第12話_死の森
家を出てから、どれくらい歩いただろう。
振り返ってみても、もう家の姿は見えない。
見渡す限りに広がっているのは、どこまでも続く
木々だけだった。
「…………」
ステラは少しだけ立ち止まり、自分が歩いてきた
方向を見つめる。
あの先には、九年間暮らした家がある。
そして――お師匠様のお墓も。
「……行かなきゃ」
小さく呟き、前を向く。
寂しくないと言えば嘘になる。
今まで森へ出る時は、いつだって隣にお師匠様が
いた。
『あまり先へ行くでないぞ』
『油断するなと言っておるじゃろう』
そんな声が、今にも後ろから聞こえてきそうな
気がする。
だけど、もう一人で歩かなければならない。
これは修行ではない。
日が暮れたら家へ帰るわけでもない。
自分で決めた、本当の旅なのだから。
「まずは……こっちだね」
ステラは指輪から地図を取り出した。
お師匠様が残してくれた、世界の地図。
それを両手で広げ、現在地を確認する。
目指す学校は、ここから遥か西。
歩けば一年ほど掛かるという、とても遠い場所だ。
もちろん、地図を見てもそこまでの距離を実感する
ことはできない。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
「最初は、この山脈かぁ……」
地図へ描かれた山々を指でなぞる。
まずは東へ進み、最初の山脈を越える。
そこが、最初の目標だった。
しかし――。
その山脈へ辿り着くためには、先に突破しなければ
ならない場所がある。
ステラは地図から顔を上げた。
鬱蒼と生い茂る木々。
日の光さえ遮るほど重なった枝葉。
遠くから時折聞こえてくる、獣とも魔物とも分から
ない低い咆哮。
広大な森。
人々から恐れられ、近づく者すらほとんどいない
危険地帯。
別名――。
『死の森』。
「まずは、ここを抜けないとね」
ステラにとって、この森そのものは初めてではない。
七歳の頃から、お師匠様と何度も結界の外へ出て
いる。
デスウォルフを始め、様々な魔物とも戦ってきた。
そして、この森には――。
カムイのような、とんでもない魔物まで棲んでいる。
「カムイ、元気かなぁ」
もし会ったら、今度こそ勝てるだろうか。
そんなことを考えながら歩いているあたり、ステラ
にとって『死の森』という名前は大した脅しには
なっていなかった。
もっとも。
強い魔物だけが、厄介なわけではない。
◇
ヒュンッ!
「っ!」
ステラの耳が、微かな音を捉える。
すぐさま振り返った。
だが――。
「…………」
何もいない。
木々が並んでいるだけ。
茂みが揺れた様子もない。
それなのに。
ヒュンッ!
また聞こえた。
今度は右。
高速で何かが移動し、空気を切り裂く音。
「むぅ……」
ステラは眉を寄せる。
何がいるのかは、もう分かっていた。
インビジブルラビット。
この森に生息する魔物の一種。
名前の通り、姿の見えないウサギだ。
普通のウサギより遥かに身体能力が高く、強靭な
後ろ脚から繰り出される蹴りを武器としている。
ただし。
一番厄介なのは、その攻撃力ではない。
「見えないんだよねぇ……」
姿そのものが見えない。
目を凝らしても。
気配を探っても。
聞こえてくるのは、高速で移動した時に生じる
僅かな風切り音だけ。
どこから攻撃してくるのか――。
それが分からない。
次の瞬間。
ヒュッ――。
「後ろっ――」
気付いた時には遅かった。
バシンッ!
「わっ!」
背中へ強烈な蹴りを叩き込まれる。
身体が前へ押し出され、ステラは数歩たたらを
踏んだ。
「もうっ!」
すぐさま振り返る。
しかし。
やっぱり、何もいない。
「うっとうしいなぁ、もう!」
むすっとしながら周囲を睨みつける。
「そもそも見えないなんて卑怯じゃん!」
もちろん、そんな文句を言ったところで姿を見せて
くれるはずもない。
むしろ――。
バシンッ!
「わっ!」
今度は脇腹。
バシンッ!
「もう!」
さらに背中。
どうやら一匹ではないらしい。
右。
左。
後ろ。
様々な方向から蹴りが飛んでくる。
もっとも、痛くはなかった。
ステラの身体は、常に魔気力によって強化されて
いる。
その上からユリまで纏っているのだ。
インビジブルラビットの蹴りでは、その防御を貫く
ことはできない。
ただ――。
バシンッ!
