第七話「桓玄の首」
夕闇が戦場を包み始めた頃、俺たち二千の兵は、三万の桓玄軍に正面から突撃をかけていた。
常識ではありえない。兵法の基本は「倍すれば戦い、十倍すれば包囲せよ」だ。こちらは相手の十分の一にも満たない。本来なら、戦うことすら愚かと笑われる。
だが。
「左翼、崩れました!! 敵の騎馬が側面に!!」
「構うな、前だけ見ろ!! 俺たちの狙いはただ一つだ!!」
俺は叫びながら、目の前の敵兵を斬り伏せた。鎧ごと断ち割る感触が腕に響く。血煙が視界を染めるが、構わずに馬を前に進める。
桓玄の本陣は、まだ遠い。三千の近衛兵が守る鉄壁の陣。通常ならば、辿り着くことすら不可能だ。
だが——不可能を可能にするのが、狂犬の生き方だ。
「檀!! 右はどうなってる!?」
「なんとか食い止めてる!! だが長くはもたねえぞ!!」
「それでいい!! 俺が戻るまで持ちこたえろ!!」
檀道済は、すでに全身に返り血を浴び、満身創痍だった。それでも、彼は笑っている。
「へっ、任せとけ!! 俺はお前が大将で良かったと思ってるぜ!!」
「……死ぬなよ」
「お前こそな!!」
俺は馬腹を蹴り、さらに前へ。劉穆之が率いる弓兵が背後から援護射撃を放つ。敵の矢が雨のように降り注ぐが、死線の予見がその軌道を教えてくれる。
右に、左に、時に馬を飛ばせて矢をかわしながら、俺はただひたすらに桓玄の首だけを目指した。
百騎がついてきていたはずの手勢は、気がつけば十数騎に減っていた。それでも誰も退かない。退くという選択肢を、俺は最初から与えていなかった。
「桓玄はどこだ!!」
「あの丘の上です!! 旗が見える!!」
「よし……行くぞ!!」
丘の麓には、最後の関門が待ち受けていた。桓玄直属の近衛兵——精鋭中の精鋭が三百、隊列を組んで俺たちを待ち構えている。
「よくぞここまで来たな、下賤の犬が」
指揮官らしき大男が、嘲るような声を上げた。
「だが、ここまでだ。桓玄様に指一本触れさせはせ——」
最後まで言わせなかった。
俺は馬を飛ばし、一気に間合いを詰めると、馬上から飛びかかるように斬りかかった。
——破城の剛力。
スキルが発動する。全身の力が一点に集中し、骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。その代償として——俺の一刀は、まるで紙のように敵の鎧と盾を両断した。
「な、なに——ぎゃあっ!!」
一撃で指揮官を斬り伏せると、そのままの勢いで敵陣に突っ込む。
右から槍、左から剣、正面から弩——全てを予見し、全てをかわし、全てを斬り捨てる。
五感が鋭敏になり、時間の流れが遅くなる。
自分が自分でなくなるような感覚。
かつて、あの初陣で味わった「何か」が、また体の奥から溢れ出してくる。
——戦場の悪鬼。
その名の通り、俺はもはや人間ですらなかった。
ただ敵を屠るだけの、純粋な暴力と化していた。
十分後。
気がつけば、周囲に立っている者はいなかった。
三百の近衛兵は、すべて地に伏している。
俺も無傷ではなかった。左肩には矢が刺さり、右脇腹からは血が流れている。左脚は感覚がなく、立っているのがやっとの状態だった。
それでも——俺は歩く。一歩、また一歩と、丘の頂上へ。
振り返ると、生き残ったわずかな手勢が、遠くで戦い続けているのが見えた。
檀の雄叫びが聞こえる。劉穆之の号令が響く。
みんな、まだ戦っている。
——なら、俺もまだ戦える。
頂上に着いた時、そこには桓玄がいた。
青白い顔をさらに蒼白にして、彼は震えていた。
「ひ、ひぃ……ば、化け物め……」
「化け物で結構」
