第1話_誕生
「……けて」
誰かの声がした。
「……す、けて」
遠い。
けれど、確かに聞こえる。
今にも途切れてしまいそうな、か細い声だった。
私は暗闇の中を沈んでいた。
上も下も分からない。
光も、音も、温もりさえもない。
手を伸ばせば何かに触れられそうなのに、そこには
何もない。
ただ果てのない漆黒だけが広がり、私の体を
ゆっくりと底へ引きずり込んでいく。
「た……す、けて」
また、聞こえた。
女の子の声だ。
どこからだろう。
右?
左?
それとも、ずっと下の方?
辺りを見回そうとしても、首は動かなかった。
体が重い。
まるで全身に鉛を詰め込まれたみたいだ。
胸の奥まで押し潰され、息を吸うことすらできない。
それなのに、心臓だけは沈んでいく体に逆らう
ように、早鐘を打っていた。
「……たす、けて」
声が、少し近くなった気がした。
悲しくて。
苦しくて。
今にも泣き崩れてしまいそうな声。
放っておいてはいけない。
そう思った。
理由なんて分からない。
声の主が誰なのかも知らない。
それでも、助けなければならない気がした。
「…………けて」
私は右腕を動かそうとした。
けれど、動かない。
指先ひとつ、自分のものではなくなったように
重かった。
それでも諦めず、何度も力を込める。
少しずつ。
本当に少しずつ。
沈んでいく体に逆らいながら、私は暗闇へ向かって
右手を伸ばした。
そのとき――
ガシャ……。
指先が、何かに触れた。
冷たい。
硬く、ざらついた感触。
手探りで確かめると、それは一本の鎖だった。
古びて、茶色く錆び付いた鎖。
ガシャ……ガシャ……。
私が触れたことで、鎖が揺れる。
乾いた金属音が、何もなかったはずの暗闇へ
広がっていく。
その瞬間だった。
漆黒の中に、ぼんやりと一つの姿が浮かび上がる。
少女だった。
小さな体を無数の鎖に繋がれ、暗闇の底で
泣いている。
手首に。
足首に。
細い首にまで。
何本もの鎖が絡みつき、少女をその場へ縛りつけて
いた。
長い髪が涙に濡れた頬へ張り付いている。
少女は震える腕を懸命に伸ばし、まっすぐ私を
見つめていた。
その顔は、なぜかよく見えない。
それなのに――その瞳からこぼれ落ちる涙だけは、
はっきりと見えた。
「助けてっ!!」
◇
ドタンッ!!
「いったぁぁぁぁっ!」
後頭部に強烈な痛みが走った。
気が付けば、私はベッドから転げ落ち、床の上で
丸くなっていた。
「うぅぅ……痛い……頭が割れる……」
両手で後頭部を押さえ、じたばたと床を転がる。
白く腰まで伸びる艶やかな髪の毛がそれと同時に床を
掃除した。
痛い。
痛い痛い痛い。
涙が滲むほどの痛みに耐えること、しばらく。
ようやく衝撃が和らいできたところで、私は
ふらふらと体を起こした。
綺麗な桃色をした目からうっすらと涙が浮かび
上がっている。
「あー……本当に痛かった……」
まだじんじんする後頭部をさすりながら、自分の
部屋を見回す。
見慣れた木の天井。
少しだけ傷の入った壁。
小さな机と、古びた本棚。
窓からは、春の柔らかな朝日が差し込んでいた。
どうやら、夢だったらしい。
「誰かに呼ばれてたような……」
暗い場所にいた。
冷たい何かに触れた。
そして、誰かが泣いていた。
そこまでは覚えている。
けれど、肝心なところだけが霧に包まれたように
ぼやけていた。
思い出そうとすると、記憶は指の隙間からこぼれ
落ちる砂のように消えていく。
最後には、胸の奥に引っかかる小さな痛みだけが
残った。
「……まあ、いっか」
考えても思い出せないものは仕方がない。
私は立ち上がり、乱れた寝間着を整える。
部屋を出ようとして、扉の脇へ立てかけられた
一本の杖が目に入った。
使い込まれた、古い木の杖。
ところどころ焦げ跡があり、先端には小さな欠け
がある。
お師匠様が、昔使っていた杖だ。