「っとと……!」
衝撃そのものまで消えるわけではない。
蹴られるたびに身体が揺れ、体勢を崩される。
「……何匹いるの?」
ステラは周囲へ意識を集中させる。
ヒュンッ。
ヒュヒュッ。
いくつもの風切り音。
一匹。
いや、二匹?
三匹?
「…………」
分からない。
見えない以上、正確な数を把握することもできな
かった。
「うーん……」
腰のアステラスへ手を掛ける。
しかし、すぐに離した。
「剣じゃ無理だよねぇ」
見えない相手へ剣を振り回したところで仕方がない。
なら、魔法。
「何かいい方法ないかなぁ……」
また一発。
バシンッ!
今度は肩を蹴られる。
「…………」
ステラは気にすることなく考え続けた。
見えないなら。
見つけようとしなければいい。
この辺り一帯をまとめて攻撃してしまえばいいのだ。
「火だったら簡単なんだけど……」
辺りを見回す。
木。
木。
木。
当然ながら、ここは森のど真ん中だ。
「燃えちゃうよね」
却下。
ならば――。
「水だったら優しいかな?」
何に対して優しいのかは分からないが。
少なくとも、森が焼け野原になることはない。
「よし」
ステラは立ち止まった。
そして、片手を空へ翳す。
意識を集中。
魔法を創造し、さらに魔気力によってその中へ周囲
の水分を集めていく。
空気中から。
大地から。
周囲に存在する水が引き寄せられ、木々よりも高い
上空へ集まり始めた。
バシンッ!
背中を蹴られる。
ステラは動かない。
バシンッ! バシンッ!
今度は二発。
「…………」
それでも動かない。
攻撃されていることなどお構いなし。
ただ上空へ手を翳したまま、魔法の構築を続ける。
やがて――。
木々の遥か上。
大量の水が、一つの巨大な塊となって浮かび
上がった。
「これを……」
さらに魔気力を操作する。
集めただけの水では威力が足りない。
だから――圧縮する。
ぎゅっ。
さらに。
もっと。
大量の水を一気に圧縮し、一滴一滴へ十分な威力を
持たせていく。
「これなら、見えなくても関係ないよね」
ステラの口元が僅かに上がる。
狙う必要なんてない。
どこにいるのか分からないなら。
全部まとめて撃ち抜けばいい。
「いっくよー!」
翳していた手を、勢いよく振り下ろす。
「――『天瀑』!」
なんとなく頭に浮かんだ名前を唱えた。
瞬間。
空を覆っていた水塊が弾けた。
無数の水滴へと分裂し――。
一斉に地上へ降り注ぐ。
ただの雨ではない。
一滴一滴が圧縮され、高速で撃ち出された水の弾丸。
それが周囲一帯へ――。
ドドドドドドドドドドドドッ!!
「わぁ……!」
凄まじい轟音と共に降り注いだ。
地面が抉れる。
葉が破れ千切れる。
水飛沫と泥が激しく舞い上がる。
そして。
何もなかったはずの場所へ、突然一匹のウサギが
姿を現した。
その身体には、水弾によって穿たれた穴が何か所も
開いている。
さらに。
二匹。
三匹。
次々と姿が浮かび上がっていく。
インビジブルラビットは、生きている間は魔法か
何かによって自身の姿を隠しているらしかった。
しかし、絶命すればその効果も失われるようだ。
結果。
水弾に撃ち抜かれた個体から順番に、その姿が露わになっていった。
やがて。
降り注いでいた水弾が止まる。
「…………」
森へ静けさが戻った。
ぽた。
ぽたぽた。
枝葉から水滴が落ちる。
ステラは辺りを見回した。
「一、二、三、四……」
指を差しながら数えていく。
「五、六」
地面には、六匹のインビジブルラビットが倒れて
いた。
「六匹かぁ。結構いたねぇ」
どうりで、あちこちから蹴られるわけだ。
数を確認したステラは、一匹ずつ回収していく。
魔物の胸元へ手を入れ、心臓付近から魔石を取り
出す。
「よし」
魔石も六個。
肉も六匹分。
「これで、しばらくご飯には困らないかな」
しかも。
「このウサギ、結構おいしいのよね」
インビジブルラビットは姿が見えない。
そのため、これまでは出会う機会そのものが少なく、
たまにしか食べることができなかった。
だが、死の森の奥へ進めば数も増えてくるらしい。
「また見つけたら捕まえよっと」
思わぬところで食料を確保できた。
