第六話「決戦の朝」
決戦の朝は、重い霧に包まれていた。
淮水の水面から立ち昇る白い靄が、両軍の陣地を覆い隠している。視界はわずか数十歩。これでは大軍の機動などままならない。
「天が味方したな」
劉穆之が低くつぶやいた。
「霧なら、数による包囲はできない。むしろ少数の我々に有利だ」
「だが、桓玄の援軍も動けねえんじゃねえか?」
檀の問いに、劉穆之は首を振る。
「桓玄は最初から本気で戦うつもりはない。盧循と我々が共倒れするのを待っている。霧が晴れるまでは動かんさ」
「つまり、霧が晴れる前に決着をつけろってことだな」
「そういうことだ」
俺は刀の刃を指でなぞりながら、目の前の白い壁を見つめていた。
盧循の本陣は、淮水を背にした丘の上にある。数はおよそ一万。対する俺たちは、捕虜を吸収して膨らんだとはいえ、まだ千に届かない。
それでも——
「十分だ」
俺は立ち上がった。
「作戦を言う。俺と檀で少数の精鋭を率い、霧に紛れて敵本陣に一直線に突っ込む。穆之は残りの兵で、敵の注意を側面に引きつけろ」
「また正面突破かよ!」
「俺の十八番だ。文句あるか」
「……ねえよ。どうせ言っても聞かねえしな」
檀は呆れながらも、すでに槍を手にしている。
劉穆之は無言でうなずき、采配を取るために馬を寄せた。
「劉裕」
「なんだ」
「無理はするな。お前が倒れれば、全てが終わる」
「わかってる」
俺は不敵に笑って、霧の中へと歩き出した。
——無理をするな、か。
そんな言葉、俺の人生には必要ない。
---
霧の中を進む。
俺の後ろには、檀を含めてわずか五十騎。全員が口に含んだ布で馬の蹄音を抑え、息を潜めて敵陣へと近づく。
視界が悪いのはむしろ好都合だった。敵の哨戒線を、まるで影のようにすり抜けていく。
二百歩。百歩。五十歩——
「誰だ!!」
敵の見張りが声を上げた瞬間、俺はすでに馬を駆けさせていた。
「かかれぇ!!」
五十騎が一気に霧の中から飛び出し、敵本陣のただ中へと雪崩れ込む。
「敵襲!! 敵襲ぃ!!」
「どこから!? 数は!?」
「わからん!! 霧で見えん!!」
混乱が伝播していく。敵は霧の中で互いに同士討ちを始め、統制も何もあったものではない。
「檀!! 右翼を頼む!!」
「任せろ!!」
俺は馬を飛ばし、敵の指揮官らしき男を一刀で斬り伏せると、そのまま本陣の心臓部へと突き進んだ。
十人、二十人——数えるのも馬鹿らしくなるほどの敵を斬り捨てる。
返り血で全身が濡れ、自分の血なのか敵の血なのかもわからない。
——頭の中で、ひっきりなしに未来が見える。
死線の予見が、次々と迫る刃を教えてくれる。
かわし、打ち払い、斬り返す。
まるで周囲の時間だけが遅くなっているかのような感覚。
「おおおおおおおおっっ!!」
気がつけば、俺は笑っていた。
戦場で笑う自分を、誰かが「狂人」と呼んだことを思い出す。
——そうだ、俺は狂っている。
——狂っていなければ、こんな戦いはできない。
---
「大将!! いたぞ!! 盧循だ!!」
檀の声で我に返る。
前方の高台に、盧循の姿があった。
白い馬に跨り、周囲を近衛兵で固めている。
彼もまた、俺を見つけていた。
その顔には、不思議と笑みが浮かんでいる。
「劉裕!!」
盧循が叫ぶ。
「やはり来たか!! 君はいつも、私の予想の斜め上を行く!!」
「うるせぇ!! 降伏しろ!! お前の負けだ!!」
「まだだ!!」
盧循が手を挙げると、左右の霧の中から新たな部隊が現れた。
伏兵だ。数は五百ほど。最初からこの瞬間のために温存していたのか。
「退路を断った!! これで君は袋の鼠だ!!」
「ちっ……!!」
さすがに頭が回る男だ。
だが——
「退路なんざ、元からねえよ」
俺は刀を握り直した。
「俺はいつだって、前だけを見てきた。退路なんて、最初からいらねえんだ!!」
その時——
ドドドドドドドドッ!!
大地を震わせるような轟音が、戦場の空気を切り裂いた。
——何だ?