私は無意識に手を伸ばしかけ――途中で止めた。
「……おはようございます、お師匠様」
返事はない。
分かっていたことなのに、静かな部屋が少しだけ
広くなった気がした。
私は杖から目を逸らし、短い廊下を抜けてリビング
へ向かう。
家はそれほど大きくない。
リビングのほかにあるのは、私の部屋と、お師匠様
が使っていた部屋だけ。
二人掛けの小さなテーブル。
大きな食器棚。
簡素なキッチン。
華やかとは言えないけれど、長いあいだ二人で
暮らしてきた、大切な家だった。
「さてと。朝ご飯、朝ご飯」
お腹が空いていては、何も始まらない。
食材棚を開けてみる。
残っていたのは、卵がいくつかと、ほんの少しの
野菜だけだった。
「今日も目玉焼きかぁ……」
最近の朝食は、ほとんど毎日が目玉焼きだ。
嫌いではない。
むしろ好きな方ではある。
黄身はとろとろにするか、少し硬めにするか。
焼き方を変えれば、それなりに違いも楽しめる。
それでも、毎日となると、さすがに別のものが
恋しくなってくる。
「そろそろ、別の食材でも採りに行こうかな」
この家で口にする食べ物のほとんどは、死の森から
得たものだ。
木の実や山菜、きのこに薬草。
川へ行けば魚が捕れることもあるし、運が良ければ
鳥の卵も見つかる。
死の森は、幾重もの巨大な山脈に囲まれた広大な
森だ。
外の世界からここへ来るには、いくつもの山を越え
なければならないらしい。
その向こうには町があり、大勢の人が暮らしている。
お師匠様からそう教わったことはあるけれど、私は
一度も見たことがない。
生まれたときから、この森が私の世界だった。
危険な魔物もいる。
毒を持つ草や、触れるだけで痺れる虫もいる。
それでも、食材が欲しければ自分の足で森へ入る
しかない。
昔はお師匠様と二人で採りに行っていた。
今では、その役目も私一人のものだ。
「今日は卵で我慢しよう」
私は右手をかざし、キッチンに備え付けてある土へ
魔力を流し込む。
土が静かに盛り上がり、柔らかな粘土のように形を
変え、やがて小さな台座と一枚の皿になる。
この世界では、大抵のことは魔法で何とかなる。
火を起こし、水を集め、土を形作る。
魔法は一部の特別な人間だけが使う奇跡ではない。
人々の暮らしに根付いた、ごく当たり前の力だ。
もちろん、誰もがすべての魔法を使えるわけでは
ない。
得意な属性もあれば、苦手な属性もある。
同じ火魔法でも、焚き火を起こすのが精いっぱいの
人もいれば、巨大な炎を生み出す人もいる。
けれど私にとって、これくらいの魔法は朝飯前
だった。
「……あれ?」
口にしてから、私は首を傾げる。
まだ朝ご飯を食べていないのだから、本当に朝飯前
ではある。
「今回は合ってるのかな……?」
少し考えたけれど、よく分からなかったので気に
しないことにした。
「えいっ」
皿の上へ卵を割り入れ、今度は火の魔法で下から
ゆっくりと熱していく。
白身が透明から白へ変わり、黄身の表面がふるふる
と揺れ始めた。
「うん。このくらい」
火を止め、余分な熱だけを逃がす。
あっという間に、目玉焼きの完成だ。
今日は黄身を少しだけ柔らかめにした。
私は皿をテーブルへ運び、続いて土魔法でコップを
作る。
空気中に漂う水分を集め、透明な雫へ変えながら、
コップの中へ注いでいく。
水が満ちたところで、私は一人、席に着いた。
「いただきます」
窓の外では、小鳥たちが元気よく飛び回っていた。
季節は春。
長かった寒さもようやく和らぎ、差し込む陽射しに
も温かさが戻り始めている。
私は目玉焼きを一口食べた。
端はぱりぱり。
黄身は狙った通り、少しだけとろりとしている。
「今日は上手にできたかも」
思わず笑みがこぼれる。
けれど、その言葉に答える人はいない。
家の中には、食器を動かす小さな音だけが響いて
いた。
以前なら、向かい側の席にはもう一人座っていた。
