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星紡ぎのステラ  作者: YOU
第1章_幼少期編
2/14

第2話_子育て


 世界中を騒がせた白い光の柱から、一か月が過ぎた。


 爆心地から少し離れた場所に建っていた

マクスウェルの家は、幸いにも跡形もなく吹き飛ぶ

ことだけは免れていた。


 ただし、無事だったとは言い難い。


 屋根は半分ほど消え、外壁には人が通れそうな大穴

が開いている。

 窓という窓はすべて割れ、庭にあった菜園は土ごと

吹き飛んでいた。


 家の中へ入れば、空が見える。

 雨が降れば、当然のように室内まで濡れる。

 夜になれば、壁の穴から冷たい風と虫が遠慮なく

入ってきた。


「……まだ住める」


 マクスウェルは崩れかけた家を見上げ、そう結論

づけた。


 大賢者にとって、屋根が半分ない程度は些細な問題

である。


 少なくとも――


「おぎゃああああああっ!!」


「おぉぉう!? 今度はなんじゃあっ!」


 泣き叫ぶ赤子に比べれば、家の損壊など本当に些細

な問題だった。



     ◇



 右腕を失った体の治療。


 肺や内臓に残った損傷の回復。


 崩れた家の修繕。


 そして、爆心地から連れ帰った赤子の世話。


 この一か月、マクスウェルはそのすべてを同時に

こなしていた。


 もっとも、体の治療と家の修繕については、彼に

とって難しい仕事ではなかった。


 回復魔法を使って体を治し、土や木材を魔法で

加工する。


 利き腕を失った影響で以前ほど自在にはいかな

かったものの、そこは世界に並ぶ者なしと自称する

大賢者である。


 壁の穴を塞ぎ、屋根を作り直し、割れた窓へ新しい

板をはめ込む程度ならば、時間さえかければどうにか

なった。


 だが、一つだけ。


 魔法でも知識でも、どうにもならない問題があった。


「おぎゃああああああっ!!」


「よーし、よしよし! 何も怖くないぞ! この世界

で唯一無二の大賢者たるわしが、おぬしのそばにおる

のじゃからな!」


「おぎゃああああああああっ!!」


「なぜ声が大きくなる!?」


 子育てである。


 マクスウェル・ヴァーミリオン。


 六十二歳。


 魔法国家マギーアで大賢者と呼ばれ、ありと

あらゆる魔法と学問を修めた男。


 そんな彼にも、知らないことは存在した。


 その代表が、赤子の扱いだった。


 これまでの人生で、子どもを育てた経験は一度も

ない。


 自分には縁のないことだと言い聞かせ、育児に

ついて学ぼうと考えたことすらなかった。


 その結果が、これである。


「腹が減ったのか?」


「おぎゃあああああっ!」


「違うか。ならば眠いのか?」


「おぎゃあああああっ!」


「これも違う。まさか腹でも痛いのか!?」


「おぎゃあああああっ!」


「全部同じではないか!」


 赤子の訴えは、マクスウェルの耳にはすべて同じ

泣き声にしか聞こえない。


 だが、泣いている以上は必ず原因があるはずだ。


 空腹。


 眠気。


 排泄。


 暑さ。


 寒さ。


 痛み。


 寂しさ。


 まだ言葉を持たない赤子は、自分の状態を泣くこと

でしか伝えられない。


「なるほど……」


 マクスウェルは腕の中で泣き続ける赤子を見つめた。


「言葉を持たぬだけで、こやつにも何らかの要求が

ある。その要求を正しく読み取ることができれば、

泣く前に対処することも可能なはずじゃ」


 その目に、研究者特有の光が宿る。


 知識がないのであれば、調べればよい。


 誰にも教わることができないのであれば、自ら理論

を組み立てればよい。


 過去へ遡る魔法さえ生み出そうとした男である。


 赤子一人の欲求を解明することなど、取るに

足らない問題――


「おぎゃあああああああっ!!」


「分かった! 今考えておるから、少し静かにせんか!」


「おぎゃああああああああっ!!」


「話が通じぬ!」


 ――ではなかった。



     ◇



 その日の午後。


 マクスウェルは赤子を片腕で抱きながら、机へ

向かっていた。


 机の上には、一冊の分厚い研究記録が開かれている。


 表紙には、彼自身の手で大きく題名が記されていた。



  『赤子育成に関する観察および考察』



「まずは、泣く直前の行動と、その後に何をしたら

泣き止んだかを記録する」


 かつて時間遡行の術式を書き連ねていた研究者は、

真剣な表情で筆を走らせた。



  観察記録・第一号。


  時刻――昼頃。


  症状――大声で泣く。


  仮説――空腹。


  対処――乳を与える。


  結果――泣き止まず。



「うむ。空腹ではなかった」


 赤子は現在も元気よく泣いている。


 マクスウェルは次の項目を書き加えた。



  第二仮説――眠気。


  対処――寝台へ置く。



 赤子を小さな寝台へ寝かせる。


「おぎゃああああああああああっ!!」


 泣き声が、さらに大きくなった。


 マクスウェルは無言で赤子を抱き上げる。


