第10話_一人ぼっち
カムイとの初めての実戦を終えてからも、
マクスウェルとステラは何度か結界の外へ足を運んだ。
森の中を二人で探索し、現れた魔物を相手に実戦
経験を積んでいく。
初めの頃こそ、マクスウェルは片時も気を抜けず
にいた。
いくらステラが強いとはいえ、実戦では何が起こる
か分からない。
未知の能力を持つ魔物。
毒や呪い。
数による奇襲。
ほんの僅かな油断が命取りとなる。
だが、回数を重ねるにつれ、その心配も少しずつ
薄れていった。
ステラは、教えられたことをきちんと身につけて
いた。
敵の数を確かめる。
能力の分からない相手へ不用意に近づかない。
魔法と剣術を状況に応じて使い分ける。
そして、倒したように見えても、相手が完全に息絶
えるまでは決して警戒を解かない。
七歳の少女とは思えないほど、その戦いぶりは冷静
だった。
もっとも――。
「お師匠様、今日は強いのいるかな?」
「強い相手を探すために出掛けておるわけではないぞ」
「でも、カムイくらい強い方が楽しいよ?」
「二度と会わん方が、わしの心臓には優しいんじゃが
のぉ……」
危険な相手ほど目を輝かせる癖だけは、どうにも
直りそうになかった。
幸いにも、あの日以来カムイと再び出会うことは
なかった。
それもそのはずだった。
秋はすでに過ぎ去り、季節は冬へ差しかかっていた
のである。
空からは白い雪が舞い始め、青々としていた森を
少しずつ覆っていく。
木々は葉を落とし。
草花は雪の下へ姿を隠し。
冷たい風が、枝の間を寂しげに吹き抜ける。
カムイも、すでに冬眠へ入ったのだろう。
魔物だからといって、すべてが普通の動物と異なる
わけではない。
冬眠する種類は冬眠し、寒さを苦手とするものは
巣穴へ籠もる。
活動する魔物の数が減ったことで、死の森は
これまで以上の静けさに包まれていた。
聞こえるのは、積もった雪を踏む二人の足音と。
風に揺れた枝から、雪が落ちる音くらいのもの
だった。
「いないねー」
ステラは周囲を見回しながら、少し残念そうに呟く。
「今日は一匹も見つからない」
「この寒さじゃからの。魔物とて、好き好んで雪の中
を歩き回ったりはせん」
「もっと奥に行ってみる?」
「駄目じゃ」
「えー」
「雪が深くなれば、帰るだけでも一苦労じゃ。実戦の
ために遭難しておっては世話がない」
マクスウェルが即座に却下すると、ステラは頬を
膨らませた。
だが、魔物がいない以上、森を歩き続けても仕方
がない。
二人は冬の間だけ、結界の外で行う実戦訓練を
最小限に留めることにした。
家の周囲で剣術を行い。
暖炉の前では魔法の理論を学ぶ。
雪が弱い日には庭へ出て、積もった雪を利用した
魔法の練習も行った。
実戦が減っただけで、二人の日常そのものが大きく
変わったわけではない。
朝になれば一緒に食事を取り。
修行を行い。
夜になれば暖炉の前で、その日に学んだことを振り
返る。
いつも通りの。
穏やかで、温かな毎日だった。
少なくとも。
ステラは、そう思っていた。
◇
その日も、朝からいつも通り修行を行っていた。
雪の積もった庭で木刀を振り。
足の運びを確かめ。
最後には、マクスウェルと短い打ち合いを行う。
冬の冷たい空気の中だというのに、修行を終える頃
にはステラの額へ汗が浮かんでいた。
「ふぅー!」
白い息を吐きながら、木刀を背中の帯へ収める。
マクスウェルもまた、荒くなった呼吸を整えながら
木刀を下ろした。
「今日はここまでじゃな」
「もう終わり?」
「十分動いたじゃろう。身体を冷やす前に、風呂へ
入ってきなさい」
「はーい!」
ステラは元気よく返事をすると、そのまま家へ駆け
戻っていった。
その小さな背中を見送り、マクスウェルはゆっくり
と息を吐く。
「……ふぅ」
以前より、明らかに疲れやすくなっている。
少し動いただけで息が上がり。
木刀を握る腕には、重い疲労が残る。
魔力経路が傷ついてから、身体へ負担が掛かり