腕を組みながら偉そうに料理を眺めて、決まって
余計な一言を口にする。
『ふむ。昨日よりはましじゃな』
『昨日もお師匠様、全部食べてたじゃないですか』
『あれは食材を無駄にせぬためじゃ』
『おかわりもしてましたよね?』
『……育ち盛りなのじゃ』
『誰がですか?』
そんなやり取りが、当たり前のようにあった。
けれど今、向かい側の椅子は空っぽだった。
「……もう半年かぁ」
私は八歳。
もうすぐ九歳になる。
そして、一人で暮らし始めてから、半年が経とう
としていた。
月日が流れるのは早い。
身長もだいぶ伸びてきて、今では120cmは超えた
だろうか。
つい昨日まで隣にいたような気がするのに、振り
返れば、あの日から随分と時間が経っている。
私には、一緒に暮らしていた家族が一人だけいた。
この世界で、たった一人の家族。
私がお師匠様と呼んでいた人。
マクスウェル・ヴァーミリオン。
私にとって師匠であり、親であり、何よりも大切な
人だった。
お師匠様は、いつも決まってこう名乗った。
『我が名はマクスウェル! この世界で唯一無二の
大賢者なり!』
胸を張り、長い白髪を風になびかせながら、大げさ
なくらい堂々と言うのだ。
もっとも、その直後にぎっくり腰で動けなくなることも珍しくなかった。
『お、おのれ……! この程度、大賢者たるわしに
とっては何でもないわい……!』
『声、震えてますよ?』
『震えてなどおらん! これは大地がわしの力に恐れ
おののいておるのじゃ!』
『家、揺れてませんけど』
『細かいことを気にするでない!』
鳥の巣から卵を取ろうとして枝から落ちたり。
薬草を煮込んだまま研究へ夢中になり、鍋を真っ黒
に焦がしたり。
それなのに、失敗したところを見られると必ず言い
訳をする。
『本当に大賢者なんですか?』
私が笑いながらそう尋ねると、お師匠様はいつも眉
を吊り上げた。
『疑うでない! わしこそは、天地に並ぶ者なき
大賢者じゃぞ!』
そんなお師匠様が、私は大好きだった。
少し抜けていて。
意地っ張りで。
子どもみたいに負けず嫌いで。
それでも、やっぱりお師匠様はすごい人だった。
魔法のこと。
剣のこと。
森で生きるための知恵。
そして、私の知らない外の世界のこと。
私が物心ついた頃から、お師匠様は本当にたくさん
のことを教えてくれた。
私は、それが当たり前だと思っていた。
朝になれば、お師匠様がいて。
夜になれば、同じ家で眠る。
明日も。
その次の日も。
そんな毎日が、ずっと続くのだと思っていた。
けれど、今はもういない。
「お師匠様……」
口に出した名前は、静かな部屋の中へ溶けていった。
私は向かい側の空席を見つめる。
その椅子の背には、お師匠様が使っていた古い
上着が掛けられたままだ。
片付けようと思ったことは、何度もある。
けれど、どうしても手を伸ばすことができなかった。
上着を片付けてしまったら、本当にもう帰って
こないような気がしたから。
「これから……どうしようかな」
お師匠様のいない世界で。
一人きりになった、この家で。
私は何を目指し、どこへ進めばいいのだろう。
答えは、まだ見つからない。
だから最近は、同じことばかり考えている。
お師匠様は、私に何を教えてくれたのか。
何を残し、何を託そうとしたのか。
それを全部思い出すことができたなら、私にも
進むべき道が見えるのだろうか。
「……たまには、昔のことを思い出してみようかな」
私は食べ終えた皿をそっと置き、目を閉じた。
最初に浮かんできたのは、私が生まれた日のこと。
もっとも、それは私自身の記憶ではない。
お師匠様から何度も聞かされた、九年前の
物語だった。
◇
九年前――。
幾重もの巨大な山脈に囲まれ、外界から切り
離された死の森。
人の気配など欠片もないその森の奥深くで、突如
として轟音が鳴り響いた。
ドォォォォンッ!!