 すると、泣き声が少しだけ弱くなった。


「……抱き上げると反応が変わる」


 筆が走る。



  結果――失敗。


  ただし、抱き上げることで泣き声が約二割減少。



「なるほど。姿勢の問題かもしれぬ」


 立ったまま、ゆっくりと体を揺らす。


 赤子の泣き声が、さらに小さくなる。


「やはりそうか!」


 マクスウェルは勝ち誇った顔で記録を続ける。



  追加検証。


  立った状態で一定の周期による上下運動を加える。


  結果――有効。



「赤子は上下運動によって安心を得る……と」


 得意げに呟き、マクスウェルは椅子へ腰を下ろした。


「おぎゃああああああっ!!」


「なぜじゃ!?」


 即座に立ち上がる。


 泣き声が弱くなる。


 座る。


 泣く。


 立つ。


 弱まる。


 座る。


 泣く。


 立つ。


 弱まる。


 五度繰り返したところで、マクスウェルは呆然と

赤子を見下ろした。


「……わしが座ることを許さぬというのか?」


「あぅ……」


 赤子は涙を浮かべたまま、彼の外套を小さな手で

掴んでいる。


「これは上下運動ではない。単に抱かれたまま立って

いてほしいだけでは……?」


 マクスウェルの顔から、研究者の自信が少しずつ

消えていった。


「いや、そんな非論理的な要求があるはずは――」


 試しに歩くのをやめ、その場に立ち止まる。


「ふぇ……」


 赤子の顔が歪む。


 一歩進む。


 落ち着く。


 立ち止まる。


 泣きそうになる。


 一歩進む。


 落ち着く。


「……歩けというのか」


「あぅ」


「返事をしたように見えるのは、わしの気のせいか

のぉ……?」


 その日、マクスウェルは家の中を二時間近く歩き

続けた。



  観察記録・第一号。


  最終結果――抱きながら歩くことで泣き止む。


  原因――不明。


  備考――非常に疲れる。



     ◇



 翌朝。


「おぎゃああああっ!」


「今度こそ空腹じゃな!」


 マクスウェルは素早く準備を整え、赤子へ乳を

与えた。


 赤子は夢中で飲み始める。


「ふはははは! 見たか! 泣き声の微妙な違いを、

早くも理解し始めたぞ!」


 誰もいない家の中で高笑いする。


 そして数分後。


「おぎゃあああああっ!」


「なぜじゃ!? たった今、飲んだばかりではないか!」


 慌てて記録帳を開く。


「空腹の泣き方ではない。ならば眠気か? いや、

この手足の動きは昨日の排泄前に近い……」


 赤子を抱き上げ、布を確認する。


「……なるほど」


 数秒の沈黙。


「魔物と戦うより、こちらの方がよほど覚悟が

いるのぉ」


 大賢者は遠い目をした。



     ◇



 日を追うごとに、研究記録は増えていった。



  観察記録・第十二号。


  泣き声「ふぇぇ……」は眠気の可能性が高い。


  ただし、眠ったと思い寝台へ置くと即座に

  覚醒する。


  原因は不明。



  観察記録・第十七号。


  食後、背中を軽く叩く必要あり。


  実施しなかった場合、乳を吐き戻す。


  なお、吐き戻す方向は予測不能。


  本日の外套、一着損失。



  観察記録・第二十三号。


  赤子の手が髭を掴んだ場合、無理に引き離しては

  ならない。


  予想以上に握力が強く、非常に痛い。


  髭を短く切る案については却下。



  観察記録・第三十一号。


  夜泣きの原因は特定できず。


  抱き上げ、歩き、歌を聞かせることで沈静化。


  なお、歌については音程よりも声を出し続ける

  ことが重要と思われる。



「この世界で唯一無二の大賢者たるわしが、なぜ夜中

に子守歌を……」


 不満を口にしながらも、マクスウェルは赤子を抱き、

覚えている限りの歌を小さな声で歌った。


 歌詞は途中から曖昧になり、最後には魔法理論の

暗唱へ変わった。


 それでも赤子は安心したように眠った。


 その寝顔を見下ろし、マクスウェルは声を潜める。


「……これで眠れるのなら、何でもよいか」


 赤子を起こさないよう、細心の注意を払いながら

寝台へ寝かせる。


 背中が布へ触れた瞬間。


「ふぇ……」


 マクスウェルの動きが止まった。


「起きるでない。起きるでないぞ……」


「ふぇぇ……」


「これは夢じゃ。おぬしは今、とても心地よく眠って

おる……」


「おぎゃあああああっ!!」


「なぜじゃあああああっ!!」


 死の森に、大賢者の悲鳴が響き渡った。



     ◇



 子育てを始める前まで、マクスウェルは人間の欲求

など単純なものだと思っていた。


 腹が減れば食べる。


 眠ければ眠る。


 寒ければ暖を取り、暑ければ涼しい場所へ移動する。


 原因が分かれば、対処もできる。


 だが、赤子はその理屈に従わなかった。


 腹が満たされていても泣く。


 眠いのに眠らず泣く。


 抱けば泣き止み、置けば泣く。


 理由が見当たらなくても泣き、泣いていたかと

思えば、突然笑う。


