第八話「朝廷という戦場」
建康に凱旋した俺たちを待っていたのは、拍手でも歓声でもなく、重苦しい沈黙だった。
桓玄を討った英雄——そう呼ばれることを、どこかで期待していなかったと言えば嘘になる。だが、現実は違った。都の貴族たちは、俺のことを「桓玄に代わる新たな脅威」として見ていたのだ。
「当然だな」
劉穆之は、朝廷から支給された屋敷の床に座り込みながら、いつもの調子で言った。
「君は一介の農民でありながら、北伐で武功を重ね、ついには朝廷の最高権力者を討ち取った。貴族たちから見れば、君は制御不能の怪物だ。桓玄以上に危険視されても不思議ではない」
「俺はただ、邪魔者を倒しただけだ。それのどこが問題なんだ」
「その『ただ』が問題なんだよ」
劉穆之はため息をついた。
「君は貴族の論理を理解していない。彼らにとって、生まれの卑しい者が武功でのし上がること自体が最大の脅威なのだ。秩序を乱すからな」
「秩序、ね」
俺は苦い顔で窓の外を見た。
都の街並みは華やかだった。貴族たちの邸宅が立ち並び、市場には物があふれ、道行く人々は——少なくとも京口の貧民街よりは——豊かに見える。
だが、その豊かさの裏で、どれだけの人間が使い捨てられているのか。
俺はそれを、痛いほど知っていた。
「それで、具体的には何が起きてるんだ」
檀が口を挟んだ。彼もまた、この居心地の悪い空気に苛立っているようだった。
「朝廷内で、君をどう扱うかで意見が割れている。大まかに三派だ」
劉穆之は指を折りながら説明を始めた。
「第一派は、君を厚遇して取り込もうという勢力。主に地方出身の武官たちだ。彼らは君を自分たちの希望と見ている」
「第二派は、君を地方に飛ばして力を削ごうという勢力。中央の門閥貴族たちだ。桓玄の死で混乱した今、君に都にいられては困る連中だな」
「第三派は——」
「暗殺か」
「ご明察」
劉穆之は無表情でうなずいた。
「桓玄の残党、そして君の台頭を面白く思わない連中だ。もうすでに、何人かの刺客がこの屋敷の周辺をうろついている」
「物騒なこったな」
俺は立ち上がり、壁にかけた刀を手に取った。
「で、俺はどいつと戦えばいい」
「待て、大将」
檀が制する。
「穆之の話を最後まで聞こうぜ。こいつには何か考えがあるんだろ」
「ああ」
劉穆之は、懐から一通の書簡を取り出した。それは、朝廷からの正式な召喚状だった。
「明日、君は宮中に呼ばれている。安帝陛下への謁見だ。その場で、君の今後が決まる」
「謁見? 俺がか?」
「そうだ。そこで君は、ある決断を迫られるだろう」
劉穆之は、じっと俺の目を見つめて言った。
「朝廷に従い地方へ飛ばされるか、それとも——」
「それとも?」
「朝廷そのものを、掌握するか」
部屋に沈黙が落ちた。
檀が、ごくりと唾を飲み込む。
俺は、刀の鞘を握りしめたまま、しばし考え込んだ。
「……掌握、か。そんなこと、できるのか」
「やるか、やられるかだ。君が桓玄を倒したことで、歯車はもう回り始めている。止めることは誰にもできない。あとは——君が、その流れに飲まれるか、流れそのものになるかだ」
俺は窓の外に目をやった。
夕暮れの空が、都を赤く染めている。まるで、あの日の淮水の戦場のように。
「なあ、穆之」
「なんだ」
「俺がもし、朝廷を掌握したら——何が変えられる」
劉穆之は少し考え、短く答えた。
「すべてだ」
「すべて?」
「生まれで全てが決まる貴族制を廃し、実力で成り上がれる仕組みを作ることもできる。農民が、商人が、兵士が——誰もが報われる国を、君が作れる」
俺の胸の奥が、熱くなった。
あの日、京口のボロ家で、妹に「お米がない」と言われた日から——ずっと探していたもの。それが、いま目の前にぼんやりと形を現した気がした。
「よし」
俺は刀を腰に差し、はっきりと言った。
「明日、朝廷に行く。そして——掌握する」
「……本気か」
「俺はいつも本気だ」
檀が、にやりと笑った。
「大将、そうこなくっちゃな。どうせなら、でっかくやろうぜ」
「ああ」
劉穆之は何も言わず、ただゆっくりと頷いた。
その目には、初めて見るような静かな熱が宿っていた。
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翌日、俺は生まれて初めて、宮中に足を踏み入れた。