大地が跳ね上がる。
爆炎が空へ噴き上がり、衝撃波が草原を一息に駆け
抜けた。
生い茂る草が根元から薙ぎ払われ、森の木々が悲鳴
を上げるように大きく軋む。
鳥たちは空へ逃げ、獣や魔物たちは方角も選ばず
駆け出した。
やがて土煙がゆっくりと晴れていく。
つい先ほどまで緑に覆われていた草原の中央には、
巨大なクレーターが口を開けていた。
「げほっ、げほっ……うぅむ。今回も失敗じゃな」
煙の中から、ひどく場違いなのんびりした声が
聞こえた。
クレーターの縁に、一人の老人が立っている。
長く伸びた白髪。
同じく白く染まった髭。
使い込まれた濃紺の外套と、背丈ほどもある
一本の杖。
名を、マクスウェル・ヴァーミリオン。
魔法国家マギーアにおいて、かつて大賢者と呼ばれ
た男である。
もっとも、当人は〝かつて〟という部分を決して
認めなかった。
『我が名はマクスウェル! この世界で唯一無二の
大賢者なり!』
彼は誰に聞かせるでもなく、普段からそう名乗って
いた。
この時、マクスウェルは六十二歳。
年齢の割には鍛えられた体つきを保っていたものの、
長年にわたる研究と無理な魔法の行使によって、その
顔には深い疲労が刻まれていた。
「……記念すべき千回目まで失敗とは、さすがに笑え
んのぉ」
マクスウェルは焦げた外套の裾を払い、目の前の
クレーターを眺めた。
そして、しばし沈黙したあと――
「どうしてじゃ!」
杖を地面へ叩きつける。
「なぜ、うまくいかんのじゃ! 魔力の総量は足りて
おる! 術式にも計算にも狂いはない! なのになぜ
毎回毎回、最後には爆発するのじゃあっ!」
ゴンッ、ゴンッ、と杖が地面を打つ。
三度目で杖の先端がわずかに欠けた。
「……おっと」
マクスウェルは急に冷静になり、欠けた部分を指で
なぞった。
「いかんいかん。こやつまで壊してしまえば、明日
から実験ができぬではないか」
杖に修復魔法をかけながら、彼は深いため息を吐く。
「まったく。物に当たるなど、賢者のすることでは
ないのぉ」
誰も見ていないのをいいことに、自分で自分を
たしなめる。
その直後、足元に転がっていた小石を蹴飛ばした。
小石はクレーターの底まで転がり落ちていった。
「これは物に当たったわけではない。邪魔な位置に
あっただけじゃ」
無論、言い訳を聞く者は誰もいない。
ひとしきり感情を吐き出したことで、ようやく
頭が冷えたらしい。
マクスウェルは杖を地面へ突き立て、顎髭を撫で
ながら爆心地を見つめた。
「魔力不足ではない。ならば、圧縮の方法か……?」
爆発の規模は前回より小さい。
つまり、術式を構成する魔力そのものは以前より
安定していた。
問題は、最後の一瞬。
圧縮した力が一定の限界を越えた瞬間、内部で均衡
が崩れ、行き場を失った魔力が外へ弾け飛ぶ。
「圧縮が足りぬのではない。むしろ、急激に押し込み
すぎておる……?」
マクスウェルは目を細めた。
「いや。それならば、爆発の直前に空間が歪んだ説明
がつかん」
地面に指先を向け、土魔法で平らな板を作り出す。
さらに細い石片を浮かせ、板の上へ実験の術式を
刻み始めた。
一つの可能性を書き出しては消し、別の式を組み
上げていく。
「圧縮の過程で空間そのものが耐えられなくなって
おるのか?」
石片が止まる。
「空間が消滅しておる……? いや、消滅したので
あれば爆発など起こらぬはずじゃ。消滅ではない。
押し潰された空間が、元の形へ戻ろうとして
反発している……?」
ぶつぶつと独り言を重ねながら、マクスウェルは
術式の一部を書き換えた。
その目に、先ほどまでの苛立ちはない。
未知の現象を前にした研究者の光だけが宿っている。
こうなった彼は長い。
日が傾き始めても、空腹を覚えても、周囲の声が
耳へ届かなくなる。
もっとも、この森で彼を呼ぶ者などいなかったが。
◇
マクスウェルには、どうしても叶えたい願いが
あった。
たとえ何年を失おうとも。
どれほど自分の体を傷つけようとも。
世界中の人間から愚か者と笑われようとも。
決して諦めることのできない願い。
――過去へ戻ること。
そして、最愛の女性を救うこと。
「ニア……」
小さく口にした名前が、夕暮れの草原へ溶けていく。