 生き物には感情がある。


 数値だけでは測れない欲求がある。


 誰かに触れてほしい。


 そばにいてほしい。


 ただ安心したい。


 それまでのマクスウェルは、そんな当たり前のこと

を理解していなかった。


 理解しようともしていなかった。


 彼にとって人の心は、魔法理論よりもずっと複雑

だった。


 それでも、赤子が泣けば抱き上げた。


 夜中に何度起こされようとも、決して放置は

しなかった。


 どれほど疲れていても、乳を与え、布を替え、

体調を確認した。


「まったく……手のかかる研究対象じゃ」


 そう言いながら、赤子の小さな頬へ付いた汚れを

指で拭う。


 研究対象。


 マクスウェルは、まだ赤子をそう呼んでいた。


 だが、記録帳の内容は、少しずつ研究記録とは

呼べないものへ変わり始めていた。



  観察記録・第四十二号。


  本日、初めて声を上げて笑った。


  原因は、わしがくしゃみをしたこと。


  何がおかしいのかは不明。


  ……もう一度笑わせようと十七回くしゃみの真似

  をしたが、二度目は笑わなかった。



  観察記録・第四十九号。


  眠っている最中、わしの指を握った。


  握力は以前より強くなっている。


  順調に育っているようである。



  観察記録・第五十三号。


  今日は一度も熱を出さなかった。


  よく眠り、よく飲んだ。


  特記事項なし。


  それでよい。



 マクスウェル自身は、その変化に気付いてい

なかった。


 彼は赤子を理解するために記録を始めた。


 けれどいつからか、その一日を残すために筆を

取るようになっていた。



     ◇



 ある日の夕暮れ。


 マクスウェルは修復を終えた屋根の上へ座り、

赤子を左腕に抱いていた。


 赤く染まった空の向こうには、死の森を囲む

巨大な山脈が連なっている。


 一か月前の爆発で消えた雲も、森から逃げた

鳥たちも、今では少しずつ戻り始めていた。


 赤子はマクスウェルの胸へ頬を寄せ、静かな寝息を

立てている。


「おぬしは、一体どこから来たのじゃろうな」


 問いかけても、答えは返ってこない。


 あの次元の亀裂から生まれたのか。


 どこか別の場所から運ばれてきたのか。


 それとも、自分の実験が偶然一つの命を作り出した

のか。


 分からないことばかりだった。


 研究者として、その正体を確かめたいという思いは

ある。


 だが同時に、無理に調べることをためらう自分も

いた。


「……今は、生きておる。それだけでよいではないか」


 赤子の白い髪を、指先で優しく撫でる。


 すると、小さな手が動き、マクスウェルの外套を

掴んだ。


「またそれか」


 口では呆れながらも、彼の表情は穏やかだった。


「心配せずとも、どこにも行かぬ」


 そう口にしてから、マクスウェルはわずかに目を

見開いた。


 誰かのそばにいる。


 どこにも行かないと約束する。


 そんな言葉を、自分が口にする日が来るとは思って

いなかった。


 彼は夕焼けへ視線を向ける。


 長いあいだ、過去だけを見続けてきた。


 失った人のことだけを想い、いつかあの日へ戻る

ことだけを考えてきた。


 けれど今、腕の中には未来しか持たない小さな命が

眠っている。


「……困ったものじゃ」


 マクスウェルは誰にも聞こえない声で呟いた。


「研究を続ける暇が、まるでないではないか」


 その言葉とは裏腹に、声はどこか楽しげだった。


 赤子を抱く腕に、わずかに力がこもる。


 大賢者マクスウェル・ヴァーミリオンは、まだ自覚

していなかった。


 赤子を研究しているつもりの自分が。


 いつの間にか、その成長を誰よりも楽しみにする

ようになっていたことを。


 そして――


 彼が少しずつ、父親になり始めていたことを。


 死の森に春が訪れた。


 長く積もっていた雪が解け、凍りついていた土から、

小さな若葉が顔を出す。


 木々の枝には新しい芽が付き、森へ戻ってきた鳥

たちが、朝早くから賑やかな声を響かせていた。


 爆発によって荒れ果てていた家の周囲も、少しずつ

元の姿を取り戻し始めている。


 修復された屋根。


 新しく作り直された窓。


 耕し直した菜園には、いくつかの野菜の苗が整然と

並んでいた。


 そして、家の中では――


「ふぇ……ふぇぇ……」


「む?」


 机へ向かっていたマクスウェルが、ぴたりと筆を

止める。


 振り返ると、小さな寝台の中で赤子がこちらを

見つめていた。


 泣き出す直前の、口元を歪めた表情。


 少し前までのマクスウェルなら、慌てて抱き上げて

いただろう。


 だが今は違う。


 彼は赤子の顔色、手足の動き、視線の向きまで

素早く確認した。


「空腹ではない。布も先ほど替えた。眠気ならば目を

擦るはずじゃが、それもない」


「ふぇぇ……」


「となれば――」


 マクスウェルは椅子から立ち上がる。


 赤子のそばへ近づき、顔を覗き込んだ。


「退屈しておるな?」


「あぅ!」


