第九話「新たなる火種」
劉毅という男は、有能だった。
北府軍の副将軍として長年、実戦部隊を率いてきただけのことはある。軍の統率、兵站の管理、朝廷内の根回し——どれをとっても一級品だった。
「お前みたいな貴族がいるとはな」
俺がそう言うと、劉毅は苦笑した。
「私は桓玄とは違う。奴は生まれながらの貴族だ。私は——まあ、成り上がりに近い。沛郡劉氏を名乗ってはいるが、本家はとっくに没落している。私がここまでのし上がれたのは、ひとえに実力だけだ」
「なるほど。だから俺に味方したのか」
「似た者同士、だろう?」
たしかに、馬が合うと思った。
桓玄のような生粋の貴族とは違う、泥臭さがあった。
だが——それだけに、油断ならない男でもあった。
劉毅は、建康での俺の立場を一気に固めてくれた。彼の後ろ盾で、俺は正式に「建武将軍」の位を得て、軍権の一部を掌握した。かつて桓玄が座っていた席に、今は俺が座っている。
貴族たちは、表向きは俺に従った。しかし、その目は冷たく、陰では常に何かを企んでいるのが手に取るようにわかった。
「気にするな」
劉穆之はいつも通り淡々としていた。
「彼らは君を恐れている。恐れているからこそ、表立っては逆らえない。今はそれで十分だ」
「だが、いつかは爆発するんじゃねえか?」
檀が不安そうに言う。
「無論、その時は来る。だが——その時には、我々はもっと強くなっている。今は耐える時だ」
劉穆之は、机の上に広げた書類の束を指さした。
「それより、これを見てくれ」
「なんだ、こりゃ」
「北伐の計画書だ」
俺はその書類を手に取った。
そこには、詳細な進軍ルート、兵站計画、補給拠点の候補地がびっしりと書き込まれていた。
「お前、いつの間にこんなもんを」
「君が劉毅と同盟を結んでいる間に、私は私で動いていた。今こそ北伐の好機だ」
劉穆之は地図を広げて説明を始めた。
「桓玄が死に、朝廷は混乱しているが、裏を返せば今がチャンスでもある。北の異民族——南燕の慕容超は、この混乱に乗じて国境を侵し始めている。これを討つ」
「北伐、か」
北伐——それは、この国の人間なら誰もが一度は夢見る大義だった。
かつて西晋が異民族に滅ぼされてから、すでに百年以上。中原と呼ばれる北の大地は、いまだ異民族の手の中にある。奪還することこそが、東晋の悲願だった。
「桓玄を討ったのは国内の敵だ。だが、真の英雄になりたいなら——」
「外敵を討て、か」
「そういうことだ」
俺は地図を見つめながら、子供の頃に聞かされた話を思い出していた。
祖父が、まだ北にいた頃のことを語るのを、いつも悲しそうな顔で聞いていた。
「——やろう」
俺は立ち上がった。
「北を取る。そして、祖父が果たせなかった『故郷に帰る』って夢を、俺が叶える」
「いい返事だ」
劉穆之は満足げにうなずいた。
だが、その時——
「待ってください」
部屋の入り口から、凛とした声が響いた。
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
年の頃は二十代半ば。質素ながらも仕立ての良い衣をまとい、その顔立ちは貴族的な気品と、どこか意志の強さを感じさせるものだった。
「……誰だ」
「申し遅れました。私は王神愛。王謐の娘です」
「王謐——あの貴族の重鎮の?」
「はい」
王神愛は、まっすぐに俺の目を見て言った。
「父から、劉裕様にお伝えするようにと。『北伐には賛同する。ついては、王家として全面的に協力する』と」
俺は、劉穆之と顔を見合わせた。
王謐は、朝廷で最も影響力を持つ門閥貴族の一人だ。その男が、俺に協力する?