全ての肉と魔石を大きな袋へと入れて担ぎ上げる。
上機嫌で再び西へ向かおうとして――。
びちゃっ。
「…………」
足が止まった。
下を見る。
水。
泥。
そこら中が、ぐちゃぐちゃになっている。
先ほどまで普通の森だった場所が、完全に水浸し
になっていた。
「…………」
びちゃ。
試しに一歩。
泥水が跳ねる。
「うわぁ……」
もう一歩。
びちゃっ。
「……泥だらけになっちゃう」
ステラは嫌そうに顔をしかめた。
ユリは汚れに強い。
多少泥が付いたところで、魔気力を流せば簡単に
綺麗にできる。
だから、服そのものに問題はない。
ないのだが――。
「これは駄目だねぇ」
ステラは先ほどまで水弾が降り注いでいた空を
見上げる。
広範囲を一度に攻撃できる。
しかも、見えない相手が何匹いようとまとめて
倒せる。
威力も十分。
複数の敵を相手にする魔法としては、かなり便利
だった。
しかし。
使った後が最悪だった。
「うん」
ステラは一人で納得するように頷く。
「――ボツにしよう」
威力でもない。
魔力の消費でもない。
使い勝手でもない。
理由はただ一つ。
汚れるから。
びちゃびちゃになった森の中を歩きながら、ステラ
は小さくため息を吐く。
「あーあ……別の方法考えよ」
お師匠様がこの場にいたなら。
きっと呆れた顔をして、こう言っただろう。
『そこを気にするのか、おぬしは……』
そんな声が聞こえた気がして。
「…………ふふっ」
ステラは少しだけ笑った。
そして再び。
遥か西にある山脈を目指し、死の森の奥へと歩き
出した。
◇
それから、しばらく森の中を歩き続けた。
木々の隙間から差し込む光が少しずつ傾き始めた頃。
それまで風や鳥の声しか聞こえなかった森の奥から、
微かに別の音が聞こえてきた。
「……ん?」
さらさらと。
絶え間なく続く、水の流れる音。
ステラは音のする方へ足を進める。
やがて木々の間を抜けると――。
「わぁ……!」
目の前に、大きな河原が広がった。
森を切り開くように流れる川。
澄んだ水が陽の光を反射し、きらきらと輝いている。
川の両側には大小様々な石が転がり、その流れは
遠く、山の麓へ向かって続いていた。
ステラはさっそく指輪から地図を取り出す。
「えーっと……今がここだから……」
地図と周囲の景色を交互に見比べる。
指先で川を辿っていくと、その先には最初の目的地
である山脈が描かれていた。
「地図によると、この河原をまっすぐ行けばよさそう」
これなら迷う心配も少ない。
川に沿って進んでいけば、自然と山へ辿り着ける
はずだ。
ステラは地図を閉じると――。
「よし。まずは、きゅーけー!」
近くにあった大きな石へ腰を下ろした。
家を出てから、およそ半日。
早くも最初に目印としていた河原まで辿り着くこと
ができた。
ここまで来てしまえば、あとは川沿いに進むだけ。
日が暮れたとしても、適当な場所を見つけて休めば
いい。
(行けるところまで行っちゃおう)
まだ時間はある。
休憩が終わったら、もう少し先へ進むことにした。
「さてと……」
その前に。
ステラは自分の足元を見る。
「……やっぱり汚れてる」
先ほど『天瀑』を使ったせいで、靴や足袋には泥が
べったりと付いていた。
ユリにも少しだけ泥が跳ねている。
「もう……」
やっぱり、あの魔法は駄目だ。
そんなことを思いながら、魔気力を操作して洗い
流すように上か順に流していく。
しばらく流し続けると、すぐに元の綺麗な姿へと
戻った。
「よし、綺麗になった」
満足そうに頷く。
そのまま川辺へ腰を下ろし、靴と足袋を脱いで素足
を水の中へ浸した。
「ひゃっ、冷たい!」
思った以上の冷たさに、思わず足を引っ込める。
けれど、もう一度。
今度はゆっくりと水へ入れてみる。
「んー……気持ちいい」
半日歩き続けた足へ、冷たい水が心地よかった。
さらさらと流れていく川。
木々を抜ける風。
遠くから聞こえる鳥の声。
「…………」
ステラは膝へ頬杖をつきながら、ぼんやりと川を
眺める。
旅は、まだ始まったばかりだ。
目的地までは一年ほど。
それを考えれば、今日歩いた距離なんてほんの僅か
でしかない。
「一年かぁ……」
長い。