やすくなったことは理解していた。
だが、それだけではない。
もっと単純で。
誰もが逃れることのできない変化が、確実に自分の
身体へ訪れていた。
「歳は取りたくないものじゃな……」
苦笑しながら家へ戻る。
身体を休めてから入浴するつもりだったが、冷えた
手足が思うように温まらない。
そのまま浴室へ向かい、温かな湯へ身体を沈めた。
「ふぅ……」
全身から力が抜けていく。
強張っていた筋肉が解け、冷え切っていた身体へ
温かさが染み渡る。
心地よかった。
あまりにも、心地よすぎた。
湯気の向こうで瞼を閉じる。
(少しだけ……)
(少し休むだけじゃ……)
そんなことを考えたところまでは覚えていた。
◇
修行で流した汗を落としたステラは、髪を拭き
ながら浴室の前へ戻ってきた。
「お師匠様、上がったー?」
扉の向こうへ声を掛ける。
しかし。
中から返事はなかった。
「お師匠様?」
もう一度呼んでみる。
やはり、何も聞こえない。
「寝ちゃったのかなー」
風呂で眠ってはいけないと、普段から自分へ注意し
ているのはマクスウェルの方だ。
それなのに自分が眠ってしまうなんて。
そんなことを考えながら、ステラは浴室の扉を
少しだけ開いた。
その瞬間。
少女の表情から、笑みが消えた。
白い湯気が満ちた浴室。
その奥で。
マクスウェルが浴槽の縁へ身体を預け、ぐったりと
倒れていた。
「……お師匠様?」
返事はない。
「お師匠様!」
ステラは勢いよく浴室へ飛び込んだ。
濡れた床で滑りそうになりながら、老人のもとへ
駆け寄る。
「お師匠様! 起きて!」
肩を揺らす。
だが、目を覚まさない。
胸元へ耳を当てる。
呼吸はある。
弱々しいものではあるが、確かに息をしている。
そのことを確認し、ステラは僅かに安堵した。
どうやら湯へ長く浸かり過ぎ、のぼせて意識を
失ってしまったらしい。
それでも。
胸の奥へ生まれた不安は消えなかった。
何でも知っていて。
何でもできて。
いつも自分を守ってくれるお師匠様。
そんなマクスウェルが、自分の呼び掛けにも応えず
倒れている。
今まで、一度も見たことのない姿だった。
「大丈夫……」
ステラは小さく呟く。
「大丈夫だからね」
それがマクスウェルへ向けた言葉なのか。
自分自身へ言い聞かせるためのものなのか。
ステラにも分からなかった。
老人の身体を湯から引き上げる。
タオルで濡れた身体を丁寧に拭き。
冷えないよう、乾いた布で包む。
かつては抱き上げてもらうことしかできなかった
少女が。
今は、老人の身体を両腕で抱えていた。
寝室まで運び。
乾いた服へ着替えさせ。
ゆっくりとベッドへ横たえる。
毛布を掛け終えた頃。
マクスウェルの瞼が、僅かに動いた。
「……おやおや」
掠れた声が漏れる。
「すまんのぉ」
「いいから寝てて」
ステラはいつになく強い口調で言った。
怒っているようにも聞こえる。
だが、その桃色の瞳には、隠しきれない不安が
滲んでいた。
「お風呂で寝ちゃ駄目だよ」
「そうじゃな……」
「いつも、わたしに言ってるでしょ?」
「面目ない」
「今日はもう何もしちゃ駄目」
「分かった、分かったから……」
マクスウェルは困ったように微笑み、再び目を
閉じた。
ステラは眠りに落ちる老人の手を握る。
まだ温かい。
その温もりを確かめるように、両手でしっかりと
包み込んだ。
きっと、疲れていただけ。
少しのぼせただけ。
ゆっくり休めば、明日にはまた元気になる。
また一緒にご飯を食べて。
修行をして。
いつものように笑ってくれる。
この時のステラは。
まだ、そう信じていた。
翌朝。
ステラはいつもと同じ時間に目を覚まし、一人で
庭へ出ていた。
夜の間に降った雪が、地面を真っ白に覆っている。
空気は冷たく澄み渡り、吐き出した息が白い煙と
なって消えていった。
「いち、に……さん、し……」
ステラは木刀を両手で握り、教わった型を一つずつ
繰り返す。
木刀が振り下ろされるたび、鋭い風切り音が静かな
