第十一話「広固の落日」
臨朐を落とした報せは、南燕の朝廷を震撼させた。
慕容超はすぐさま全軍を広固に集結させ、決戦の構えを見せた。その数、およそ三万。対する北伐軍は、戦損を補給してようやく一万に届くかどうか。
「まともな攻城戦なら、勝ち目はない」
劉穆之は断言した。
「広固は南燕の首都。城壁は高く、堀は深い。正面から攻めれば、淮水や臨朐のようにはいかない」
「わかってる」
俺は地図を睨みながら考え込んだ。
慕容超は決して無能ではない。むしろ、若くして鮮卑の諸部族をまとめ上げただけの器はある。正面決戦では、こちらの奇策もそうそう通じないだろう。
「だとしたら——どうする、大将」
檀が聞く。
俺はしばらく黙ってから、地図の一点を指さした。
「ここだ」
「……広固の北東、沂山?」
「ああ。ここに、南燕の糧秣庫がある」
広固の食糧備蓄の大半は、この沂山の麓に集積されているという情報を、捕虜にした公孫五楼から聞き出していた。
「補給線を断つ。臨朐と同じだと?」
「いや、今回は違う。糧秣を焼くだけじゃない。焼いた上で——敵が動く」
「動く?」
「慕容超は若い。そして短気だ。補給を断たれれば、籠城を諦めて打って出てくる可能性が高い。城の外に引きずり出せば——」
「野戦で叩ける、か」
劉穆之がうなずいた。
「理には適っている。だが、三万を城外に誘い出して野戦とは——かなりの博打だぞ」
「もともと博打みたいな人生だ。今さらだ」
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夜陰に乗じて、俺と檀は精鋭五百を率いて沂山へ向かった。
道中、敵の斥候と何度か遭遇したが、その都度素早く片付けた。慕容超にこちらの動きを悟られるわけにはいかない。
山道を登り、夜明け前に糧秣庫を見下ろす尾根に到着した。
眼下には、無数の倉庫が立ち並び、大量の穀物や飼料が積み上げられている。守備兵は二百ほど——油断している。
「檀、手筈通りに」
「あいよ。火矢の準備はできてる」
俺は、静かに刀を抜いた。
「——全軍、突撃!!」
静寂を破り、五百の兵が一斉に山を駆け下りる。守備兵たちは寝込みを襲われ、まともな抵抗もできないまま崩れていった。
「火をつけろ!! 全部だ!!」
「うおおおお!!」
倉庫という倉庫に火が放たれ、穀物の山が次々と炎に包まれる。沂山の空が、みるみる赤く染まっていった。数日分では済まない。数ヶ月分の備蓄が、ここで灰になる。
「よし、撤退だ!! 慕容超に気づかれる前にずらかるぞ!!」
「大将、見てくれ!!」
檀が指さす方角——
広固の城門が、開きつつあった。
「もう動いたのか!?」
「どうやら、火事を見て慌てたみたいだな!! あの慕容超とかいう皇帝、よっぽど短気らしい!!」
俺は思わず笑った。
「上等だ!! 戻るぞ!! ここからが本当の戦いだ!!」
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広固の城外、平原。
慕容超は、三万の兵を率いて出撃してきた。
鮮卑の騎馬軍団を中心とした、南燕の誇る精強な軍勢。
対する北伐軍は、丘陵地帯に布陣し、敵を待ち受けていた。
「見事に誘いに乗ってくれたな」
劉穆之が、眼下に広がる敵軍を見ながら言った。
「あとは、勝つだけだ」
「策はあるのか」
「もちろんだ。名付けて——」
俺は不敵に笑った。
「『偽りの退却』だ」
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戦闘は、北伐軍の中央からの突撃で幕を開けた。
俺と檀が率いる精鋭部隊が、敵の正面に斬り込む。慕容超もまた、全軍を挙げて応戦してきた。
激しい鍔迫り合いが続く。
鮮卑の騎馬はやはり手強い。こちらの歩兵が押され始めた。
「大将、そろそろまずいんじゃねえか!?」
「まだだ——もう少し、耐えろ!!」
さらに一合、二合。
こちらの損害がかさみ始めたところで——
「——今だ!! 退け!!」
俺の合図で、北伐軍は一斉に退却を開始した。
旗を捨て、武器を落とし、一目散に逃げ出す。
「敵が逃げたぞ!!」
「臆病者め!! 追え!! 一人も逃がすな!!」
慕容超は、勝機と見て全軍に追撃を命じた。
鮮卑の騎馬が、逃げる北伐軍を追って平野を駆ける。
その時——
ドドドドドドドドッ!!