マクスウェルは外套の内側へ手を入れ、一枚の古び
た小さな肖像画を取り出した。
そこには、穏やかに微笑む一人の女性が描かれて
いる。
柔らかな髪。
優しげな瞳。
もう二度と、彼へ向けられることのない笑顔。
彼女の名はニア。
マクスウェルがこの世で最も愛し――そして、守る
ことのできなかった女性だった。
「もう少しじゃ」
肖像画の表面を、親指でそっと撫でる。
「わしは必ず、おぬしを迎えに行く」
だが、その言葉に答える声はない。
「……たとえ、今さら許してもらえずともな」
最後の一言だけが、ひどく弱々しかった。
マクスウェルは肖像画を胸元へ戻し、目の前の
クレーターへ視線を戻す。
過去を変える魔法。
それは、世界最大の魔法国家でさえ不可能と断じた
領域だった。
火を起こす。
水を生み出す。
傷を癒やし、空を飛び、遠く離れた場所へ一瞬で
移動する。
大抵のことが魔法で可能になるこの世界でさえ、
時間だけは決して逆戻りしない。
失われた命は戻らない。
起きてしまった出来事は、なかったことにはでき
ない。
それが世界の理であり、誰もが受け入れるべき絶対
の法則だった。
だからこそ、マクスウェルは受け入れなかった。
「絶対に不可能などという言葉は、できぬ者が諦める
ために作った言い訳じゃ」
彼はそう言い続けた。
数年前、時間を遡るための仮説へたどり着いた
マクスウェルは、マギーアを離れた。
危険な実験を人里で行えば、何人もの命を巻き込む
ことになる。
彼が選んだのは、幾重もの山脈を越えた先にある
死の森だった。
強力な魔物が棲み、人間が近寄ることすらない秘境。
森の中央に開けたこの草原ならば、どれほど危険な
魔法を試しても、他人を巻き込む心配はない。
代わりに、失敗したとき命を失うのは自分一人。
マクスウェルにとって、それはむしろ都合が
良かった。
実験には、彼ほどの大魔導師であっても一度で魔力
を使い切るほどの力が必要になる。
一日に行えるのは一度だけ。
失敗すれば、魔力が戻るまで待つ。
その間に結果を考察し、術式を修正する。
そして翌日、再び自分自身を実験台にする。
その繰り返しだった。
一回。
十回。
百回。
気が付けば、千回。
流れた年月を数えることは、とうにやめていた。
◇
翌朝。
朝露に濡れた草原の中央で、マクスウェルは前日の
実験結果を記録していた。
彼の前には、無数の文字と魔法式が刻まれた石板が
並んでいる。
「爆発の直前、圧縮領域の外縁が一瞬だけ内側へ
歪んだ」
石板の一部へ新しい式を書き加える。
「内部の魔力が外へ逃げたのではない。外側の空間が
内側へ引かれた……?」
手が止まる。
しばらく式を見つめたあと、マクスウェルは突然、
石板を杖で指した。
「逆ではないか?」
誰に問うでもなく呟く。
「わしは今まで、時間の流れを魔力で押し戻そうと
していた」
世界には、あらゆるものに向きがある。
川の水は高い場所から低い場所へ流れる。
火は燃料を消費し、熱を生み出す。
人は生まれ、成長し、老いていく。
時間もまた、過去から未来へ向かって流れている。
「ならば、問題は力の大きさではない。向きじゃ」
どれほど強い力で押し返そうとも、時間そのものが
未来へ流れ続けている限り、過去には戻れない。
川の流れに逆らって泳ぐことはできても、川その
ものを逆向きに流すことはできない。
「時間を逆転させるのではない」
マクスウェルの瞳に光が宿る。
「時間の向きそのものが存在しない場所を作り、
そこへ新たな向きを与える」
彼は石板へ次々と新しい式を書き込んでいく。
「空気も、光も、魔力もない。外側の世界と切り離さ
れた、完全な空白」
何にも影響されない空間。
過去も未来も存在しない場所。
もしそんな空間を作ることができたなら、その内側
にだけ逆向きの流れを与えられるかもしれない。
「その空間ごと、未来から過去へ向かうように圧縮
すれば……」
石片を持つ手が止まった。
理論としては、あまりにも危うい。
そもそも、完全に何も存在しない空間など、人間が
作り出せるものではない。
失敗すれば、何が起こるかも分からない。
「……ふむ」
マクスウェルは腕を組み、しばらく考え込んだ。
やがて、ひとつ頷く。