とても長い。
そして――。
「……一人って、やっぱりちょっと寂しいなぁ」
家を出てから、まだ一日すら経っていない。
それなのに、もうそんなことを思ってしまった。
今までは何をするにも、お師匠様がいた。
森を歩く時も。
休憩する時も。
魔物を倒した時も。
隣を見れば、いつだって話す相手がいた。
でも、今は。
「…………」
聞こえるのは川の音だけ。
「……お師匠様と来たかったなぁ」
ぽつりと呟いてから。
ステラは両手で自分の頬を軽く叩いた。
「よし!」
寂しいことばかり考えていても仕方がない。
「ご飯にしよっと!」
◇
今日のお昼ご飯は、先ほど手に入れた
インビジブルラビット。
ステラは指輪へ魔力を流し、必要なものを一つずつ
取り出していく。
包丁。
まな板。
器。
金属製の調理用プレート。
次々と河原へ並べていく。
「やっぱり、この指輪便利だなぁ」
改めて感心する。
物を入れる時は簡単だ。
指輪へ魔力を流し、収納したい物へ指輪と意識を
向ければ、そのまま吸い込んでくれる。
取り出す時も同じ。
魔力を流して中にある物を探り、欲しい物を掴んで
引っ張り出すイメージ。
重たい荷物を背負って歩く必要もない。
旅をするには、とても便利な魔道具だった。
ただし――。
「何でもそのまま入れていいわけじゃないんだよね」
数日前。
使い方を覚えている時に気付いたことがある。
どうやら指輪の中は、一つの大きな空間になって
いるらしい。
そのため、本を入れた状態で水を直接収納すれば――。
「……全部びしょびしょになる」
想像しただけで嫌だった。
お師匠様が残してくれた大切な本を、そんなことで
駄目にするわけにはいかない。
液体や汚れた物を収納する時には、きちんと容器へ
入れる必要がある。
「便利だけど、使い方には気を付けないとね」
そう言いながら、並べた調理器具を見る。
これらもすべて、お師匠様があらかじめ用意して
くれたものだった。
料理に必要になるものは、大抵揃っている。
包丁に至っては、普通に使っている限り切れ味が
ほとんど落ちず、研ぐ必要すらないらしい。
「お師匠様、料理好きだったもんね」
きっと旅先で何が必要になるのか、よく分かって
いたのだろう。
本当にありがたい。
ちなみに――。
この指輪の中には、ステラの髪を切るためだけに
作られた専用のハサミまで入っている。
何でも普通のハサミでは、ステラの髪に負けて
刃こぼれしてしまうのだとか。
「……そこまで硬いかなぁ?」
自分の白銀の髪を一房摘まんでみる。
触った感触は普通なのだが。
もっとも、その髪から作られたユリの頑丈さを
考えれば、今さら驚くようなことでもなかった。
「さて、作ろっと」
ステラは袖を軽くまくり、料理を始めた。
◇
まずは下ごしらえ。
インビジブルラビットの皮を剥ぎ。
内臓を取り除き。
川の水で綺麗に処理する。
手に入れたのは六匹。
たくさんあるとはいえ、この先も簡単に食料が手に
入るとは限らない。
「全部食べちゃうのは、もったいないよね」
そこで、食べない分は保存食にすることにした。
処理した肉を適当な大きさへ切り分ける。
そして――。
「水分を抜いて……」
魔法を使い、肉に含まれている水分を少しずつ
奪っていく。
みずみずしかった肉が乾燥し、徐々に硬くなって
いく。
干し肉だ。
「こんな感じかな」
完成したものから袋へ詰め、しっかり口を閉じて
指輪へ収納する。
わざわざ袋へ入れるのにも理由がある。
指輪の中で剥き出しの肉が他の荷物とぶつかれば、
せっかく綺麗にした物まで汚れてしまう。
かといって生肉のまま保存するのも怖い。
そのまま放っておけば普通に腐る可能性がある。
「中で腐ったら……絶対大変だよね」
臭いを想像する。
「…………」
それだけは避けたい。
干し肉にしたところで多少の臭いは残るだろうが――。
「そこはもう、諦めよ」
何もかも完璧とはいかない。
保存食をすべて収納すると、今度は今日食べる
分へ取り掛かった。
「簡単でおいしいなら……やっぱり焼くのが一番だよね」
肉を薄く切り分ける。
金属製のプレートを熱し、その上へ並べていく。
肉が触れた瞬間――。
ジュゥゥゥッ!
