第十話「北伐の狼煙」
建康を発つ日、空はどこまでも青く晴れ渡っていた。
北伐軍の総数は、およそ一万。かつて淮水で戦った頃よりは遙かに多いが、北伐という大事には決して十分とは言えない数だった。
「仕方あるまい。朝廷はまだ君に全幅の信頼を置いているわけではない。一万でも出せただけ、劉毅の尽力と王家の協力のおかげだ」
劉穆之はいつもの調子で言う。
「十分だ」
俺は馬にまたがりながら答えた。
「兵の数より、どう使うかだ。淮水で学んだだろう」
「ふっ、頼もしい限りだ」
檀道済はすでに先頭で待機している。今回は副将として、全軍の指揮を補佐する役目だ。
劉穆之は参謀として、そして——王神愛が、物資の補給責任者として同行していた。
「お前、本当に来るとはな」
「当然です。王家が約束した協力を、形だけのものにするつもりはありません」
王神愛は馬に跨がり、どこか誇らしげに言った。貴族の令嬢が戦場に同行するなど前代未聞だが、彼女は誰よりも実務に長けていた。兵站の計算、補給路の確保、現地豪族との交渉——気がつけば、彼女なしでは軍が回らなくなっていた。
「無理はするなよ。戦場は、お前が思っているよりずっと——」
「汚くて、理不尽で、血の匂いがする場所なのでしょう」
「……よくわかってるじゃないか」
「本で読みました」
王神愛は、少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、本で読むのと、実際に見るのとは違う。だから私は、この目で見なければならないと思ったのです。あなたが——変えようとしている世界を」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、彼女の決意を受け取るだけにした。
北伐軍は一路、北を目指した。淮水を越え、泗水を渡り、やがて南燕の国境へと近づいていく。
南燕は、鮮卑族の慕容氏が建てた国だ。現在の皇帝・慕容超は、若くして即位したが、その統治は苛烈を極めていた。漢民族の農民は重税に苦しみ、慕容超の奢侈のために搾取され続けている。
「慕容超は、我々の侵攻を予期しているだろう」
劉穆之が地図を広げながら言った。
「敵の総兵力はおよそ三万。数の上では我々の三倍。しかも鮮卑の騎馬軍団は精強で知られる」
「淮水の時も、似たようなもんだったな」
「あの時は相手が盧循だった。今回は、本物の異民族の精鋭だ」
「だから?」
「……君は本当に、いつも通りだな」
劉穆之は苦笑しながら、地図の一点を指さした。
「ここだ。臨朐——この城を落とせば、南燕の心臓部・広固まで一直線だ。逆に言えば、ここが最大の難関になる」
「城攻めか」
城攻めは、戦の中で最も難しい戦いの一つだ。包囲には時間がかかり、その間に敵の援軍が来れば挟み撃ちになる。
「時間をかけるわけにはいかない」
「だろうな。だが——」
「策があるんだろ、穆之」
「……君は、私を買いかぶりすぎだ」
そう言いながらも、劉穆之は懐から別の地図を取り出した。そこには、城の内部構造が細かく書き込まれている。
「臨朐には、秘密の地下水路がある」
「水路?」
「城に水を引き込むためのものだ。そして——人は通れないが、油は通れる」
俺はにやりと笑った。
「なるほど。城の下に油を流し込んで——」
「火をつける。水路は地下に張り巡らされている。一度火がつけば、消火は不可能だ。城は内部から崩壊する」
「相変わらず、えげつない作戦だな」
「君に言われたくはない」
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臨朐城の包囲が始まったのは、それから三日後のことだった。
城を守る南燕の将軍は、公孫五楼という歴戦の勇将だった。並の知略では歯が立たない。だからこそ、最初から正面攻撃はしなかった。
「檀、お前は城の正面に布陣しろ。派手に旗を立てて、今にも攻め込みそうな素振りを見せろ」
「了解。つまり囮だな」
「ああ。その間に、俺と穆之で水路を探す」
「気をつけろよ。敵も馬鹿じゃない」
「わかってる」
夜陰に紛れ、俺は十数名の精鋭と共に城の外れへと向かった。
事前に調べた情報によれば、水路の入り口は、城の北側にある枯れ井戸の底にあるという。
枯れ井戸はすぐに見つかった。見張りもいない。どうやら、南燕軍は水路の存在を重視していないらしい。
井戸の底に降りると、たしかに横穴が口を開けていた。中は暗く、湿った空気が漂っている。
「この先が、城内に続いているのか」
「ああ。この水路は、かつて秦の時代に掘られた古いものらしい。南燕の連中も、存在自体は忘れている可能性が高い」
俺たちは、慎重に水路の中へと油壺を運び込んだ。城の直下まで運び、あらかじめ仕込んでおいた導火線を引く。
「よし、点火の準備は整った」
「では、戻ろう。ここで火がつけば一巻の終わりだ」
地上に戻り、井戸から離れたところで、俺は松明に火を灯した。
城の正面では、檀の部隊がまだ陽動を続けている。敵の注意は完全に正面に向いていた。
「——行くぞ」
俺は導火線に火をつけた。
火の粉が、シュウシュウと音を立てて水路の中へと吸い込まれていく。
数十秒の静寂。
そして——
ドォォォォン!!!
地響きと共に、城の内部から巨大な火柱が上がった。悲鳴と怒号が入り混じり、城壁のあちこちから煙が噴き出す。地下水路を伝って広がった炎は、城のあらゆる場所に燃え広がっていた。
「今だ!! 檀!!」
「応!!」
正面に布陣していた檀の部隊が、一斉に城門へと突撃する。炎上する城内は大混乱に陥り、まともな防衛ができていない。城門はあっけなく破られ、北伐軍が雪崩れ込んだ。
戦いは、わずか半日で決着した。
公孫五楼は捕虜となり、臨朐は陥落。
南燕の防衛線は、ここに崩壊した。
「これで、広固への道は開いたな」
俺は、燃えさかる城を背に、次の標的を見据えた。
「だが——本番はここからだ。慕容超は、全軍を挙げて迎え撃ってくるだろう」
「ええ。それこそが——北伐の真の戦いです」
王神愛が、静かに言った。
その目は、すでに戦場の空気に慣れ始めているようだった。
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北伐の第一関門は破った。
だが、これはまだ序章に過ぎない。
この先に待つのは、南燕の皇帝・慕容超その人。
三万の大軍と、鮮卑の誇りを背負った若き君主。
——京口の狂犬よ、いまこそ中原に吼えよ。
天下への道は、この先に続いている。