「考えても分からぬものは、試すしかないのぉ」
危険を前にしているとは思えない、実に軽い口調
だった。
杖を手に取り、草原の中央へ歩いていく。
「さて。千一回目の実験といくか」
足を止め、深く息を吸った。
「ニア。今日こそ、少しは前へ進んでみせるぞ」
杖の先端を、何もない空間へ向ける。
「まずは――空間の除去じゃ」
静かに魔力を流し込んだ。
最初に、空気が動いた。
杖の先を中心として、周囲の空気が外側へ押し
出されていく。
次に、細かな砂や埃が弾かれた。
草の種も、小さな虫も、そこへ近づくことを
許されない。
マクスウェルはさらに魔力を注ぎ込む。
光さえも外側へ押し出す。
初めは透明だった空間が、徐々に色を失っていった。
黒いのではない。
暗いのでもない。
光が存在しないため、結果として何も見えない。
やがてマクスウェルの目の前に、拳ほどの漆黒の
球体が生まれた。
「ここまでは……成功じゃ」
額に汗が滲む。
球体の周囲には、外側の物質が元の場所へ戻ろうと
する凄まじい圧力がかかっていた。
空気が。
光が。
世界そのものが。
不自然に生まれた空白を埋めようとしている。
マクスウェルは球体の表面へ魔力を集中させ、
薄い膜を作り上げた。
外側から何一つ入り込ませないための境界。
「ぐっ……!」
両足が地面へ沈む。
杖を握る手が震える。
維持するだけで、全身の魔力が恐ろしい勢いで
削られていく。
「まだ……まだじゃ……!」
球体を保ったまま、マクスウェルは次の工程へ移る。
内部の圧縮。
何も存在しない空間を、さらに小さく押し潰して
いく。
通常ならば、圧縮する対象には必ず何かがある。
空気。
水。
魔力。
あるいは物質。
だが、今そこにあるのは完全な空白だ。
本当に何もない場所を圧縮したなら、何が起こる
のか。
その答えを知る者は、この世界に一人もいない。
「……面白い」
口元が、わずかに緩んだ。
最愛の人を救うための実験。
失敗すれば、命を失うかもしれない。
それでも未知の現象を前にすると、研究者としての
好奇心が顔を出す。
「さて、何が起こる……?」
漆黒の球体が、ゆっくりと縮んでいく。
拳ほどの大きさから、林檎ほどへ。
さらに、卵ほどへ。
その瞬間――
ピシッ。
小さな音が響いた。
「……む?」
球体の中央に、一本の亀裂が走っていた。
空間そのものへ刻まれたような、細い亀裂。
ピシッ、ピシッ。
亀裂は枝分かれし、球体全体へ広がっていく。
マクスウェルは目を見開いた。
「空間が……割れておる?」
あり得ない現象だった。
空間は物ではない。
硬さも、形もない。
本来なら、割れるという概念すら存在しないはずだ。
それなのに、目の前では確かに何かが崩れ始めて
いる。
亀裂の一部が、黒い欠片となって剥がれ落ちた。
そして、その奥から――白い光が漏れ出した。
「何もない場所から……光が?」
その光は、火でも雷でもない。
マクスウェルが知る、どの属性の魔力とも異なって
いた。
暖かくも冷たくもない。
ただ純粋で、あまりにも眩しい。
未知の現象。
人類が誰一人として目にしたことのない、次元の
亀裂。
この瞬間、マクスウェルは人類史上初めて、世界の
境界へ傷をつけた男となった。
だが――
それこそが、彼の最大の失敗だった。
「この光は……どこから――」
ほんの一瞬。
好奇心に意識を奪われた。
杖へ向けていた集中が、わずかに揺らぐ。
それだけで十分だった。
球体を覆っていた魔力の膜に、歪みが生じた。
「……っ!」
光が脈打つ。
球体が大きく膨らんだ。
周囲の空気が、一瞬で吸い寄せられる。
草が根ごと引き抜かれ、石が宙へ舞い上がった。
マクスウェルの長い白髪が、球体へ向かって激しく
なびく。
「まずい!!」
迷う暇はなかった。
「《天壁》! 《聖盾》! 《空断》!
《絶衝結界》!」
持ち得る限りの防御魔法を、一息に展開する。
光の壁が幾重にも重なり、マクスウェルの体を包み
込んだ。
同時に風魔法を足元へ叩き込み、自らの体を地面
から浮かせる。
次の瞬間。
漆黒の球体が、完全に砕け散った。
白い光が世界を埋め尽くす。
音は、少し遅れてやって来た。
ドオオオオオオオオォォォンッ!!