 赤子の顔が、ぱっと明るくなる。


「ふはははは! やはりそうか! もはやおぬしの

考えなど、手に取るように分かるぞ!」


 世界の真理を解き明かしたかのように胸を張る。


 マクスウェルは赤子を左腕で抱き上げ、窓辺へ

連れていった。


「ほれ。今日は外がよく見えるぞ」


 窓の向こうを、小さな黄色い蝶がひらひらと横切る。


 赤子は目を丸くし、蝶の動きを追いかけた。


「あぅ……あぅ!」


「蝶が気になるのか?」


 赤子は懸命に手を伸ばした。


 当然、窓の向こうにいる蝶へ届くはずはない。


 それでも諦めず、何度も小さな指を開いては閉じる。


「気持ちは分かるが、今のおぬしにはまだ早いのぉ」


 マクスウェルはそう言いながら、窓を開けた。


 春の柔らかな風が部屋へ吹き込み、白い髪を揺らす。


 蝶は風に乗るように、ゆっくりと森の方へ飛んで

いった。


 赤子はその姿が見えなくなるまで、じっと空を

見つめていた。


 やがて、何が面白かったのか。


「きゃっ」


 小さな笑い声を上げた。


 マクスウェルの動きが止まる。


「……今、笑ったか?」


 赤子は窓の外を見たままだ。


「いや、確かに笑った。わしは聞いたぞ」


 慌てて机へ戻り、記録帳を開く。


 赤子を左腕に抱えたまま、右腕の代わりに使い慣れ

始めた左手で筆を走らせた。



  観察記録・第六十号。


  本日、初めて明確な笑い声を確認。


  対象は窓外を飛行する蝶。


  笑顔の発生条件については、今後も検証を行う。



「ふむ」


 そこで筆を止める。


 少し考えてから、その下へ一文だけ付け足した。



  とても可愛らしかった。



 書き終えたあと、マクスウェルはしばらく文字を

見つめていた。


「……これは観察に必要な情報じゃ」


 誰に聞かれたわけでもないのに、言い訳をする。


 赤子はそんな彼の胸元で、何も知らず楽しそうに

笑っていた。



     ◇



 季節が進み、森の緑が濃くなっていく。


 赤子は日に日に大きくなった。


 寝返りを打てるようになり、手を伸ばして近くに

ある物を掴むようになった。


 それは喜ばしい成長であると同時に、マクスウェル

に新たな苦労をもたらした。


「こら! それは口へ入れるものではない!」


 床に落ちていた紙片へ手を伸ばした赤子を、寸前で

抱き上げる。


「あぅ?」


「そんな顔をしても駄目じゃ」


 紙片を取り上げ、手の届かない棚の上へ置く。


 だが、赤子の興味はすぐ別の物へ移った。


 今度はマクスウェルの机の上にある魔法石へ手を

伸ばしている。


「それも駄目じゃ!」


 魔法石を片付ける。


 すると次は、インク壺。


「駄目じゃと言っておろう!」


 さらに書物。


「それはわしの研究資料じゃ!」


 最後には、長い白髭を掴まれた。


「それはもっと駄目じゃあっ!」


 赤子は楽しそうに笑いながら、髭を力いっぱい

引っ張った。


「痛い痛い痛い! 離すのじゃ! これは玩具では

ない!」


「きゃっ、きゃっ!」


「笑い事ではないぞ!」


 どうにか指を一本ずつ外し、髭を救出する。


 マクスウェルは乱れた髭を整えながら、大きく息を

吐いた。


「まったく。少し動けるようになっただけで、なぜ

こうも危険な物ばかり狙うのじゃ……」


 その日の研究記録には、こう書かれた。



  観察記録・第百二号。


  行動範囲が拡大。


  手の届く物を、すべて口へ入れようとする。


  また、目を離すと必ず危険な方向へ進む。


  赤子には危険を察知する能力ではなく、危険へ

  吸い寄せられる能力が備わっている可能性あり。



     ◇



 夏。


 森に強い陽射しが降り注ぎ、木々の間から蝉に似た

虫の声が響くようになった。


 マクスウェルは庭の木陰に座り、赤子を芝生の上で

遊ばせていた。


 家の中では、赤子の行動範囲が広がりすぎた。


 棚を漁り、机の下へ潜り込み、わずかな隙間を

見つけては入り込もうとする。


 それならば、危険な物の少ない庭の方が安全だろう。


 そう考えたのだが――


「あぅ!」


「そちらへ行くでない!」


 赤子は四つん這いのまま、真っすぐ菜園へ向かって

いた。


 マクスウェルが左手を向ける。


 風魔法で優しく向きを変えると、赤子はくるりと

回り、反対側へ進み始めた。


「よし。それでよい」


 だが、その先には小さな水路がある。


「そちらも駄目じゃ!」


 再び風魔法で向きを変える。


 今度は家の壁へ向かった。


 壁際には、修理に使った木材が積んである。


「なぜ毎回、危ない場所を正確に選ぶのじゃ!」


 マクスウェルは立ち上がり、赤子を抱き上げた。


「あぅー!」


「不満そうな声を出すでない。おぬしがもっと安全

な方角へ進めば、わしも止めぬ」


 赤子はマクスウェルの顔を見つめる。


「分かったか?」


「あぅ!」


「うむ。よい返事じゃ」


 地面へ下ろす。


 赤子は、先ほどよりも速い速度で菜園へ向かった。


「何も分かっておらんではないか!」


