第四話「北の大地へ」
牢から出た翌朝、俺はわずかな手勢と共に北へ向かっていた。
与えられた兵は三百。しかも、ほとんどが新兵か、よそから回された問題児ばかり。まともな装備もない。どう見ても「手柄を立てさせる」ための編成ではなかった。
「はっきり言って、捨て駒だな」
馬を並べて進む檀道済が、ぼそりとつぶやいた。あの戦いの後、傷が癒える間もなく俺に志願してついてきたのだ。
「だろうな。桓玄の差し金か」
「あの野郎、戦場で殺すつもりじゃなく、自分から死にに行かせようってわけか」
「上等だ」
俺は手綱を握り直した。
死地に追いやられるのは慣れている。むしろ、そこで生き延びて、大きくなって帰る。それが俺のやり方だ。
京口を発つ前、一度だけ家に寄った。
母は寝たきりのままだったが、俺の顔を見ると少しだけ微笑んだ。興弟は俺の袖を握りしめたまま離さず、何度も「帰ってきて」と繰り返した。
「大丈夫だ。今度はちゃんと、土産を持って帰る」
そう言って俺は家を出た。振り返らなかった。振り返ったら、行けなくなる気がした。
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北へ向かう道中、俺は劉穆之から渡された木簡を読み込んでいた。
目的地は淮水の北岸。孫恩の乱の残党が、今度は盧循という男を頭目に立て、再び蜂起したという。
「盧循……どんな男だ?」
「名門・范陽盧氏の出だ。教養もあり、兵にも人気がある。単なる反乱軍の首領としては出来すぎている」
劉穆之は馬を寄せながら続けた。
「孫恩の乱が宗教で民を動かしたのに対し、盧循は『理』で動かす。貴族でありながら庶民の不満を代弁し、腐敗した朝廷を打倒せよと説いている」
「そいつは厄介だな。ただの暴徒よりよっぽど手強い」
「ああ。しかも今は、孫恩の残した財と船を全て掌握している。下手をすれば、このまま江南(長江以南)の商業圏を押さえられかねん」
戦う前から気が重くなる話だった。
だが——
「おい、前を見ろ」
檀が突然、声を低くした。
前方の丘の上に、黒い影がいくつも立ち並んでいた。
騎馬だ。数はざっと見て五十騎ほど。武装している。
「盗賊か?」
「いや……あの旗は……」
旗印は見覚えのないものだった。だが、その下にいる男たちの装備は明らかにただの盗賊ではない。統一された鎧、規律のある隊列。これは——
「桓玄の私兵だ」
劉穆之が冷たく言い放った。
「随分と早いお迎えだな」
「君を北へやる前に、ここで片をつけるつもりらしい」
俺はゆっくりと馬から降り、刀の柄に手をかけた。
「三百対五十。数ではこっちが上だ」
「だが相手は精鋭だ。うちの寄せ集めとは練度が違う」
「関係ない」
俺はニヤリと笑った。
「檀、お前は左から回り込め。穆之は弓兵をまとめて丘の上を押さえろ。俺は——」
刀を抜き放ち、正面に向かって歩き出す。
「——正面から行く」
「は!? 大将、正気かよ!?」
「俺が前で暴れて注意を引く。その隙にお前らが側面を突け。簡単だろ」
「その前に死んだらどうすんだよ」
「その時は、まあ、代わりに檀が指揮を執れ」
「……ったく、お前ってやつは」
檀は呆れながらも、すでに槍を手に取っていた。
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丘の上で、敵の指揮官らしき男が声を張り上げた。
「我らは桓玄様の命により、反逆者・劉裕を討つ!! 首を差し出せば、他の者は見逃してや——」
最後まで言わせなかった。
俺は全力で駆け出していた。五十メートルの距離を、まるで矢のように詰める。
——頭の中で、また何かが弾ける。
死線の予見が、敵の動きを先読みする。
