がいなければいいなあ、我ながら暴れたなあと楓は思っていた。全てどれもこれも楓が暴れたからだ。とんだ化け物だ。まるで何処かの怪獣が通り過ぎたような惨状なのだ。楓一人に自衛隊が出動してくるかも知れない。顔は自然と微笑みを浮かべていた。
しかしそんな化け物でも死ぬのだ。現に今、自分は死にかけている。
少年を大鎌と巻き上げられた衝撃波で叩き潰した後、何もかも感覚が綺麗に失せた。討ち果たしたという安心感か、それとも身体の限界だったのか。それは楓にも分からない。気を失うまでのほんの数秒、楓は『押領使』のことを考えていた。何故あの場面で『押領使』は自分に手助けをしたのだろう、と言うこと。あのアシストがなければ確実に死んでいた。殺されていた。
そして意識が戻った今、改めて思った。何故『押領使』は自分を助けたのだろうか、と。
と、そこへ。ぴたぴたと小さな音が雨音に混じって聞こえた。足音だ。だがそれは人間の足音ではない。人間の足音ならもっと大きいはずだった。そう。それは小動物のような―――
「よくやった」
雨音にも、波の音にも阻害されず、不自然なほどクリアな声だった。が、その声に威圧感。絶対に忘れられるものではなかった。相変わらず、その姿は見えない。足音は止まっているから自分の近くにいることは確かだろう。視界に入らないから恐らく背後にでも佇んでいるのだろうか。
「貴様は先代をその手で討ち果たした。余は貴様を『追捕使』と認めよう」
雨を伴った風が引き抜け、はたはたと服が靡くような音がした。そして思い出す。この衣が楓を救ってくれたことを。
「幾分か早かったがな。その衣は余の『紫衣』であり『追捕使』たる証にして万能の妙具。纏え。貴様の身体も直と良くなる。時間をかければ右腕だって甦る。まあ、自業自得よ。貴様は肉体を酷使しすぎた。身体が動かぬだろう? 貴様が『紫衣』を乱用した結果。余の助けがなければどうなっていたか」
「どうして、……」
か細い声しか出なかった。
「たすけて、くれたの?」
「あの場面で貴様には死なれては困るのだ。貴様には奴を討ち滅ぼして貰わねばならなかったのだ。余のために、ひいてはこの世のために」
楓には『押領使』の言葉が理解できなかった。従って、沸き上がっている疑問が解決されることはない。
「このよ、の、ため?」
「潮時だったのだ」
そうやって『押領使』は話を繋げた。
「奴は父母に捨てられた孤児だった。貴様ら『異常因子』は一般大衆に忌み嫌われる傾向があるのだ。それは本能的に貴様らがこの世に存在すべき者ではないと察しての行動なのだがな、まあ仕方あるまい。人は他を排斥しなければ自らの存在意義を感じられぬのかも知れない。そんなことはどうでもよいのだ」
心当たりがあった。確かに、そうかも知れない。
「『追捕使』は殺戮者だ。例えこの世を守るという任があろうと無かろうと、人殺しには変わりない。『追捕使』の任を賜るためには『追捕使』を殺めねばならぬ。『追捕使』の任を全うするには『異常因子』を殺めねばならぬ。たった一つの椅子を巡りその存在を奪い合う。存在無き者の存在を更に奪う。それが『追捕使』だ」
そうやって『押領使』が言葉を切れば、静寂が辺りを包んだ。
「だがやがて『追捕使』の心は砕ける。殺戮を繰り返し、永遠とも言える時を過ごし続ける。元が『異常因子』である故に、利害関係以外の関係はまず望めない。長きに渡って邪気と陋劣のみしか触れられず、やがて『追捕使』の心はひび割れ、やがて砕けてしまう。そして砕けた心を修復するために人の情を盲目的に求める。過去に向けられた愛情を」
楓は自然とあの『追捕使』を思い浮かべていた。彼は思い込んでいた。彼の中では『北沢楓=お師匠様(と言う見ず知らずの人)』という有り得ない式が平然と少年の脳内では成り立っていた。面影が似ているからか知らないが、全くの別人にも拘わらず。それはとてもとても狂っている。愚かにもほどがある。
楓はそう思うことに何ら感情は抱かない。目の前の事実、真実として有りの儘を受け入れた。別にこの少年に感情移入出来るほど楓は甘くはないし、面倒見の良い人間ではない。
「そうなってしまえばもはやその者に『追捕使』たる資格はない。愛に執着するばかりに必要以上に人を殺し、この世を、そしてアカシックレコードを乱す存在となった者を生かしてはおけまい。如何なる手段を用いてでも、排除せねばならぬ」
楓は変に納得していた。
何だ、そんなことか。
何だ、だからこんなことになったのか。
「だが、貴様は例外だ」
「……、え?」
「貴様は例外だ。まさに余が追い求めていた者」
ざーざーと降りしきる雨。
雨が止む気配はなかった。
◇◆
消防車のサイレンがはっきりと聞こえる。
楓は黒衣(と言っても黒いボロ布だった)を羽織って、足を引き摺りながら荒涼とした港を歩いていた。何とか失血も止まり、歩けるようにまで回復した。だが足を引きずり、よろよろと、身体の半分を引き摺るように進んでいる状態を『歩いている』と言えるかどうかは謎である。
(とりあえず、ここから逃げないと……)
サイレンがより鮮明になってきて、焦りが生まれてくる。
(ったく、……『押領使』だっけ?)