庭へ響いた。
普段であれば、少し離れたところにマクスウェルが
いる。
足の位置がずれれば注意され。
肩へ余計な力が入れば、軽く叩いて直される。
修行の最後には、短い時間だけ木刀を交えるのが
二人の日課だった。
だが、今日はその姿がない。
昨夜、風呂場で倒れたのだ。
まだ身体を休めているのだろう。
(今日は一人でも、ちゃんとやらなきゃ)
マクスウェルへ心配を掛けないように。
いつもよりも丁寧に。
教えられた一つひとつの動きを思い出しながら、
ステラは木刀を振り続けた。
◇
朝の修行を終えて家へ戻る。
冷たい空気の中で身体を動かしていたというのに、
ステラの額には汗が浮かんでいた。
「ただいまー」
家の扉を開ける。
しかし、いつも返ってくるはずの声は聞こえな
かった。
リビングにも誰もいない。
食卓には朝食も用意されておらず、暖炉の火も消え
かかっている。
「お師匠様、まだ寝てるのかな……」
昨夜のぼせて倒れたことが、年老いた身体へ思った
以上に堪えたのかもしれない。
ステラは木刀を置くと、汗を拭くことも忘れて寝室
へ向かった。
扉を小さく叩く。
「お師匠様?」
返事はない。
不安を覚えながら、そっと扉を開けた。
マクスウェルはベッドへ横たわっていた。
眠っているわけではない。
目は開いている。
ただ、ぼんやりと天井を見つめたまま、動こうと
しなかった。
「お師匠様?」
もう一度声を掛ける。
すると、マクスウェルの目がゆっくりとステラへ
向けられた。
「おお……ステラか」
声に力がない。
「起きてたの?」
「起きてはおるんじゃがの……」
マクスウェルは苦笑し、身体を起こそうと両腕へ
力を込めた。
腕が震える。
肩が僅かに持ち上がる。
しかし、それ以上は動かなかった。
すぐに力が抜け、身体が再び布団へ沈み込む。
「なんじゃろうな……」
老人は自分の身体を不思議そうに見つめた。
「起き上がれんのじゃ」
「身体が、言うことを聞いてくれん」
指先や脚を動かそうとする。
だが、ぴくぴくと僅かに震えるだけだった。
「お師匠様……」
ステラの表情が曇る。
けれど、すぐに明るい声を作った。
「昨日、倒れたから疲れてるんだよ」
「少し休めば、きっと元気になるよ」
「そうかもしれんの」
「朝ご飯、持ってくるね」
そう言って部屋を出ようとしたステラは、一度足を
止めた。
振り返り、もう一度マクスウェルの顔を見る。
「ちゃんと待っててね」
「どこにも行かないでね」
「……うむ」
マクスウェルが頷くと、ステラはようやく部屋を
出ていった。
扉が閉じる。
廊下を駆けていく足音が、少しずつ遠ざかっていく。
その音が聞こえなくなってから。
マクスウェルは静かに息を吐いた。
「少し休めば……か」
ステラの言葉を、小さく繰り返す。
けれど。
自分の身体のことは、自分が一番よく理解していた。
これは、昨夜のぼせたことだけが原因ではない。
少し前から兆候はあった。
結界の外へ実戦に出掛けた時。
以前より足が重く感じられた。
長く歩けば呼吸が乱れ、ステラの後ろをついていく
だけでも疲労が溜まる。
魔物の動きへ反応する速度も落ちていた。
木刀を握る腕にも、思うように力が入らない。
傷ついた魔力経路の影響もある。
それは間違いない。
かつてのように魔力を循環させ、身体を補助する
ことはできなくなっていた。
だが、それだけではなかった。
もっと単純で。
もっと当たり前の理由。
老化。
それが答えだった。
「今年で、七十歳か……」
この世界における人間の平均寿命は、およそ
六十五歳。
自分はすでに、それを五年も越えている。
いつ死んだとしても、不思議ではない年齢だった。
それでも、ここまで生きてこられた。
ステラを残して死ぬわけにはいかない。
あの子が一人でも生きていけるようになるまでは。
そんな思いが、老いた身体を動かし続けていたの
かもしれない。
しかし、最近のステラは大きく成長した。
魔法も。
剣術も。
家事も。