 結局、マクスウェルは赤子を抱き上げたまま庭を

歩くことになった。


 最初からそうしておけばよかったのだが、本人は

最後まで認めなかった。



     ◇



 秋が近づく頃。


 赤子は、家具へ掴まって立つようになっていた。


 初めてそれを見たのは、夕食の準備をしているとき

だった。


 鍋を火にかけながら、マクスウェルがふと後ろを

振り返る。


 赤子が椅子の脚を両手で掴み、震える足で立ち

上がろうとしていた。


「む?」


 マクスウェルは鍋を混ぜる手を止める。


 赤子は何度も足へ力を込める。


 一度、尻餅をついた。


「ふぇ……」


 泣きそうな顔になる。


 マクスウェルは助け起こそうとして、一歩踏み

出した。


 だが、そこで足を止める。


 赤子は自分の力でもう一度椅子を掴み、立ち

上がろうとしていた。


「……頑張れ」


 小さく呟く。


 赤子の足が震える。


 腕へ力を込め、ゆっくりと体を持ち上げていく。


 そして――


「あぅ!」


 ついに、両足で立ち上がった。


「おお……!」


 マクスウェルの顔が一気に明るくなる。


「立った! 立ったぞ!」


 誰もいない家の中で、大声を上げた。


 赤子は嬉しそうに笑い、椅子から片手を離した。


「待て、それはまだ早い!」


 体が傾く。


 マクスウェルは咄嗟に左手を伸ばした。


 転ぶ寸前で、風魔法が赤子の体を柔らかく受け

止める。


 ふわりと宙へ浮いた赤子は、そのままマクスウェル

の左腕へ収まった。


「あぶなかったのぉ……」


 胸を撫で下ろす。


 赤子は何が起きたのか理解していないのか、

楽しそうに笑っていた。


「おぬしは、本当に怖いもの知らずじゃな」


 そう言いながらも、マクスウェルの口元は緩んで

いる。


 鍋のことを忘れたまま、彼は研究記録へ向かった。



  観察記録・第二百八号。


  本日、初めて自力で立ち上がる。


  維持時間、約三秒。


  その後、転倒。


  風魔法により保護。


  怪我なし。



 そこまで書き、少し間を置く。



  よく頑張った。



「……うむ」


 満足そうに頷く。


 その直後。


 焦げ臭い匂いが漂ってきた。


「……鍋!」


 夕食は、黒く焦げ付いていた。


 赤子はその日、初めて立った。


 同時に、マクスウェルは久しぶりに夕食作りに失敗

した。



     ◇



 秋が深まり、冷たい風が吹き始めた頃。


 赤子が初めて熱を出した。


 始まりは、ほんの小さな違和感だった。


 いつもなら朝になると元気に声を上げる。


 だがその日は、目を覚ましても静かなままだった。


「どうした?」


 マクスウェルが額へ手を当てる。


 熱い。


 普段よりも明らかに体温が高い。


「……熱か」


 回復魔法を使おうとして、マクスウェルは手を

止めた。


 回復魔法は傷を癒やすことはできる。


 だが、病の原因を理解せず、無闇に魔力を流せば、

幼い体へ負担をかける可能性がある。


 赤子の呼吸は浅い。


 頬は赤く、額には汗が浮かんでいた。


「大丈夫じゃ」


 マクスウェルは自分自身へ言い聞かせるように

呟いた。


「この程度の熱、すぐに下げてみせる」


 薬草を選び、幼い体でも飲めるよう成分を薄める。


 冷たい水で布を濡らし、額へ乗せる。


 室温を一定に保ち、呼吸と脈拍を確認する。


 できることはすべて行った。


 それでも熱はなかなか下がらなかった。


「ふぇ……」


「ここにおる」


 弱々しい声が聞こえるたび、マクスウェルは左手を

握らせた。


「どこにも行かぬ。安心せい」


 赤子の指が、力なく彼の指を掴む。


 夜になっても、マクスウェルは寝台のそばを離れ

なかった。


 何度も薬の量を確認し、布を替え、水分を与える。


 わずかな呼吸の変化にも目を覚まし、そのたびに

顔色を確かめた。


 大賢者と呼ばれた男の知識をもってしても、絶対に

助かるという保証はどこにもない。


 かつて、大切な人を救えなかった。


 その記憶が、何度も脳裏をよぎる。


「……やめろ」


 マクスウェルは首を振った。


 今、腕の届く場所にいる命を見失ってはならない。


「この子はニアではない」


 誰に言うでもなく、静かに告げる。


「今度こそ、などと勝手に重ねてはならん」


 赤子には、赤子自身の命がある。


 誰かの代わりではない。


 失った人の穴を埋めるために、この子を育てている

のではない。


「おぬしは、おぬしじゃ」


 小さな手を包み込む。


「だから、生きろ」


 夜明けが近づく頃。


 赤子の呼吸が、少しずつ穏やかになっていった。


 額へ手を当てる。


 まだ熱はある。


 だが、昨夜よりも確かに下がっている。


「……下がった」


 マクスウェルの肩から、一気に力が抜けた。


 椅子の背へ体を預け、天井を仰ぐ。


「よかった……」


 声が震えた。


 目元から、一筋の涙が流れる。


 そのとき、赤子がゆっくりと目を開いた。