天地が裂けた。
凄まじい爆発が草原を飲み込み、地面が大きく陥没
する。
衝撃波は森を貫き、木々を薙ぎ倒しながら山脈へ
激突した。
白い光は巨大な柱となって天を突き、雲を円形に
吹き飛ばす。
その柱はさらに上空へ伸び続けた。
空を越え。
大気を抜け。
星の外へ届かんばかりに。
昼間であるにもかかわらず、その光は遠く離れた
国々からも確認された。
ある国では、神の降臨と恐れられた。
ある国では、古の悪魔が復活したのだと騒がれた。
またある国では、世界の終わりを告げる光だと
信じられた。
だが、その中心で何が起きていたのかを知る者は、
一人もいなかった。
◇
「……ぐ、ぅ……」
どれほどの時間が経ったのか。
マクスウェルは、焼け焦げた大地の上で目を
覚ました。
耳鳴りがひどい。
視界は白く霞み、全身の感覚が曖昧だった。
何重にも展開した防御魔法は、すべて消し飛んで
いる。
風魔法で体を浮かせ、爆風に乗ることで直撃だけは
避けた。
それでも、無傷では済まなかった。
「生きて……おるのか……?」
自分の声が、ひどく遠く聞こえる。
起き上がろうとして、右側の体が思うように
動かないことへ気付いた。
視線を落とす。
右腕がなかった。
肩から先が、きれいに消失している。
長年使ってきた杖も、跡形もなく失われていた。
「……右腕を、持っていかれたか」
驚くほど冷静な声が出た。
痛みを感じるより先に、失血で意識が遠のき始めて
いる。
肩の傷口から、大量の血が流れ落ちていた。
「《治癒》……!」
残った左手を傷口へ当て、回復魔法を発動する。
淡い光が右肩を包み、裂けた肉と血管を強引に
塞いでいく。
傷口は閉じた。
だが、失われた腕は戻らない。
流れ出た血も戻らない。
回復魔法は万能ではない。
失ったものすべてを、なかったことにはできない
のだ。
「げほっ……げほっ!」
咳き込むと、口元へ赤い血が散った。
爆発の衝撃で、肺も傷ついている。
煙と土埃で空気は薄く、呼吸するたび胸の奥が
焼けるように痛んだ。
それでもマクスウェルは、残った左腕で地面を押し、
どうにか立ち上がった。
膝が震える。
視界が何度も暗転する。
だが、目の前に広がる光景を見た瞬間、彼は痛み
さえ忘れた。
「……なんじゃ、これは」
そこに草原はなかった。
地面は遥か遠くまで抉れ、巨大なクレーターへ
変わっている。
周囲の森も一部が消失し、残った木々は爆心地から
外側へ倒れていた。
空を見上げれば、雲が巨大な円形に消えている。
青空の中央に、白い光の名残だけが細く残っていた。
「ここまでの威力……わしの最大攻撃魔法でも、到底
作り出せまい」
それだけの破壊を生み出しながら、実験の目的は
何一つ達成していない。
過去には戻れなかった。
時間の向きを変えることもできなかった。
得られたものは、正体不明の光と、右腕を失った
という結果だけ。
「失敗……か」
声が震えた。
「千一回目も、失敗……」
マクスウェルは、焼け焦げた大地の上に立ち
尽くした。
胸元に残していたはずの肖像画へ手を伸ばそうと
する。
だが、右腕はもうない。
左手で外套を探り、どうにか肖像画を取り出した。
端は焼け焦げていたが、ニアの姿だけは奇跡的に
残っている。
「すまぬ……」
涙が一滴、肖像画の上へ落ちた。
「また……届かなかった」
何年も費やした。
何度も死にかけた。
今日ついに、体の一部まで失った。
それでも彼女へ近づけたという確信は、どこにも
ない。
悔しさなのか。
痛みなのか。
自分自身への怒りなのか。
マクスウェルにも分からなかった。
「しばらく……実験は中止かのぉ」
努めて軽く言った。
けれど、その声にはいつもの強がりすら残って
いなかった。
マクスウェルは何もない空を見上げる。
その頬を、涙が静かに伝っていた。
そのときだった。
「おぎゃああぁぁぁっ!」
赤子の泣き声が聞こえた。
「……?」