以前とは比べものにならないほど、しっかりして
いる。
森の王であるカムイを相手にしても、臆すること
なく渡り合った。
その成長を目の当たりにし、心のどこかで安心して
しまったのだろうか。
張り詰めていた糸が緩み。
長い年月、身体へ蓄積していた疲労が一気に押し
寄せてきた。
「もうすぐ死んでも、おかしくはないのぉ……」
自分の口から出た言葉は、思っていたよりも静か
だった。
死ぬことが、怖くないわけではない。
だが、ここまでの人生に後悔ばかりが残っている
わけでもなかった。
多くの実験を重ねた。
数え切れないほど失敗し、それ以上の発見をして
きた。
世界で唯一無二の大賢者と呼ばれるまでになった。
そして。
ステラと出会えた。
あの日、腕の中へ抱き上げた小さな赤子。
泣き声に振り回され。
食事を食べさせ。
一緒に眠り。
笑い。
魔法を教え。
その成長を、すぐ傍で見守ることができた。
七歳の誕生日には、自分の手で作った着物を贈る
こともできた。
黒い着物を纏い、嬉しそうにくるくる回っていた
少女の姿。
あの笑顔を思い出すと、胸の奥へ温かなものが
広がった。
「わしの人生の最後としては……」
悪くなかった。
むしろ。
一人で研究だけを続け、そのまま誰にも看取られず
朽ちるはずだった自分には、勿体ないほど幸せな人生
だった。
けれど。
「ステラは、まだ七歳じゃ……」
小さく呟く。
どれほど強くなっても。
どれほど一人で多くのことができるようになっても。
まだ、たった七歳の子どもだった。
あと一年。
せめて、あと一年だけでも。
傍にいてやりたい。
この世界について。
人間について。
森の外について。
まだ教えていないことが、あまりにも多すぎる。
すべてを直接教える時間が残されていないのなら。
せめて。
自分が知っていることを、形として残したい。
自分がいなくなったあとも。
迷った時に。
困った時に。
ステラの助けとなるものを。
「……贈り物を、作らねばならんな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
それが何なのか。
いつ渡すのか。
ステラへ話すつもりはなかった。
今はまだ。
あの子へ余計な不安を抱かせたくない。
ただ、自分に残された時間を使い切って。
残せるものを、できるだけ多く残す。
それだけを胸へ決めた。
やがて廊下の向こうから、食器の触れ合う音が
聞こえてきた。
「お師匠様ー!」
「朝ご飯できたよー!」
元気な声。
その声を聞き、マクスウェルはそっと目を閉じる。
「……まだ死ねんのぉ」
◇
その日から、マクスウェルは少しずつ生活を変え
始めた。
以前のように朝から庭へ出て修行を見守ることは
少なくなり、一日の大半を自室で過ごすようになる。
ステラが修行をしている間も。
食事を終えた後も。
部屋へ籠もり、机へ向かっていることが増えた。
カリカリ……。
静かな部屋へ、羽根ペンの音だけが響く。
何枚もの紙が机いっぱいへ広げられ、その上へ
細かな文字を書き続けていた。
「お師匠様?」
部屋の扉が少しだけ開く。
ひょこっと顔を覗かせたステラが、不思議そうに
首を傾げた。
「何してるの?」
マクスウェルは書いていた紙をさりげなく伏せる。
「ちょっとした整理じゃよ。」
「整理?」
「長年集めた研究を、まとめておるだけじゃ。」
「ふーん。」
ステラはそれ以上深く聞こうとはしなかった。
お師匠様は昔から、研究が始まると何日も部屋へ
籠もることがある。
今回も、その延長なのだろう。
「ご飯できたよ!」
「おお、今行く。」
「冷めちゃうよー。」
「すぐ行くわい。」
ステラが部屋を出ていく。
その足音が遠ざかるのを確認してから、
マクスウェルは再びペンを握った。
紙の上へ視線を落とす。
そこへ並んでいるのは、魔法理論の解説だった。
『魔力操作について』
『属性変換』
『魔法陣の構築』
研究資料ではない。
誰かへ教えるために書かれた文章。
