第五話「淮水の策戦」
盧循の大軍を前に、さすがの俺も「正面から突っ込む」だけでは勝てないことくらいわかっていた。
数万対三百。
さっきは勢いで言ったが、こればかりは狂気では覆せない壁がある。
「穆之、お前の知恵を貸せ」
「ようやく私の出番か」
劉穆之は皮肉めいた笑みを浮かべ、地面に棒切れで図を描き始めた。
「盧循の強みは三つ。第一に数。第二に船。第三に『正統性』だ」
「正統性?」
「彼は范陽盧氏という名門の出だ。ただの反乱軍なら民はついてこないが、貴族が『腐敗した朝廷を正す』と旗を掲げれば、話は別だ。知識人も、地方の豪族も、彼の側につく」
なるほど、と俺は唸った。
力だけでなく、大義名分まで持っているのか。
「だが、弱点もある」
「なんだ」
「船だ」
劉穆之は淮水の流れを指さした。
「盧循は水軍を主力としている。孫恩から受け継いだ船団は確かに強力だが——それを維持するには莫大な物資がいる。特に、船を停泊させるための『良港』と『補給拠点』がな」
「つまり、補給線を断てば弱るのか」
「そうだ。ただし——」
「ただし?」
「我々の兵力は三百。正面からの補給線攻撃など、簡単に包囲されて終わりだ」
「じゃあ、どうするんだよ」
檀が口を挟んだ。
劉穆之は一呼吸置いてから、短く言った。
「火だ」
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その夜、俺と檀は精鋭十名だけを連れ、淮水の支流を密かに下っていた。
「大将、まさか俺たちだけで船団に火をつけに行くのかよ」
「まさか。それは囮だ」
「囮?」
「俺たちが派手に騒ぎを起こす。その隙に、穆之が別働隊で本命を叩く」
劉穆之の作戦はこうだった。
盧循の補給拠点は三つある。いずれも淮水沿いの小城塞で、互いに連携して守りを固めている。
一つを攻めれば、残り二つから援軍が来る。正面から三つ全てを落とす兵力はない。
だが——援軍が「出払った後」ならどうか。
「まず俺たちが一番南の拠点を夜襲する。敵は援軍を送るために他の拠点から兵を動かす。そこを——」
「穆之たちが空っぽになった拠点を落とすってわけだ」
「そういうことだ」
月のない夜。淮水の水面は闇に溶け、小舟の漕ぐ音だけが静かに響く。
俺たちは闇に紛れて、最初の標的——南の補給拠点へと近づいていった。
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城塞の守備兵は二百ほど。
対して、俺たちは十一名。
だが、夜襲において数は関係ない。混乱させれば、こちらの勝ちだ。
「檀、手筈通りにな」
「あいよ」
俺は単身、城壁をよじ登った。見張りの兵が二人、松明を掲げて巡回している。
一人目——背後から近づき、口を塞いで首を絞める。静かに沈む。
二人目——振り返った瞬間に、刀の峰で後頭部を打つ。崩れ落ちる。
門の内側から閂を外し、仲間を招き入れる。
ここまでは完璧だった。
「よし、火をつけろ」
乾燥した藁と油壺を倉庫に投げ込み、火を放つ。
一瞬で燃え上がる炎。
「火事だ!!」
「敵襲——!!」
城内が騒然となる中、俺はあえて大声で叫んだ。
「南の拠点を制圧したぞ!! このまま北へ向かえ!!」
もちろんハッタリだ。だが、混乱した敵には真実かどうか判断できない。
「て、敵は北へ向かうだと!? 急いで北の拠点に伝令を!!」
よし、騙された。
伝令は北へ走る。北の拠点は援軍を出すために手薄になる。
「大将、そろそろまずい!! 敵が集まってきてる!!」
「わかってる。ずらかるぞ!!」
俺たちは城壁を飛び降り、待機させていた小舟へと走った。
背後から矢が降り注ぐが、闇に紛れて狙いは定まらない。
「全員いるな!?」
「ああ、なんとかな!!」
小舟が岸を離れ、流れに乗って下る。
振り返ると、燃え盛る城塞が夜空を赤く染めていた。
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翌朝、合流地点で待っていた劉穆之は、満足げな表情で俺たちを迎えた。
「作戦は成功だ。北と東の拠点を無傷で制圧した。捕虜は五百、物資は船団ごと押さえた」
