第十二話「南の嵐」
北伐の成功は、建康に激震をもたらした。
南燕を滅ぼし、慕容超を捕虜として連れ帰った俺を、都の人々は熱狂で迎えた。通りという通りに人があふれ、誰もが「劉裕」の名を叫んでいる。
「北伐将軍、万歳!!」
「中原を取り戻した英雄だ!!」
「これで北の脅威は去ったぞ!!」
群衆の声を聞きながら、俺は馬上で複雑な心境だった。
——英雄、か。
ついこの間までは「京口の狂犬」と呼ばれていた男が、今では英雄だ。
「どうした、浮かない顔だな」
隣を進む檀が声をかけてきた。
「別に。ただ——英雄ってのは、いつか必ず悪者になる。そういうもんだろ」
「相変わらず、めでたい時くらい素直に喜べよ」
「俺はいつも素直だ」
檀が呆れたように笑った。
---
宮中では、安帝が直々に俺を迎えた。
「劉裕、そなたの武勲は、まことに見事であった。ついては——」
安帝は、あらかじめ用意された勅書を読み上げた。
「そなたを『侍中・車騎将軍・都督中外諸軍事』に任ずる。併せて、豫州牧を授ける」
どよめきが広がった。
侍中は皇帝の側近中の側近。車騎将軍は軍の最高位の一つ。都督中外諸軍事となれば、内外すべての軍を統括する権限を持つ。
つまり——名実ともに、この国の軍事最高司令官になったのだ。
「はは……こいつはすげえや」
檀が小声でつぶやく。
劉穆之は無表情のまま、かすかにうなずいた。
「ありがたき幸せに存じます」
俺は型通りの礼を述べたが、心の中は冷めていた。
地位や肩書きなど、どうでもいい。
問題は——これで貴族たちが黙っているかどうかだ。
---
その夜、屋敷に戻った俺を待っていたのは、劉穆之の神妙な表情だった。
「問題だ」
「なんだ」
「盧循の残党が、広州で蜂起した。数は——五万」
「五万だと?」
淮水で倒したはずの盧循。確かに彼は死んだ。だが、その弟・盧循(同名)と、部将の徐道覆が生き延びていたのだ。
「奴らは広州から北上を始めている。このままでは、豫章——さらに建康も危ない」
「よりによって、このタイミングか」
北伐から戻ったばかりで、兵は疲弊している。補充もままならない。
しかも、貴族たちは俺の台頭を面白く思っていない。援軍など期待できないだろう。
「どうする、大将」
檀が聞く。
「決まってる。叩く」
「でもよ、兵が——」
「いないなら、集めればいい。京口の連中をかき集めろ。俺が直々に声をかける」
俺は立ち上がった。
「穆之、いつもの通り、策はあるんだろ」
「……君は本当に、私を何だと思っているんだ」
「俺の頭脳だ」
劉穆之は、一瞬だけ言葉に詰まり、それから苦笑した。
「ああ、あるとも。——ただし、今回の作戦は、今までで一番『らしくない』ものになる」
「らしくない?」
「正面からの騙し討ちだ」
劉穆之は地図を広げた。
「盧循の船団は、長江を遡上している。速度は速いが、船団が大きすぎて統率が取れていない。弱点はそこだ」
「具体的には」
「まず、旧桓玄軍の船をかき集める。数は少なくていい。それに偽装を施し、あたかも朝廷の主力艦隊であるかのように見せかける」
「囮か」
「そうだ。盧循は、君がまだ北伐から戻っていないと思っている。そこに『朝廷の艦隊』が現れれば、間違いなく攻撃を仕掛けてくる」
「その間に——」
「君が陸路から敵の背後を取る。川と陸からの挟撃だ」
なるほど、たしかに「らしくない」作戦だ。
俺はいつも正面突破ばかりだったからな。
「面白い。乗った」
「ただし、時間がない。準備期間は三日だ」
「十分だ。それだけあれば——三万は集められる」
檀が目を丸くした。
「三日で三万!? 正気かよ!?」
「京口には、仕事にあぶれた連中がゴロゴロいる。戦に勝てば金をやると言えば、すぐに集まるさ」
「……大将、お前、だんだんむちゃくちゃになってきたな」
「今さらだ」
---
三日後。
俺たちは南下を開始した。
京口で集めた兵は、予想を上回る三万五千。貧しい農民、職を失った職人、かつての賊——様々な顔ぶれだったが、戦う理由だけは共通していた。
「劉裕に勝ち馬を託す」——そういうことだ。
長江を下る船団を見ながら、俺は檀に言った。
「檀、お前には囮の艦隊を任せる」