「あぅ……」


「起きたか」


 赤子はマクスウェルの顔を見上げる。


 そして、弱々しくも確かに笑った。


 マクスウェルは慌てて顔を背ける。


「な、なんじゃ。汗が目に入っただけじゃぞ」


 赤子は当然、何も聞いていない。


「あぅ」


「泣いてなどおらんからな」


 小さな指が、マクスウェルの指を握る。


「……本当に、心配ばかりかけおって」


 その声は、どこまでも優しかった。



     ◇



 冬。


 死の森は白い雪に覆われた。


 家の中では暖炉の火が燃え、小さな寝台の周囲を

暖めている。


 赤子は毛布に包まり、マクスウェルの膝の上で

眠っていた。


 彼は片手で研究記録を開き、ゆっくりと筆を動かす。



  観察記録・第三百六十五号。


  あの日から、一年。


  泣くことしかできなかった赤子は、今では自分で

立ち上がろうとし、部屋中を動き回る。


  よく食べ、よく眠り、よく笑う。


  熱を出したときは、正直、生きた心地が

しなかった。


  だが今日も元気に過ごしている。



 筆先が止まる。


 初めは、赤子の行動を解明するために始めた記録

だった。


 泣く原因。


 眠る時刻。


 食事の量。


 体温。


 脈拍。


 すべてを数値にし、法則を見つけようとした。


 だが、いつからだろう。


 記録には、数値よりも出来事が増えていた。


 初めて笑った。


 初めて寝返りを打った。


 初めて立った。


 熱が下がった。


 ただそれだけの出来事を、忘れないように書き

残している。


 これはもう、研究記録ではない。


 マクスウェルは眠る赤子を見下ろした。


 白い髪。


 穏やかな寝顔。


 小さな手は、彼の服の裾を掴んでいる。


 筆を動かし、最後の一文を書き加えた。



  おぬしは、よくここまで大きくなった。



「……一年か」


 呟きながら、赤子の頭を優しく撫でる。


 体の傷も、今ではほとんど塞がっていた。


 右腕を失ったことには、まだ慣れない。


 だが左腕だけでも、生活には困らない程度に動ける

ようになった。


 家の修理も終わった。


 赤子の生活も安定し、以前ほど一日中付き添う必要

はなくなっている。


「そろそろ、わしも戻らねばならんな」


 視線を、部屋の隅へ向ける。


 そこには、爆発の後に新しく作った一本の杖が

立てかけられていた。


 時間遡行の研究。


 ニアを救うという願い。


 一年間、心の奥へしまい込んでいた過去。


 赤子を育てることで、その痛みが消えたわけでは

ない。


 諦めたわけでもない。


「療養期間も、これで終わりじゃ」


 マクスウェルは静かに決意する。


「明日から、少しずつ魔法の訓練を再開するとしよう」


 膝の上の赤子が、小さく身じろぎした。


 起こさないよう、背中を優しく撫でる。


「心配するでない。無茶はせぬ」


 返事はない。


 けれど、赤子の手は彼の服を離さなかった。


 マクスウェルは、その小さな手を見つめながら

微笑んだ。


「今のわしには、おぬしがおるからのぉ」


 それは、彼自身も気付かぬほど自然にこぼれた言葉

だった。


 窓の外では、静かに雪が降り続いている。



 マクスウェルはまだ知らなかった。


 過去へ戻るために再び踏み出そうとした、その一歩が。


 彼の残された人生を、大きく変えることになるということを。



     ◇



 「そろそろ療養期間も終わりで良いじゃろう。

リハビリも兼ねて、まずは再トレーニングからじゃな」


 体の回復は順調だった。


 右腕こそ失ってしまったものの、傷口は完全に

塞がり、全身に負っていた損傷も癒えている。


 長時間動き回っても息は上がらない。


 生活するだけなら、もう何の不自由もない。


 マクスウェルは家の外へ出ると、庭の中央で足を

止めた。


 芝生は青々と茂り、端には小さな菜園が

広がっている。


 爆発で荒れ果てた庭も、この一年で少しずつ元の姿

を取り戻していた。


 「まずは基本的な魔力操作からやっていこうかのう」


 左手を静かに掲げる。


 体内を巡る膨大な魔力が腕へと集まり、空間を

わずかに歪ませ始めた。


 大賢者の魔力は、一切放出しなくとも周囲へ圧力を

与えるほど濃密だった。


 しかし――


 「あれ……?」


 放出した魔力が揺らぐ。


 一定の濃度を保てない。


 強くなったかと思えば急激に弱まり、再び膨れ

上がる。


 まるで呼吸を乱した炎のように、不安定に揺れ続け

ていた。


 「うまく……維持できん」


 今までと同じ感覚で制御している。


 それなのに思い通りにならない。


 試しに身体全体へ魔力を巡らせ、防御膜を形成する。


 本来なら寸分の乱れもなく身体を覆うはずの魔力膜

は、場所によって濃淡が生まれ、明滅を繰り返して

いた。


 維持そのものはできる。


 だが安定しない。


 「なんでじゃ……」


 療養中は大量の魔力を扱うことを避けてきた。


 だから気付かなかった。


 これは右腕を失っただけでは説明がつかない。