難しい専門用語には注釈を書き添え、図まで描き
加えていく。
「これなら……あの子でも理解できるじゃろう。」
そう呟きながら、一文字ずつ丁寧に書き進める。
急ぐ必要はある。
だが、焦って雑に書いてしまっては意味がない。
自分がいなくなった後も、ステラが一人で読み進め
られるものにしなければならなかった。
◇
その日以降も。
マクスウェルは毎日机へ向かった。
魔法。
薬草。
魔物。
錬金術。
結界。
自分が知る知識を、一冊ずつ本という形へまとめて
いく。
しかし、そのことをステラへ話すことは一度も
なかった。
「お師匠様。」
「今日はずっと書いてるね。」
「最近、研究ばっかり。」
「久しぶりにやり始めたら、止まらなくなって
しまっての。」
「また変なの作ってる?」
「はっはっは。」
マクスウェルは声を出して笑う。
「今回は失敗して爆発するようなものではないから
安心しなさい。」
「ほんと?」
「ほんとじゃ。」
「じゃあよかった。」
ステラも安心したように笑った。
その笑顔を見ながら、マクスウェルは胸の奥で
小さく呟く。
(……嘘ではない。)
(じゃが、本当のことも言っておらん。)
この本は、今渡すものではない。
まだ早い。
あの子へ余計な心配を掛けたくない。
だから完成するまでは、誰にも話さない。
それが、マクスウェルの決めたことだった。
◇
季節は少しずつ冬を越え、春へ向かっていた。
それとは反対に、マクスウェルの身体は静かに
衰えていく。
羽根ペンを握る手は以前より震え。
長い時間座っているだけで肩が痛む。
文字を書くだけでも、時折休まなければ続けられ
なくなっていた。
それでも。
ペンを置くことだけはなかった。
一ページでも多く。
一冊でも多く。
残せるものを残したい。
その想いだけが、老いた身体を動かし続けていた。
窓の外では、雪解けの雫が軒先から静かに滴り落ち
ている。
◇
春が訪れた。
庭を覆っていた雪は少しずつ姿を消し、固く閉ざさ
れていた木々の枝には若葉が芽吹き始める。
小鳥たちのさえずりが戻り、冷たかった風もどこか
柔らかさを帯びていた。
長い冬は終わった。
しかし、季節が変わっても、マクスウェルの身体
だけは元へ戻ることはなかった。
◇
「お師匠様。」
「朝ご飯できたよ。」
ステラが部屋の扉を開ける。
机へ向かっていたマクスウェルは、ゆっくりと
顔を上げた。
「おお、ありがとう。」
羽根ペンを置こうとした、その時だった。
指先から力が抜ける。
カラン――。
乾いた音を立て、羽根ペンが床へ転がった。
「あっ。」
ステラは慌てて駆け寄る。
「大丈夫?」
「すまん、手が滑ってしもうた。」
笑って誤魔化すマクスウェルだったが、右手は
僅かに震えていた。
本人は気付かれまいとしている。
けれど、その震えは日に日に大きくなっていた。
「わたし拾うね。」
ステラは羽根ペンを拾い、机へ戻す。
「ありがとう。」
「うん。」
それだけのやり取りだった。
しかし、部屋を出ていくステラの表情には、少し
だけ曇りが見えた。
◇
最近のお師匠様は、少し変だった。
すぐ疲れる。
庭へ出ることも少なくなった。
そして、毎日のように部屋へ籠もって何かを書いて
いる。
それでも本人は、
「大丈夫じゃ。」
と笑うだけだった。
だからステラも、それ以上は聞かなかった。
きっと研究なのだろう。
今までだって、そういうことは何度もあった。
自分にできることは、お師匠様の邪魔をしないこと
くらいだ。
◇
一方、その頃。
マクスウェルは誰もいない部屋で、小さく息を
吐いていた。
「思ったより……早いのぉ。」
震える右手を見つめる。
昨日より今日。
今日より明日。
確実に身体は衰えている。
書ける文字も少しずつ乱れ始めていた。
それでも。
ペンを握る。
魔法理論を書き。
薬草の特徴を書き。
魔物の習性を書き残す。
一冊。
また一冊。
完成した本は、誰にも見つからないよう棚の奥へ