俺はずるりと刀を引きずりながら近づく。
「三百を、たった一人で……お、お前は人間なのか……?」
「さあな。自分でもわからん」
桓玄は後退り、あがきのように佩刀を抜いた。だが、その手は震え、まともに構えることすらできていない。
「わ、私を殺せばどうなるか、わかっているのか!! 私は桓氏の嫡男!! 朝廷の最高権力者だぞ!!」
「知ったことか」
俺は刀を持ち上げた。
「お前は、俺の仲間を犬死にさせようとした。俺の妹や母から、最後の希望まで奪おうとした。その罪は——」
「ま、待て!! 金ならいくらでも出す!! 領地もやる!! お前さえ見逃せば、好きなだけ——」
「——万死に値する」
ザシュッ——
軽い音だった。
桓玄の首が、するりと胴体から離れ、地面に転がる。
その目は、最期まで驚愕に見開かれていた。
俺は桓玄の首を掴み、高く掲げた。
「桓玄——討ち取ったりぃぃぃ!!!!」
その声は、戦場の隅々まで響き渡った。
一瞬の静寂。
そして——地鳴りのような歓声が、戦場を包んだ。
「桓玄が死んだ!!」
「劉裕が討ち取ったぞ!!」
「勝った……俺たちの勝ちだ!!」
三万の桓玄軍は、総大将の死によって完全に崩壊した。武器を捨てて逃げ出す者、投降する者——もはや戦闘は終わっていた。
俺は、ゆっくりと空を見上げた。淮水の空は、いつの間にか晴れ渡り、満天の星が輝いている。
「大将——!!」
遠くから、檀が走ってくるのが見えた。
全身ボロボロだが、ちゃんと生きている。
「やりやがったな……!! 本当に一人でやりやがった!!」
「お前こそ、よく生きてたな」
「ははっ、死ぬわけねえだろ!! 俺はお前の右腕だぜ!!」
檀は涙をぬぐいもせず、俺の肩を抱いた。
それから、劉穆之も馬で駆けつけ、俺の姿を見て深いため息をついた。
「……信じがたい。歴史書に残る戦勝だ。たった二千で三万を破り、敵の総大将の首を取るとは」
「俺一人の力じゃない。お前たちがいたからだ」
「殊勝なことを言うじゃないか」
「たまにはな」
俺は笑った。体中が悲鳴を上げていたが、不思議と心は軽かった。
これで——また、一歩。
「穆之」
「なんだ」
「これで、俺はどれくらい上に行けた?」
「そうだな……」
劉穆之は少し考えてから、静かに言った。
「朝廷の最大派閥を潰した。これで君は、単なる一兵卒ではなくなった。名実ともに——天下人の一人だ」
「天下人、か」
その言葉は、まだ遠く感じた。
だが、確かにこの日——俺はかつてない高みへと足をかけたのだ。
檀が言った。
「で、これからどうするよ」
「決まってる。建康に戻る」
「戻って、どうするんだ?」
「決まってるだろ」
俺は桓玄の首を馬にくくりつけながら、にやりと笑った。
「——朝廷を、ひっくり返す」
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こうして、淮水の戦いは終わった。
桓玄を失った朝廷は大混乱に陥り、もはや俺を止められる者はいなかった。
だが——本当の戦いは、これからだった。
戦場での戦いより、もっと複雑で、もっと狡猾な戦いが。
政治という名の戦場が、俺を待っていた。
「檀、穆之。ちょっと聞きたいことがある」
「なんだよ改まって」
「政治って、どうやるんだ?」
二人は顔を見合わせ、それから同時に吹き出した。
「大将、お前なあ……」
「今まで何も考えずにここまで来たのか」
「しょうがねえだろ。専門外だ」
笑い声が、静かな戦場に響く。
淮水の水面が、星明かりを静かに映していた。
——京口の狂犬が、いま天を噛む。