 「……体内か」


 マクスウェルはその場へ座り込み、意識を深く内側

へ沈める。


 魔力を一本の糸のように細くし、自らの体内を

流し始めた。


 肩、胸、背中、腹部、脚、指先。


 一本一本の魔力経路を丁寧に辿っていく。


 そして。


 「……なんじゃ、これは」


 太く滑らかなはずの魔力経路は、無数の細い

枝分かれに傷つけられていた。


 魔力を流すたびに損失が生まれ、その量も一定では

ない。


 ある場所では集まり過ぎ、別の場所では流れ

切らない。


 これでは大量の魔力を扱うほど制御は不安定になる。


 調査を終えたマクスウェルは、力なく空を見上げた。


 「終わり……かもしれんなぁ」


 一筋の涙が頬を伝う。


 原因は明らかだった。


 爆発の瞬間、暴走した膨大な魔力が逆流し、全身の

魔力経路を焼き裂いたのだ。


 「爆発したとき……逆向きに魔力が流れてきたの

かもしれんのぉ」


 静かに呟く。


 「若ければ修復できたかもしれん。じゃが、この

歳ではのぉ」


 杖を支えに立ち上がる。


 その背中から覇気は消え、とぼとぼと家へ戻って

いく姿は、まるで魂だけが残った屍のようだった。


 家へ戻ったマクスウェルは、玄関の扉を開けたまま、

その場へ崩れ落ちるように腰を下ろした。


「……終わった」


 その一言が、静かな家へ溶けていく。


 右腕を失ったことよりも。


 時間遡行魔法の失敗よりも。


 今、彼の心を折ったのは――自分の魔法が二度と

元には戻らないかもしれないという現実だった。


 大賢者と呼ばれた男は、誰よりも自分の身体を

理解している。


 だからこそ分かってしまう。


 魔力経路の損傷は、一朝一夕で治る傷ではない。


 若ければ長い年月をかけて修復できたかもしれない。


 しかし、自分にはもうその時間が残されていない。


 椅子へ腰掛ける。


 視線の先には、棚へしまわれた一本の酒瓶。


 ニアを失って以来、一度は遠ざけると決めた

酒だった。


 しばらく見つめたあと、マクスウェルは静かに瓶を

手に取る。


「……今日だけじゃ。」


 誰へ言い訳するでもなく呟く。


 琥珀色の液体をコップへ注ぐ。


 一口。


 二口。


 喉を焼くような熱さが胸へ落ちていく。


 だが、心の痛みだけは少しも薄れなかった。


 時間遡行。


 ニア。


 爆発。


 右腕。


 魔力経路。


 失敗。


 諦める。


 その言葉ばかりが頭を巡る。


「わしは……何のために生き残ったんじゃろうな。」


 空になったコップへ、再び酒を注ぐ。


 その時だった。


「あぅ?」


 部屋の奥から、小さな声が聞こえた。


 マクスウェルはゆっくり顔を上げる。


 そこには、眠そうに目をこすりながら立つステラの

姿があった。


 まだ覚束ない足取りで、転びそうになりながらこちらへ歩いてくる。


「あぅ。」


 小さな手が、マクスウェルの膝へ触れた。


 何も言わない。


 ただ、傍に来たかっただけなのだろう。


 マクスウェルは酒瓶を見つめ、それからステラを

見る。


 やがて苦笑しながら酒瓶へ栓をした。


「……子どもの前で飲むものではないの。」


 そう言ってステラを抱き上げる。


 温かい。


 小さな体温が、冷え切った胸へゆっくりと染み

込んでいく。


「おぬしは、本当に不思議な子じゃ。」


 ステラは嬉しそうに笑い、マクスウェルの服を

ぎゅっと握った。


 その笑顔を見ていると、不思議と涙だけは止まっていた。


 けれど、その夜。


 マクスウェルは眠ることができなかった。


 失われた魔力。


 失われた右腕。


 失われた未来。


 その現実は、静かに彼の心を蝕み続けていた。


 そして、その積み重なった感情が。



 それからおおよそ半年の月日が流れた。


 マクスウェルは以前と変わらぬように振る舞って

いた。


 朝になれば畑へ出る。


 ステラへ食事を与え、遊び相手になり、眠れば

家事をこなす。


 表情も穏やかだった。


 だが夜になると、その穏やかさは静かに崩れていく。


 暖炉の火だけが揺れる部屋。


 机の上には一冊の研究書。


 そして、その隣には酒瓶が一本。


 最初は一杯だけだった。


 眠れない夜をやり過ごすため。


 ほんの少しだけ心を落ち着かせるため。


 しかし、その一杯は二杯となり、三杯となる。


 気が付けば酒瓶は空になっていた。


 「……情けないのぉ」


 笑う。


 笑っているはずなのに、頬には涙が流れていた。


 研究室の奥。


 棚へしまわれた時間遡行理論の資料へ視線を向ける。


 あの日まで、人生のすべてだった。


 ニアを救う。


 その一つだけを信じ、何十年も積み重ねてきた。


 だが今は、その夢へ手を伸ばす術すら失って

しまった。


 「すまんな……ニア。」


 その名を口にした瞬間だった。


 ドンッ――。


 家全体が小さく揺れた。


 「……?」


 最初は地震かと思った。


 だが次の瞬間。


 ドォンッ!!