朱塗りの柱、黄金の装飾、絹の帷——京口の貧民街で育った俺には、すべてが別世界だった。
だが、不思議と緊張はなかった。
むしろ、ここにいる貴族たちの顔が、かつて戦場で見てきた敵将たちと同じに見えた。
違うのは、武器が刀ではなく言葉と権謀術数だということだけだ。
謁見の間。玉座には、若い皇帝——安帝が座っている。
だが、誰の目にも明らかだった。この皇帝は飾り物だ。実際の権力は、周囲に侍る貴族たちが握っている。
「劉裕、そなたの武勲は聞き及んでおる」
安帝の声は、あらかじめ用意された台詞を読んでいるだけのように平板だった。
「ついては、そなたを下邳の太守に任ずる。地方の統治に励み、引き続き朝廷に忠誠を尽くせ」
「お待ちください」
俺が口を開く前に、横から割って入った声があった。
「下邳とは、いささか軽すぎるのではありませぬか。劉裕殿は桓玄を討った英雄。それ相応の地位と報奨を与えるべきかと」
声の主は、痩せた初老の男だった。王謐——確か、門閥貴族の重鎮だ。
「ふむ……では、王謐、そなたは何を提案する」
「はい。劉裕殿には、ぜひ中央に留まっていただき、軍事の要職に就いていただきたく存じます」
——取り込もうというのか。
それとも、目の届く場所に置いて監視するつもりか。
「いや、待て。中央に置くなど危険すぎる。地方で大人しくさせるべきだ」
「その通り。桓玄の二の舞いになるぞ」
別の貴族たちが反論する。
謁見の間が、ざわめきに包まれた。
俺は、その様子を黙って見ていた。
誰もが、俺を「どう処分するか」で議論している。まるで、俺が意思を持たない道具であるかのように。
——もう、いい加減にしろよ。
俺は一歩、前に出た。
その動作だけで、ざわめきがぴたりと止む。
「——俺が、どこに行くかは、俺が決める」
重い沈黙が落ちた。
「貴様、無礼だぞ!! ここがどこだか——」
一人の貴族が叫んだが、俺がその男をじっと見つめると、言葉を途中で飲み込んだ。
淮水で数千を屠った目だ。貴族風情が耐えられるものではない。
「俺はここに残る。そして、軍の指揮権を要求する」
「な、何を勝手な——」
「黙れ」
俺は低く、だがはっきりと言った。
「お前たちに選択肢はない。俺を認めるか、それとも——」
刀の柄に手をかける仕草をする。
それだけで、数人の貴族が後退った。
「——俺の敵になるか、だ」
その時だった。
「——ははははは!!」
突然、玉座の後ろから笑い声が上がった。
声の主は——安帝ではなかった。皇帝の背後に控えていた、もう一人の男。
「やはりな。やはりお前は面白い、劉裕」
その男は、ゆっくりと俺の前に歩み出てきた。
年の頃は四十前後。堂々たる体格と、知性を感じさせる鋭い目。
一目でわかった。こいつは——違う。
他の貴族とは、格が違う。
「私は劉毅。字は希楽。北府軍の副将軍を務めている」
劉毅——聞いたことがある。北府軍はかつて、謝玄が率いた精鋭部隊。桓玄を討つ前に、北府軍の将軍は桓玄によって殺されていた。
「劉裕、いや——劉裕殿。私は君に賛同する」
「劉毅将軍!? 正気ですか!!」
「黙れ」
劉毅は、周囲の貴族たちを一喝した。その迫力は、戦場を知る武人ならではのものだった。
「私はずっと待っていた。この腐った朝廷をひっくり返す男をな」
劉毅は、俺に手を差し伸べた。
「手を組もう。君の武力と、私の軍権。それがあれば、この国は変えられる」
俺は、その手をじっと見つめた。
劉穆之からは、劉毅という男について聞いていた。
有能だが、野心家——そして、いずれは自分が天下を取りたいと思っている男だと。
だが、今は——
「——乗った」
俺はその手を握り返した。
「ただし、一つだけ言っておく」
「なんだ」
「最終的に一番上に立つのは——俺だ」
劉毅は一瞬きょとんとして、それから大笑いした。
「いいだろう!! その時は——正々堂々、決着をつけようではないか!!」
こうして——
俺は、建康での最初の味方を得た。
だが、この選択が、のちに新たな戦いを生むことになるとは、この時の俺にはまだ知る由もなかった。
——京口の狂犬が、いま朝廷を噛み破る。