マクスウェルは瞬きをした。
朦朧とする意識が生み出した幻聴だと思った。
だが。
「おぎゃああぁぁぁっ!」
もう一度、はっきりと聞こえた。
「赤子……?」
一瞬で意識が現実へ引き戻される。
マクスウェルは辺りを見回した。
「まさか、近くに人がおったのか!?」
この爆発だ。
もし誰かを巻き込んでいたのなら、無事であるはず
がない。
泣き声は、クレーターの中央から聞こえてくる。
マクスウェルは足を踏み出した。
膝が崩れそうになる。
肺が痛む。
視界が揺れる。
それでも、立ち止まることはできなかった。
「待っておれ……今、行く……!」
クレーターの斜面を、一歩ずつ下りていく。
足を滑らせ、何度も転倒した。
左手で地面を掴み、泥と血にまみれながら体を
起こす。
赤子の泣き声は、途切れることなく続いていた。
やがて、クレーターの最深部へたどり着く。
「……どこじゃ」
焼けた土。
砕けた石。
何も残っていないはずの爆心地。
その中央に――小さな光があった。
淡い輝きに包まれ、一人の赤ん坊が横たわっている。
白い髪の女の子だった。
服すら身につけていない。
傷一つなく、小さな手足を動かしながら、元気
いっぱいに泣いている。
「おぎゃああぁぁぁっ!」
マクスウェルは言葉を失った。
爆発の中心。
岩も大地も消し飛ばした場所で。
なぜ、この子だけが生きている。
「……いや」
違う。
生き残ったのではない。
爆発の前、この場所に赤子などいなかった。
ならば、この子は――
「生まれた……のか?」
あの亀裂から。
あの光の中から。
マクスウェルはゆっくりと膝をついた。
残った左腕を伸ばし、赤ん坊を抱き上げる。
小さい。
あまりにも小さく、少し力を入れれば壊れてしまい
そうだった。
それでも確かな温もりがある。
鼓動がある。
命がある。
「おぎゃあ……おぎゃあ……」
マクスウェルの腕に抱かれた瞬間、赤ん坊の泣き声
が少しだけ弱まった。
やがて、桃色の瞳がゆっくりと開く。
赤ん坊は涙を浮かべたまま、まっすぐマクスウェル
を見つめた。
その瞳に、彼の傷だらけの顔が映っている。
「……生きておる」
マクスウェルの喉から、かすれた声が漏れた。
「本当に……生きておる」
救えなかった命がある。
何度手を伸ばしても、届かなかった人がいる。
けれど今、腕の中にある命は、まだ失われていない。
この子は生きている。
今なら、守ることができる。
マクスウェルは赤ん坊を胸元へ抱き寄せた。
「大丈夫じゃ」
自分自身へ言い聞かせるように呟く。
「もう大丈夫じゃ。わしが……わしがおる」
赤ん坊は小さな左手を伸ばし、マクスウェルの外套
をきゅっと掴んだ。
その瞬間、彼の中で何かが崩れた。
声を殺すように俯く。
ニアを救えなかった日から、胸の奥へ押し込め続け
てきた感情が溢れ出した。
「……そうか」
涙をこぼしながら、マクスウェルはかすかに笑った。
「おぬしは、わしに拾われたのではないのかも
しれんな」
むしろ逆だ。
何もかも失いかけていた自分の方が、この小さな命
に救い上げられたのかもしれない。
マクスウェルは立ち上がろうとした。
一度目は、力が入らず膝をついた。
二度目で、どうにか足へ力を込める。
右腕を失い、全身は傷だらけ。
魔力もほとんど残っていない。
それでも、赤ん坊だけは決して落とさないよう、
左腕で大切に抱き締めた。
「帰ろう」
誰も待っていなかったはずの家へ。
これから二人で暮らすことになる家へ。
「まずは、おぬしの名前を考えねばならんな」
赤ん坊は意味も分からないまま、小さな声を上げた。
「あぅ……」
「ふむ。返事だけは一人前じゃ」
マクスウェルは力なく、それでも確かに笑った。
こうして彼は、死の森の奥深くで生まれた少女を
連れ帰った。
それが、私とマクスウェルの最初の出会い。
そして――
大賢者マクスウェル・ヴァーミリオンが、私の
お師匠様になるまでの物語の始まりだった。