「なぜだ。お前の父は、俺のことを快く思っていなかったはずだ」
「はい。今も、おそらく快くは思っていません」
王神愛は、少しだけ口元をほころばせた。
「ですが、父は合理主義者です。桓玄が倒れ、劉毅将軍があなたに味方した今、あなたと敵対するのは得策ではない。むしろ、北伐という大義に乗ることで、王家の影響力を保とうと考えたのでしょう」
「なるほど。打算か」
「ええ。打算です」
彼女はあっさりと認めた。
「ですが——私はそれだけではないと思っています」
「というと?」
「あなたは、この国を変えられるかもしれない。そう、思ったのです」
その言葉には、打算とは違う何かが込められている気がした。
俺は、初めて彼女の目をじっくりと見つめた。
強い目だった。ただの貴族の令嬢ではない。
「……王神愛、だったな」
「はい」
「お前、戦場に行ったことはあるか」
「いいえ。でも——行ったことがなくても、戦える人間がいることは知っています」
ふと、妹の興弟の顔が浮かんだ。
あいつもまた、戦場には立たなくても、毎日が戦いだった。
貧しさと、病と、理不尽と——それでも負けずに生きている。
「わかった。お前の父の申し出、受けよう」
「ありがとうございます」
「ただし——条件がある」
「なんでしょう」
俺はにやりと笑った。
「お前が、俺のところに嫁いでくることだ」
「——えっ」
王神愛の顔が、初めて崩れた。
驚きで目を見開き、頬がほんのりと赤くなる。
「な、なにを——」
「冗談だ」
「……っ」
彼女は一瞬むっとして、それからふっと笑った。
「あなたという人は、本当に——」
「なんだ」
「いいえ。なんでもありません」
王神愛は居住まいを正し、深々と一礼した。
「では、王家として、北伐の準備に取りかかります。どうぞ、ご武運を」
「ああ」
彼女が部屋を去った後、檀がにやにやしながら肘でつついてきた。
「大将、お前、なかなか隅に置けねえな」
「うるさい」
「でも、悪くねえんじゃねえか? 貴族の令嬢と結婚すりゃ、お前の立場も——」
「そういう話は、戦いに勝ってからだ」
俺は窓の外を見た。
北の空には、入道雲が湧き上がっている。
まるで、これから始まる戦いを予告するかのように。
「それより——北伐の準備だ。穆之、兵站は任せた。檀、お前は新兵の訓練を頼む」
「了解」
「あいよ」
俺は刀を取り、庭に出た。
素振りをしながら、北の大地を思う。
南燕の慕容超——あらゆる異民族をまとめあげた名君と聞く。戦上手で、民にも慕われているという。
そんな男を相手に、勝てるのか。
——否、勝つのではない。
勝たねばならない。
俺は、かつてないほど大きな戦いを前に、静かに闘志を燃やしていた。
その夜、俺は久しぶりに京口の実家に足を運んだ。
「兄ちゃん——!!」
興弟が、嬉しそうに飛びついてくる。
母は、少しだけ顔色が良くなったように見えた。薬を買う金ができたからだろう。
「兄ちゃん、ご飯食べていくだろ? 今日ね、お魚があるんだよ」
「おう、食べていく」
「それでね、聞いてほしい話があるの——」
興弟は楽しそうに、近所で起きた出来事を話し始めた。
それを聞きながら、俺は思う。
——こいつらが笑って暮らせる世の中を、必ず作る。
そのためなら、なんだってやる。
北伐が終わったら、次は何をしようか。
いや——その前に、生きて帰ることだ。
「興弟」
「なあに?」
「兄ちゃん、また遠くに行く。今度は、ちょっと長いかもな」
「……うん」
興弟は少し黙ってから、にっこり笑った。
「大丈夫。兄ちゃんは絶対に帰ってくるもん。だって——」
「だって?」
「兄ちゃん、強いもん」
俺は、妹の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「ああ。強いさ。だから大丈夫だ」
その夜、俺は久しぶりに、我が家でぐっすりと眠った。
明日から——いや、これからは、もう休めない。
戦いの日々が続くだろう。
それでも、たまにはこんな夜があってもいい。
——京口の狂犬よ、北へ吼えろ。