静かにしまっていく。
ステラにはまだ見せない。
完成するまでは。
いや――。
できることなら、生きている間は渡したくなかった。
これは、自分がいなくなった時のための贈り物。
そんなことを知れば、あの子はきっと悲しんで
しまう。
「まだじゃ。」
「まだ知らんでいい。」
マクスウェルは小さく呟き、そっと棚の扉を閉めた。
◇
その日の夕方。
修行を終えたステラは、庭の掃除をしていた。
落ち葉を集め。
薪を運び。
水汲みも終える。
以前なら二人でやっていた仕事も、今では自然と
自分が担当するようになっていた。
「お師匠様ー!」
玄関を開ける。
「お掃除終わったよ!」
「そうか。」
部屋の奥から、穏やかな声が返ってくる。
「ありがとう。」
その一言が嬉しくて、ステラはにこりと笑った。
「えへへ。」
「次はご飯作るね!」
元気よく台所へ向かっていく。
その足音を聞きながら、マクスウェルは静かに目を
閉じた。
(本当に……大きくなった。)
もう料理もできる。
洗濯も。
掃除も。
薪割りも。
生活するだけなら、一人でも困らないくらいに
成長した。
嬉しい。
心から嬉しい。
だからこそ。
その成長を最後まで見届けられないかもしれない
ことが、何より辛かった。
窓の外では、若葉が風に揺れている。
季節はゆっくりと春を越え、夏へ向かって歩き始め
ていた。
それからの日々も、大きく変わることはなかった。
ステラは毎日修行を続ける。
剣を振り。
魔法を学び。
家事を手伝う。
その一方で、マクスウェルは部屋へ籠もり、机へ
向かう時間が増えていった。
カリ……カリ……。
静かな部屋へ、羽根ペンの音だけが響く。
ステラが部屋へ入って来るたび、書いていた紙を
そっと伏せる。
「お師匠様。」
「また書いてるの?」
「少し研究をまとめておるだけじゃ。」
「最近ずっとだね。」
「歳を取ると、やれるうちにやっておきたくなるもの
なんじゃ。」
「ふーん。」
ステラは特に気にする様子もなく頷いた。
それが自分のために書かれているものだとは、
夢にも思っていない。
季節は静かに流れていく。
夏が訪れ。
青々としていた森は秋には赤や黄色へ染まり。
やがて葉を落とし、再び冬を迎えた。
その一年で、ステラはさらに成長した。
家事はほとんど一人でこなせるようになり、修行も
自ら進んで行うようになった。
だが、それとは対照的に。
マクスウェルの身体は、ゆっくりと衰えていく。
歩くことも少なくなり。
庭へ出る日も減り。
一日のほとんどを部屋で過ごすようになっていた。
それでも。
机へ向かい、何かを書き続けることだけは、
一日たりとも欠かさなかった。
◇
ある日。
部屋の前を通り掛かったステラは、扉が少しだけ
開いていることに気付く。
「お師匠様?」
中を覗くと、机へ向かったまま眠ってしまっていた。
羽根ペンは手に握られたまま。
書きかけの紙には、まだ乾いていないインクが
残っている。
「こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ。」
ステラは小さく笑うと、毛布を持ってきて
マクスウェルの肩へそっと掛けた。
その拍子に、机の上の紙が風で少しだけめくれる。
だが、そこへ書かれていた文字を読む前に、
マクスウェルが目を覚ました。
「……おお。」
「すまん、寝てしまったようじゃ。」
「もう、お部屋で寝なきゃ駄目だよ?」
「そうじゃな。」
マクスウェルは優しく笑うと、紙を何気なく重ね
直した。
その様子を見て、ステラもそれ以上は気に
しなかった。
長い冬が終わり、森にも少しずつ春の気配が訪れ始め
ていた。
雪はゆっくりと溶け、小川には再び水の流れる音が
響く。
木々の枝には小さな新芽が芽吹き、命が息を吹き
返していく。
しかし、その頃には。
マクスウェルは部屋から出ることすらできなく
なっていた。
◇
それからのステラは、修行をほとんど行わなく
なった。
もちろん、木刀を握れば修行はできる。