 今度は窓ガラスがびりびりと震えるほどの衝撃が

走る。


 「何じゃ!?」


 マクスウェルは酒瓶を倒しながら立ち上がった。


 衝撃は奥の部屋からだった。


 ステラが眠っている部屋。


 嫌な予感が背筋を駆け抜ける。


 急いで扉を開く。


 その瞬間、眩い白銀の光が部屋中へ溢れ出した。


 「これは……!」


 部屋の中央。


 ベッドの上で眠るステラを中心に、膨大な魔力が

渦を巻いている。


 まだ幼い身体から放たれているとは思えないほど

濃密な魔力。


 空気が震え、家具が軋み、壁へ細かな亀裂が走る。


 窓ガラスはひとりでに割れ、外へ吹き飛んだ。


 「魔力暴走……じゃと?」


 信じられなかった。


 これほど幼い子どもが、これほど膨大な魔力を

宿しているなど聞いたことがない。


 しかも制御は完全に失われている。


 このままでは、あの日と同じことが起きる。


 「駄目じゃ!」


 マクスウェルは咄嗟に結界を展開した。


 だが不安定な魔力経路では、結界も完全には

維持できない。


 光の奔流へ触れるたび、結界が軋み、揺らぐ。


 「くっ……!」


 左腕へ激痛が走る。


 それでも杖を握る力は緩めなかった。


 目の前には、小さく震えるステラがいる。


 あの日、守れなかった命。


 そして今、守らなければならない命。


 「今度は……失わん。」


 マクスウェルは歯を食いしばり、一歩、また一歩と

光の中心へ踏み込んでいく。


 白銀の魔力は、まるで彼を拒むように荒れ狂い、

なおも部屋中を満たしていた。


 マクスウェルは左手から少しずつ魔力を流し込み、

暴走する魔力へ静かに触れる。


「赤子では魔力を制御することなどできん……ならば、

わしが導くしかあるまい!」


 自らの魔力を無理にぶつけることはしない。


 少量ずつ流し込み、ステラの魔力と同調させる。


 荒れ狂う流れへ一本の道筋を作るように、少しずつ、

少しずつ一定方向へ誘導していく。


 傷ついた魔力経路が悲鳴を上げる。


 左腕へ激痛が走る。


 それでもマクスウェルは手を離さなかった。


「今度は……失わん」


 やがて暴走していた光は徐々に弱まり、灼熱だった

室内も静けさを取り戻していく。


 最後の光が消えた頃には、ステラは安心したように

寝息を立てていた。


「……なんとか、なったか」


 マクスウェルは大きく息を吐く。


 世界広しといえど、他者の暴走した魔力をここまで

繊細に制御できる者は、彼以外にいないだろう。


 同調はまだ切れていない。


「……せっかくじゃ。少しだけ、見せてもらうぞ」


 慎重に、自分の魔力をごく僅かだけ逆流させる。


 調べたいのは才能ではない。


 この子が何者なのか、その片鱗だった。


 最初に見えたのは、魔力経路だった。


「……太い」


 思わず声が漏れる。


 いや、太いだけではない。


 しなやかだった。


 高位魔導師でも硬く癖が付きやすい魔力経路が、

まるで生き物のように柔軟に脈動している。


 魔力が流れるたび、経路そのものが最適な形へ変化

し、損失をほとんど生んでいない。


「こんな経路……見たことがない」


 さらに奥へ意識を進める。


 心臓のさらに深部。


 圧縮された魔力が蓄えられる魔力核。


 そこへ僅かな魔力が触れた瞬間――。


 吸い込まれた。


 一瞬だった。


 自分の魔力は跡形もなく飲み込まれる。


「この吸収速度……」


 高密度の魔力結晶があれば正確に測定できる。


 だが今はない。


 それでも長年の経験だけで、おおよその容量は

分かった。


「容量は……わしと同等か」


 冷や汗が頬を伝う。


 さらに経路は、自分以上。


 この年齢であり得る話ではない。


 赤子の器ではない。


「容量はわしと同等……経路はわし以上……」


 顎へ手を当て、静かに考え込む。


 絶望していた心へ、小さな光が差し込んだ。


 時間遡行。


 ニア。


 失われた夢。


 右腕。


 壊れた魔力経路。


 すべてを一人で背負うことは、もうできない。


 だが。


 未来へ託すことならできる。


 マクスウェルはゆっくり立ち上がった。


 曇っていた表情から迷いは消えている。


「よしっ!!」


 力強く拳を握る。


「出会ったのも何かの運命じゃ! こ奴に、わしの

全てを託そうではないか!!」


 その声は、この一年で初めて未来へ向けられた

叫びだった。


「飲んだくれの毎日は今日で終いじゃ!」


 眠る赤子を見つめる。


「そうじゃな……まずは名前を付けねばの」


 漆黒の卵から生まれ。


 光となって再び自分を驚かせた小さな命。


 窓の外には、夜空いっぱいの星々が輝いていた。


「おぬしの名は――ステラ」


 優しく頭を撫でる。


「光る星の意じゃ。今日から、おぬしはステラじゃ」


 眠ったままの少女は、安心したように小さく

微笑んだ。


 その笑顔を見て、マクスウェルも静かに笑う。


 こうして大賢者は、過去だけを見続けた人生へ

終止符を打った。


 そしてこの日。


 未来を紡ぐための、新たな一歩を踏み出した。

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