「大将!! あれを見ろ!!」
檀が指さす方角——
東の空が、赤く染まっていた。
いや、違う。燃えている。
盧循の補給基地——先日、俺たちが制圧したはずの場所から、巨大な火柱が上がっている。
「な、何が起きている……!?」
盧循の顔から、初めて笑みが消えた。
「桓玄だ」
俺はつぶやいた。
「桓玄が動いた。だが——俺たちの援軍のためじゃない。盧循の補給線を断ち、漁夫の利を狙っているんだ」
「そんな……桓玄め、私を裏切ったか……!」
盧循は歯噛みした。
どうやら盧循と桓玄の間には、密約があったらしい。
だが桓玄は、最初から盧循を切り捨てるつもりだったのだ。俺たちと盧循が戦っている間に、戦場全体を包囲し、両方まとめて殲滅する——そういう計算だろう。
「これで潮目が変わった。盧循、お前の軍はもう戦えない。兵を引き、投降しろ。お前の配下は、俺が責任を持って扱う」
俺は刀を構えたまま言った。
「お前の理想はわかる。腐った国を正したいというのも本気だろう。だが——やり方を間違えたな」
盧循は、しばし黙っていた。
やがて、ゆっくりと剣を抜き、馬から降りた。
「……降伏はしない」
「盧循」
「これでも私も、范陽盧氏の人間でね。君に賛同したい気持ちは山々だが——」
彼は笑った。清々しい笑みだった。
「理想を抱いて死ぬのも、悪くない」
そして、自ら剣を喉元に突き立てた。
「——っ!!」
俺は思わず走り出していた。
だが、間に合わない。
盧循の身体が、ゆっくりと地面に倒れる。
白い衣が、みるみる赤く染まっていく。
駆け寄った俺の腕の中で、盧循は最後にこう言った。
「劉裕……君は、どこまで……行く……」
「……上までだ。この国で、一番上まで」
「そうか……見て……みたかったな……」
彼の目から、光が消えた。
---
その日の夕刻、俺たちは桓玄の大軍に包囲されていた。
数は三万。対してこちらは、盧循軍の降伏兵を合わせても二千に満たない。
しかも、桓玄は俺たちを「盧循と内通していた反逆者」として討伐する構えだった。
「なるほど、最初からこれが狙いか」
劉穆之が苦々しげに言った。
「盧循を滅ぼした上で、我々もまとめて消す。これで桓玄は反乱鎮圧の英雄となり、邪魔者を同時に処分できる」
「どこまでも汚ねえ野郎だな」
俺は遠くに見える桓玄の本陣を睨んだ。あの丘の上に、あの青白い貴族面がいる。
「穆之」
「なんだ」
「包囲を突破する方法はあるか」
「……可能性は、ゼロではない。桓玄の包囲はまだ完全ではない。東側の山道が手薄だ。夜陰に紛れ——」
「いや」
「いや?」
「突破するんじゃない」
俺は刀を取った。
「あいつを——桓玄を殺る」
「は?」
「正気か!? さすがに今回は無理だ!!」
檀が叫ぶ。
劉穆之も、さすがに目を丸くしている。
「聞け、劉裕。確かに桓玄は憎い。だが今は退くべきだ。命さえあれば、いくらでもやり直せる」
「その命を、俺たちは何度も失いかけた。そのたびに這い上がってきた。なあ、穆之」
俺は劉穆之の目をまっすぐに見た。
「俺たちはいつまで這い上がればいいんだ? いつか上に行けば、もう理不尽は終わるのか? いつか——」
声が、自分でも驚くほど静かだった。
「いつか、妹にちゃんと飯を食わせられる日が来るのか」
劉穆之は、何も言えなかった。
「だったら——その『いつか』を、今日にしよう。今日、あいつを殺す。俺たちが一番上になるんだ」
しばしの沈黙の後。
劉穆之は、ふっと笑った。
「君は、本当に——私の想像を超えてくる」
「ほめ言葉か?」
「最大級のな」
劉穆之は木簡を放り出し、佩刀を手に取った。
「よかろう。この劉穆之、文官ながら一太刀浴びせてみせる」
「お前、刀使えたのかよ!?」
「見てのお楽しみだ」
檀も大笑いしながら槍を肩に担いだ。
「ああもう、ここまで来たらヤケクソだ!! どうせ死ぬなら、天下の桓玄を道連れにしてやろうぜ!!」
「そうこなくっちゃな」
俺は二人を見渡し、それから振り返って兵たちに叫んだ。
「聞け!! これより俺は桓玄を殺しに行く!! 奴の首を取れば、この戦は終わる!! 俺たちが勝つんだ!! ついて来い!!」
しん、と静まり返る戦場。
誰かが、小さく笑った。
「狂ってる」
「ああ、狂ってるよ」
「でも——それで勝てるなら、俺はその狂気に賭けるぜ」
一人、また一人と、兵たちが武器を掲げる。
二千の兵が、三万に立ち向かう。
普通なら、狂気の沙汰だ。
だが——
「俺たちは京口の狂犬団だ!! 吠えろ!! 噛みつけ!! 死ぬ時は前のめりに死ね!!」
「「「うおおおおおおおおおお!!!!」」」
地響きのような雄叫びが、淮水の空気を揺るがした。
---
丘の上。
桓玄は、眼下に広がる光景に眉をひそめていた。
「……何だ、あの喚声は。死にゆく虫けらどもが」
その顔には、まだ余裕があった。
それが間違いであることを、彼はまもなく思い知る。
——狂犬の牙は、すぐそこまで迫っていた。