魔法の練習だって、一人で続けられる。
けれど今は、それよりも大切なことがあった。
少しでも長く、お師匠様のそばにいること。
それだけだった。
「お師匠様。」
朝になれば部屋へ入り、優しく声を掛ける。
「朝ご飯ですよー。」
身体を起こすのを手伝い。
食事を口へ運び。
薬を飲ませる。
昼も。
夜も。
できる限り傍を離れなかった。
そんなステラの姿を見るたび、マクスウェルの目に
は涙が滲んだ。
「すまんのぉ……。」
掠れた声で呟く。
「すまんのぉ……。」
以前なら決して口にしなかった言葉だった。
強く、頼れる師匠であり続けようとしていた老人は、
今では何度も謝るようになっていた。
その度に、ステラは首を横へ振る。
「謝らなくていいよ。」
「私は、お師匠様のお世話をするの好きだから。」
そう言って笑う。
その笑顔を見るたびに、マクスウェルは胸が締め
付けられる思いだった。
◇
そして――。
ある日。
家の中は静まり返っていた。
窓から差し込む夕陽だけが、部屋を淡く朱色へ染め
ている。
ベッドの傍らには、一人の少女がいた。
ステラは、動かなくなりつつある老人の手を、
両手でそっと包み込んでいた。
その手は、昔よりずっと細く、小さくなっていた。
何度も頭を撫でてくれた手。
転んだ時に抱き起こしてくれた手。
料理を作ってくれた手。
本を読んでくれた手。
優しく握ってくれた、その温もりだけは、まだ確か
に残っていた。
「ステラよ……。」
掠れた声が、静かな部屋へ響く。
「……すまんのぉ。」
その一言だけで、胸が締め付けられた。
「最後まで……面倒を見てやれなくて……。」
「何言ってるの……。」
ステラは何度も首を振る。
涙を拭っても拭っても、次から次へと溢れてくる。
「私、お師匠様がいたから生きてこられたんだよ。」
「何も知らなかった私に、ご飯を作ってくれて。」
「本を読んでくれて。」
「魔法を教えてくれて。」
「いっぱい褒めてくれて……。」
「だから……。」
「謝らないでよ……。」
声は震え、最後は泣き声になってしまった。
マクスウェルは、ゆっくりと少女を見つめる。
霞む視界の中でも、その姿だけははっきりと見えて
いた。
爆発跡で拾った、小さな赤子。
泣き虫で。
よく転んで。
何でも遊びに変えてしまう子だった。
自分の常識を何度も壊しながら、それでも真っ直ぐ
育ってくれた。
(大きく……なったのぉ。)
あの小さな手は、いつの間にか自分の手を包める
ほどになっていた。
「もっと……。」
老人が、小さく呟く。
「もっと、お主の成長を……見ていたかった……。」
「もっと、一緒に笑っていたかった……。」
「お主が旅立つ日を……見送りたかった……。」
「いや……。」
ステラは何度も首を振る。
「まだだよ……。」
「まだ何も教わってないよ……。」
「まだ一緒にご飯食べたい……。」
「まだ一緒に修行したい……。」
「まだ……。」
「まだ、お師匠様と一緒にいたいよ……。」
涙で声にならない。
しゃくり上げながら、それでも必死に言葉を紡ぐ。
「お願いだから……。」
「置いていかないで……。」
マクスウェルは、震える手をゆっくり持ち上げた。
力は、ほとんど残っていない。
それでも最後の力を振り絞り、ステラの頭へ手を
乗せる。
昔と同じように。
優しく。
本当に優しく。
「泣くでない……。」
かすかな笑みを浮かべる。
「お主の笑顔が……わしは、一番好きじゃ。」
その言葉で。
張り詰めていた心が、音を立てて崩れた。
「無理だよ……。」
「笑えないよ……。」
「お師匠様がいなくなるのに……。」
「笑えるわけないじゃない……。」
マクスウェルは静かに目を細める。
「ステラ。」
「……ありがとう。」
その一言だけだった。
しかし、続く言葉は、少女の心へ深く刻まれる。
「お主のおかげで……。」
「わしは、幸せじゃった。」
「一人きりだった人生が……。」
「本当に、楽しかった。」
老人は、小さく息を吸う。