左右の丘陵から、伏兵が一斉に飛び出した。
「な、なに!? 伏兵だと!?」
慕容超の顔色が変わる。
伏兵の指揮を執っていたのは、王神愛だった。彼女は自ら采配を振るい、隠し持っていた弩兵隊を敵の側面に展開させたのだ。
「一斉射——放て!!」
雨のように降り注ぐ矢。
側面を突かれた鮮卑騎馬は混乱し、隊列を乱す。
「今だ!! 反転!!」
退却していた北伐軍が、くるりと向きを変え、再び敵に襲いかかる。
これはただの退却ではなかった。
退くと見せかけて敵を誘い込み、伏兵で包囲する——兵法の基本にして、最も難しい戦術の一つ。
「そ、そんな——撤退だ!! 全軍撤退!!」
慕容超は叫んだが、遅かった。
すでに南燕軍は包囲され、指揮系統は完全に麻痺していた。
俺は馬上で、逃げ惑う敵の中を一直線に駆け抜ける。
慕容超の旗——見つけた。
彼は数騎の近衛と共に、広固へ逃げ帰ろうとしていた。
「逃がすか!!」
馬を飛ばし、距離を詰める。
近衛の騎兵が二人、俺の前に立ち塞がる。だが——死線の予見が、二人の動きを完全に見切っていた。
一刀目——右の騎兵の槍をかわし、胴を薙ぐ。
二刀目——左の騎兵の剣を弾き飛ばし、兜ごと頭蓋を割る。
わずか二呼吸で二人を片付け、さらに慕容超を追う。
城門まで、あとわずか——
「慕容超!! 観念しろ!!」
「く、くそ——!!」
慕容超は、死に物狂いで馬を駆った。
だが——その時、城門の手前で、彼の馬が疲労でつまずき、前のめりに倒れた。
「うわっ——!?」
投げ出された慕容超は、地面に叩きつけられ、必死に起き上がろうとした。
そこに、俺の刀が突きつけられる。
「——終わりだ。慕容超」
若き皇帝は、しばし俺を睨みつけていたが、やがて力なくうなだれた。
「……見事だ。私の負けだ」
「降伏するか」
「ああ。ただし——私の民だけは、助けてほしい。彼らに罪はない」
「約束する。俺はお前の民を殺しはしない。この地は、これから俺が治める」
慕容超は、意外そうに俺を見上げた。
「貴様は——ただの武人ではないな」
「さあな。自分でもわからん」
俺は刀を収め、慕容超に手を差し伸べた。
彼は一瞬ためらってから、その手を取った。
こうして——
南燕は滅び、北伐は成功した。
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広固の城門に、北伐軍の旗が掲げられた。
それは、百年来の悲願——中原奪還の、第一歩だった。
夜、城内でささやかな祝宴が開かれた。
檀は酒を飲みすぎて潰れ、劉穆之はいつもの無表情で木簡に戦果を記録している。
俺は城壁の上で、ひとり北の空を見上げていた。
ここからさらに北には、まだ多くの異民族の国がある。南燕はその一つに過ぎない。
「ここで終わりじゃない」
俺はつぶやいた。
「ここからが、始まりだ」
「——そうですね」
振り返ると、王神愛が立っていた。
「あなたはきっと、もっと遠くへ行くのでしょう」
「かもしれん」
「私は——どこまででも、ついていきますよ」
彼女は静かに微笑んだ。
その笑顔が、かつて妹に向けたものと同じ種類のものだと、なぜかそう思った。
「ありがとう」
俺は素直にそう言った。
素直になるのは、あまり得意ではない。でも、今だけは。
「さあ、戻りましょう。みんな待っています」
「ああ」
城壁を降りながら、俺はもう一度、北の空を振り返った。
星々が、新たな戦場を照らしている。
——京口の狂犬は、まだ遠くを睨んでいる。
天下への道は、まだ半ばだ。