「こっちの囮は上々だったってわけか」
「ああ。見事な狂犬ぶりだったと聞いている」
俺は苦笑いしながら、草の上に腰を下ろした。
「だが、まだ盧循の本隊は無傷だ。これで戦力差は縮まったが、まだ数倍はある」
「それについては、次の策がある」
劉穆之は一通の書簡を取り出した。
「投降した兵の中に、盧循の側近の親族がいた。そいつを介して、盧循に停戦交渉を申し込む」
「停戦?」
「もちろん、本気ではない。時間稼ぎだ」
「時間を稼いで、どうする?」
「北の桓玄が動くのを待つ」
俺は眉をひそめた。
「桓玄? あいつが俺たちに加勢するわけが——」
「加勢させるんじゃない。利用するんだ」
劉穆之の目が、冷たく光った。
「桓玄は盧循の反乱を黙認していた。反乱軍の勢いが増せば、朝廷は桓玄に頼らざるを得ない。つまり、盧循の存在は桓玄にとって『政治的な餌』なのだ」
「つまり、俺たちが盧循を倒しちまったら、桓玄の目論見が外れるのか」
「そうだ。桓玄は、盧循が滅びる前に介入してくるだろう。自分の手柄にするためにな」
「で、その援軍と共闘するふりをして——」
「君が真っ先に敵将の首を取れば、手柄はこちらのものだ」
なんというか、劉穆之の頭の中はいつも何重にも策が巡らされている。
俺には到底真似できないが——信頼はできる。
「よし、その作戦に乗った」
「決まりだな」
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数日後、淮水のほとりで盧循との会見が実現した。
敵の大将は、噂に違わぬ貴公子だった。白い衣に身を包み、物腰は柔らかく、どこか詩人のような風情がある。
「そなたが劉裕か。たった三百で私の補給拠点を落としたというのは、冗談かと思っていたが——どうやら本当らしい」
「お褒めにあずかりどうも」
俺はぶっきらぼうに答えた。
こういうインテリ貴族とは、どうも馬が合わない。
「して、停戦の条件は?」
「互いに兵を引き、一ヶ月の猶予を置く。その間に恒久的な和平を話し合おう」
「ふむ……時間稼ぎ、か?」
盧循は笑った。見抜いている。
「だが、乗ってやろう。私も時間が必要でね」
「何の時間だ?」
「決戦の準備さ。君とまともに戦うには、まだ準備が足りないのでね」
そう言って、盧循は杯を掲げた。
「劉裕、そなたは面白い。一兵卒から成り上がり、貴族を殴り倒す。その姿は、まさに私が求めている『新しい秩序』そのものだ」
「買いかぶりだな」
「いや——だからこそ、いつか必ず決着をつけたい。君と私、どちらの描く未来が正しいのかを」
その目は、どこか悲しげでもあった。
この男は、本気で「腐った国を変えたい」と思っているのだろう。
ただ——その方法が、俺とは違う。
「あんたは頭が良すぎるんだよ」
俺は立ち上がりながら言った。
「頭でっかちは、いつか足をすくわれる。それが戦場だ」
「ならば、その時は君が私の首を取るといい」
「ああ、遠慮なくな」
奇妙な友情のようなものが、一瞬だけ流れた気がした。
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会見を終え、陣に戻る道すがら、檀が言った。
「大将、あの盧循って男、なかなかいい奴じゃねえか」
「ああ。だから困るんだ」
「困る?」
「敵なら憎ければ憎いほど戦いやすい。だが——」
俺は淮水の流れを見つめながら、ぽつりと言った。
「ああいう男を斬らなきゃならない時が、一番嫌だ」
水の音だけが、しばらく二人の間に流れていた。
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その夜、陣に急報が届いた。
「桓玄軍、出陣。数は三万。このまま南下し、盧循の背後を突く構え」
劉穆之の読み通りだった。
桓玄が動いた。自分の手柄にするために。
俺は刀を取り、立ち上がる。
「明日、決戦だ」
「ああ」
「盧循の首は——俺が取る。誰にも渡すな」
「わかってるよ、大将」
窓の外では、淮水が静かに月明かりを映していた。
——戦場は、いつも静かな夜から始まる。