矛先はさっさと姿を消してしまった『押領使』へと向けられる。
(やること済ましちゃったら、さっさと、消えちゃうんだから)
どうせすぐに再会することになるだろうから、その時は思いっきり罵ってやろう。場合によっては大鎌で斬り付けてやる。それに『押領使』が楓が例外だと言った真意も気になる。
そこへ、
「?」
何かを蹴飛ばした。
不審に思って視線を落とせば―――、思わず笑みが零れてしまった。
「ふふ、」
まず見えたのは、人間の右腕。
次に見えたのは、人間の上半身。
続いて見えたのは、人間の頭部。
最後に見えたのは、それの傍らに転がっている刀身が折れた一振りの日本刀と、薄汚れた銀のリング。
「ぉ、……ぅいぁ」
胸から下、左腕、そして両足。
それを失っているにも拘わらず、口から声が漏れ出ている。
「ホント、凄い、生命力ね……」
あの一撃を防いだとでも言うのか。そうだったらこれは称賛に値する。
「ぁ、え、……ちゃ―――」
何かを求めていた。
僅かに、表情が和らぐ。
ニュアンスは『助けてくれるよね?』で間違ないだろう。
この少年は、まだこの期に及んで『信じて』いるのだろうか。
ならばその考えをここで正してやらなければならない。
楓は微笑んでいた。
そして。
会ったこともない『お師匠様』を気取って、告げた。
「私はアンタなんか愛してない。むしろ、キライよ。大っ嫌い。考えただけでも虫唾が走る」
その和らいだ表情が、消えた。
「そう言えば、前にアンタを抱き締めたことがあったっけ」
ひん曲がった刀と共に転がっていたリングを拾い、指に嵌めながら、楓は意図的に告げる。
最期の最期まで、この少年をいたぶり尽くすために。
「アレはね、」
満面の笑みで、妖艶な声色で。
「アンタが『カワイソウ』だと思ったからよ」
面白い。
本当に面白い。
「人を殺して、駄々を捏ねたただのカワイソウなお子様。誰にも今まで一度も愛されたことがないんだな〜って。凄く同情しちゃったよ」
詠うように、生き生きと、楓は告げる。
「そうだ」
わざとらしく、恰も今思い出したかのように。
「アンタ学校の屋上で言ってたでしょ? 『同情ってのは一番醜い』って。アレはただカワイソウなアンタに同情しただけ。なんてあの子は可哀想なんだろうってね。上から目線で優越感を持って、ね。アンタはさ、愛する人にそんな感情抱けるって思ってる? もう分かってると思うけど、もう一度教えて上げる。私はアンタのことが嫌い。だからさ、さっさと死んで」
はっきりと、目の前の表情が壊れた。
そんな様子に楓はうっすらとした冷酷な笑みを浮かべて、左手を上から下へ滑らせれば現れる大鎌。それを挑発するようにクルクルと新体操の演技のように回転させて、やがて頭の上で大鎌を止めると、
「ごめんね。私って、結局『人でなし(こう)』なの」
ワタシハダレ?