最初の一騎が槍を繰り出す。俺は地面を蹴って跳躍し、馬の横腹を蹴りつけて騎手ごと転倒させた。
二騎目が背後から斬りかかる。予見済みだ。身をひねってかわし、逆に刀を振り上げて相手の手首を切り落とす。
「こ、こいつ……!」
敵が動揺した隙に、俺は三騎目の馬の脚を斬り払い、落ちてきた騎手を鞘で殴り飛ばした。
——わずか一分足らずで、五騎を無力化。
「な、なんなんだこいつは……!!」
「化け物か……!?」
敵の指揮官が叫ぶ。
「落ち着け!! 相手は一人だ!! 囲んで仕留め——」
その瞬間、左右から悲鳴が上がった。
「左側に敵!!」
「右からもだ!! くそ、挟まれ——ぎゃあっ!!」
檀の率いる歩兵が左から、劉穆之の弓兵が右から、敵の側面を完璧に突いていた。
「おおおおらぁ!!」
檀が豪快に槍を振るい、敵を次々と突き倒す。弓兵の矢が正確に敵の騎馬を射抜き、混乱に拍車をかける。
そして俺は、その混乱の中心で、敵の指揮官を見据えていた。
「お前が——」
馬から降りて刀を構える指揮官に、俺はゆっくりと歩み寄る。
「桓玄の犬か」
「う、うるさい!! 貴様のような下賤の者が——」
バキィ。
刀と刀が交錯し、火花が散った。
一合。指揮官の刀は真っ二つに折れ、俺の刃がその首筋にぴたりと当てられていた。
「ひ、ひぃっ……」
「命までは取らねえよ。持って帰る伝言がある」
俺は刀を鞘に収めながら言った。
「桓玄に伝えろ。『次はてめぇの首を取りに行く。首を洗って待っていろ』——とな」
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戦闘は、一方的な勝利に終わった。
敵は半数以上が戦死または捕虜となり、残りは散り散りに逃げ去った。こちらは軽傷者が数名出ただけで、死者はゼロ。
「大将、やっぱお前おかしいよ」
檀が戦場を片付けながら苦笑いした。
「一人で十人以上倒すとか、普通じゃねえ」
「昔から喧嘩だけは得意でな」
「喧嘩の域を超えてるんだよ……」
劉穆之は無言で、死体の中から桓玄の私兵である証拠の旗と印章を回収していた。
「これは使えるな」
「何に?」
「桓玄が公の命令とは別に、私兵で君を殺そうとした証拠だ。いずれ、奴を追い詰める時に役立つ」
「お前は本当に抜け目がないな」
「君こそ、私の想像をはるかに超える。たった三百の寄せ集めで、よくここまでやれるものだ」
劉穆之は木簡に何かを書きつけながら、ふと顔を上げた。
「劉裕、一つ聞きたい」
「なんだ」
「君は、どこまで行くつもりだ」
俺は少し考えてから答えた。
「わからん。だが——」
北の空を、一羽の鷹が横切っていく。
俺はそれを見上げながら言った。
「せっかく生き延びたんだ。どうせなら、上まで行ってみたいとは思う」
「上まで?」
「この国で一番、上までだ」
劉穆之はしばし黙り、それから小さく笑った。
「それはつまり、皇帝——か」
「さあな」
俺は肩をすくめて、馬にまたがった。
「とりあえずは、目の前の敵をぶっ倒す。順番に、な」
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数日後、俺たちは淮水の北岸に到着した。
そこで目にしたのは、予想をはるかに超える光景だった。
「こいつは……とんだ大軍だな」
遠くに見える盧循の軍勢。その数、ざっと数万はいる。
対して、俺の手勢は三百。
いつも通り、絶望的な戦力差だった。
だが——
「大将、どうするよ」
「決まってる」
俺はニヤリと笑った。
「正面から行く」
「だと思ったぜ……」
檀が深いため息をつく。
劉穆之は無表情で木簡に「作戦:正面突破」と書きつけた。
こうして、常識外れの戦いが、再び幕を開けようとしていた。
——北の大地で、狂犬が吠える。