「おぉ……!」
食欲をそそる音と共に、香ばしい匂いが辺りへ
広がった。
脂が溶け出し、表面が少しずつ焼けていく。
ただ――。
「味付けがないんだよねぇ……」
残念ながら、調味料はほとんど残っていなかった。
お師匠様が亡くなってから半年。
家にあったものは、ステラが少しずつ使い切って
しまった。
庭には菜園もあったのだが。
「作り方、分からなかったし……」
料理はできる。
けれど、野菜や香辛料を一から育てる方法までは
教わっていなかった。
こればかりは仕方がない。
「まあ、そのままでもおいしいからいいよね」
焼き上がった肉を一切れ摘まむ。
まだ熱い。
少しだけ息を吹き掛けて――。
「いただきます」
ぱくっ。
「んんんん~~!」
目を見開く。
表面は香ばしく焼け、中は柔らかい。
噛むたびに肉汁と程よい脂が口いっぱいに広がって
いく。
「おいしい!」
味付けなんてなくても十分だった。
むしろ肉そのものの味が濃い。
「やっぱりこのウサギ、おいしい!」
一枚。
もう一枚。
ぱくっ。
ぱくっ。
ぱくぱくぱく。
焼けたそばから、次々とステラの口へ消えていく。
そして――。
「…………あ」
気が付いた時には。
一匹分あった肉が、綺麗になくなっていた。
「食べちゃった」
少しだけ自分のお腹を見る。
「……まあ、いっぱい歩いたからいいよね」
誰に言い訳するでもなく頷いて。
両手を合わせる。
「ごちそうさまでした!」
ふぅー、と満足そうに息を吐いた。
◇
食事を終えると、使った器や調理器具を川で綺麗に
洗った。
ただし、そのまま指輪へ戻すことはしない。
「ちゃんと乾かしてから」
水分を飛ばす。
指輪の中にある本を濡らしたくないからだ。
一つずつ確認し、すべて収納する。
「よし。お片付け終わり」
あとは、もう少し先へ進むだけ。
そう思ったのだが――。
「ふぁぁ……」
大きな欠伸が出た。
「…………」
眠い。
半日歩いて。
魔物と戦って。
お腹いっぱいご飯まで食べた。
途端に身体が休息を求め始めたらしい。
「お昼寝しようかなぁ……」
先は長い。
無理をして歩く必要もない。
ステラは再び指輪へ魔力を流す。
取り出したのは、青白い光を宿した一つの魔力結晶
だった。
「これこれ」
これも、お師匠様が旅の必需品としてあらかじめ
用意してくれていたものだ。
地面へ置き、魔力を流す。
すると――。
ふわっ。
結晶を中心として淡い光が広がり、ステラの周囲を
覆っていく。
直径、およそ二メートル。
小さいながらも、しっかりとした防御結界。
外から破るには相応の力が必要で、仮に強力な魔物
が襲ってきたとしても、結界が壊されるまでには目を
覚ませる。
「ほんとに、何でも用意してくれてるなぁ……」
食器も。
包丁も。
保存に必要な道具も。
眠るための結界まで。
旅へ出てから半日しか経っていないのに。
もう何度、お師匠様が残してくれたものに助けられ
ただろう。
「…………」
ステラは魔力結晶の前へしゃがみ込む。
「本当に、お師匠様には頭が上がらないなぁ」
少しだけ笑って。
結晶を優しく撫でる。
「ありがとうだよ、お師匠様」
返事はない。
けれど。
自分を包む結界の光が、どこか温かく感じられた。
「……おやすみなさい」
河原の少し柔らかな場所へ横になる。
川の流れる音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じる。
一人で歩く旅は。
思っていたよりも、少し寂しい。
それでも。
お師匠様が残してくれたものに触れていると、まだ
どこか近くで見守ってくれているような気がした。
そんなことを考えながら。
ステラは旅に出て初めての眠りへと落ちていった。