「おう、任せとけ。俺は目立つのが得意だからな」
「死ぬなよ」
「お前こそな」
俺たちは、ここで二手に分かれた。
檀は囮の艦隊で長江を下り、俺は陸路を急行して敵の背後へと回り込む。
---
豫章の手前、桑落洲という地点で、ついに盧循の船団を捕捉した。
想像以上の大船団だった。船は数百艘。兵は五万を優に超えている。
そして——向かうは、俺たちが守るこの地。ここを抜かれれば、建康までは一直線だ。
「敵は、我々を『朝廷の艦隊』と思い込んでいる」
劉穆之が双眼鏡を下ろしながら言った。
「檀将軍の囮が、見事に機能したようだ。敵は全速力で川を遡上している」
「よし。こっちも準備はできてるな」
「ああ。手筈通りに」
陸上の丘に隠れた俺たちの部隊は、すでに弓と弩を構え、いつでも火矢を放てる状態だった。
「——今だ!! 火矢、放て!!」
号令一下、数千本の火矢が空を覆い、川面に降り注いだ。
盧循の船団は、風上に向かって進んでいた。火は瞬く間に燃え広がり、次々と船が炎に包まれる。
「敵襲!! 陸からだ!!」
「劉裕だ!! 劉裕が戻ってきている!!」
敵軍に動揺が走る。
「さらにだ!! 第二射、放て!!」
さらに火矢が降り注ぎ、船団は大混乱に陥った。
そして——
「前方に敵艦隊!!」
檀の率いる囮艦隊が、真正面から突撃してきた。
火に包まれて混乱する敵船団に、さらに追い打ちをかけるように、檀の艦隊が斬り込む。
「おらおらおらぁ!! 京口の喧嘩屋、ここにありだぁ!!」
「敵将はどこだ!! 盧循を出せ!!」
船上では、檀が相変わらずの暴れっぷりを見せている。
俺は、川岸からその様子を眺めながら——
「穆之、俺も行く」
「まあ、そう言うと思った」
俺は数十騎を率いて、川に突入した。
水深は浅い。馬で渡れる。
船上の戦いに、騎馬で乱入する——こんな無茶をするのは、俺くらいだろう。
「大将!! また無茶しやがって!!」
「うるさい!! 俺はいつも——」
「『正面突破』だろ!! 知ってるよ!!」
檀の笑い声が、戦場に響く。
その時——
敵の本船の上に、一人の男が立っているのが見えた。
盧循——兄と同じ顔立ちの若者が、剣を手に俺を待ち受けていた。
「劉裕——!! 兄の仇ぃ!!」
「来い。相手になってやる」
船に飛び移り、俺は刀を抜いた。
盧循もまた、悲壮な覚悟を宿した目で斬りかかってくる。
一合——剣と刀が交錯し、火花が散る。
二合——鍔迫り合い。盧循の腕力は、予想以上だった。
三合——俺はあえて体勢を崩し、盧循の剣先をかわしながら懐に飛び込んだ。
「——ぐっ!?」
刀が、盧循の胸を貫く。
「……見事だ」
「お前もな」
「兄は……最期に、なんと……」
「理想を抱いて死ぬのも悪くない——そう言って、笑っていた」
盧循は、血の混じった息を吐きながら笑った。
「はは……兄らしい……な……」
彼の体から力が抜け、崩れ落ちる。
俺はその体をそっと船の上に横たえた。
---
桑落洲の戦いは、北伐軍の完勝に終わった。
盧循の乱は鎮圧され、南の脅威は去った。
しかし、戦いの後——ふと気づく。
手にした刀が、以前よりずっしりと重く感じられた。
「どうした、大将」
檀が近づいてくる。
「いや——ちょっとな」
「まさか、敵に同情してるんじゃねえだろうな」
「そんなんじゃない。ただ——」
俺は、遠くに見える都の方角を見つめた。
「戦えば戦うほど、倒さなきゃならない敵が、多くなっていく気がする」
「そりゃ、大将がでかくなったからだろ」
「そうかもな」
檀は、いつもの調子で笑い飛ばした。
「でもよ、大将。お前が戦うから、守られてるやつらもいるんだぜ。京口の家族とか——今は、都の民だってそうだ」
「守られている者たち」——その言葉に、妹の顔が浮かぶ。母の顔、そして、この国で懸命に生きる名もなき人々の顔。あの日、京口のボロ家で「お米がない」と言った妹の声が、ふと蘇る。
「——ああ」
俺はうなずき、刀を鞘に収めた。
「戻ろう、建康へ。まだ、やるべきことがある」
「おうよ」
桑落洲の夕焼けが、静かに戦場を染め上げていた。
——英雄は、戦うたびに孤独になる。
だが、それでも彼は戦い続ける。
守るべき者のために。