「お主は……。」
「わしの……。」
震える唇が、ゆっくりと動く。
「自慢の……娘じゃ。」
「…………っ!!」
ステラの瞳が、大きく見開かれた。
その一言だけで。
胸の奥に込み上げていた感情が、一気に溢れ出す。
「お師匠様ぁぁ……。」
涙が止まらない。
声も出ない。
ただ、握った手を離したくなかった。
すると。
マクスウェルの身体が、淡い光を放ち始めた。
残された最後の魔力。
長い人生で積み重ねたすべて。
その一滴残らずが、ゆっくりとステラへ流れ込んで
いく。
温かかった。
春の日差しのように。
抱き締められているように。
幼い頃、眠る前に頭を撫でてもらった時と同じ
温もりだった。
その光の中で。
優しい声が聞こえた気がした。
『お主は、一人ではない。』
『どこへ行こうと。』
『何があろうと。』
『わしは、ずっとお主と共におる。』
光が静かに消えていく。
マクスウェルの手から、力が抜けた。
その温もりも、ゆっくりと失われていく。
「……いや。」
ステラは、信じられなかった。
何度も手を握る。
何度も呼びかける。
「お師匠様……?」
「ねぇ……。」
「起きてよ……。」
「ねぇ……。」
返事はない。
もう一度。
もう一度だけ。
そう願っても。
老人の瞳が開くことは、二度となかった。
「いやだ……。」
「いやだよ……。」
「お願い……。」
「行かないで……。」
そして。
少女は声の限り叫んだ。
「お師匠様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
悲痛な叫びが、小さな家を震わせる。
森へ響き。
山々へ反響し。
やがて世界は、静寂だけを残した。
その日。
享年七十一歳。
世界で唯一無二の大賢者マクスウェルは――
最愛の娘へ未来を託し、
静かに、その生涯へ幕を下ろした。
◇
~~~~~~~ この世の果てで ~~~~~~~~
「あーあ……。」
マクスウェルは困ったように笑った。
「最後に、いっぱい泣かせてしまったのぉ。」
先ほどまで見ていた光景が、脳裏へ浮かぶ。
泣きじゃくりながら、自分の手を握り締めていた
少女。
必死に名前を呼び続けていた、小さな声。
最後まで笑わせてやりたかったのに。
結局、あの子を悲しませてしまった。
「大丈夫かのぉ……あの子は。」
ぽつりと呟く。
その声は、どこまでも広がる白い空間へ静かに
溶けていった。
そこは、魂が集う場所。
生と死の狭間。
果てしなく続く静寂の世界だった。
『大丈夫よ。』
不意に。
どこからともなく、優しい女性の声が響く。
『あの子なら、きっと。』
『私のことも助けてくれるでしょ?』
その声を聞いたマクスウェルは、小さく笑みを
浮かべた。
「おお。」
「こんなところに、おったのか。」
姿は見えない。
それでも、誰なのかは分かっていた。
「もし……。」
「もしステラと出会うことがあったなら。」
「伝えておいてくれ。」
マクスウェルは穏やかに目を閉じる。
「わしは、本当に幸せじゃった。
ありがとう。と」
その言葉に。
女性は少しだけ嬉しそうに微笑んだような気がした。
『分かったわ。』
『必ず……伝える。』
静かな約束だった。
それだけで十分だった。
マクスウェルの身体は、少しずつ透け始めていく。
足先から。
指先から。
ゆっくりと光へ溶けていく。
もう、この世界へ未練はない。
ただ一つだけ。
「頼んだぞ。」
その一言を残し。
老人の魂は静かに光となって消えていった。
それは終わりではなく。
本当の意味で、この世界を旅立つ瞬間だった。
誰もいない白い世界へ、再び静寂が訪れる。
そして。
最後に、もう一度だけ。
女性の声が響いた。
『助けてね。』
『絶対、助けて。』
その声を聞く者は、誰もいない。
誰にも届くことなく。
その願いだけが、静かに世界へ溶けていった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




