第三話「却月陣(きゃくげつじん)」
俺が指示したのは、一見すると自殺行為だった。
川を背にし、後ろには退路なし。
左右に荷車と馬防柵を並べ、その間に弩兵を配置。
最前列には長槍を持った歩兵——その先頭に、俺自身が立つ。
陣形は文字通り「三日月型」。川の流れに沿って弓なりに湾曲し、中央をわずかに凹ませることで、突入してきた敵を包み込む形になる。
「こんな陣、聞いたことがない……」
「当たり前だ。俺がさっき考えた」
実はこれは、俺の勘と経験——そして何より、あの日から時折頭に浮かぶようになった「奇妙な閃き」がもたらした陣だった。
——頭の中で、未来の戦場が一瞬だけ見える。
それが何なのかはわからない。だが、これまでにない戦い方が、直感として降りてくる。
「来るぞ……!」
敵の騎馬隊が、土煙を上げて突進を開始した。
数は優に二千を超える。対してこちらは歩兵三百、弩兵五十。
通常なら、蹂躙されて終わりだ。
しかし——
「弩、構え……放て!!」
ドドドドドッ!!
百五十メートルの距離で、一斉射。
太い矢が空を切り裂き、先頭の騎馬をまとめて地面に縫い付ける。騎馬の勢いが一瞬止まった。
「第二射!!」
さらに数十騎が倒れる。だが、止まらない敵の勢いはさすがだ。数で押し切るつもりか。
七十メートル。
「第三射——放て!!」
今度は近距離からの水平射撃。馬の脚を狙い、騎馬ごと転倒させる。
敵の隊列が乱れ、騎馬同士が衝突し始めた。
そして——
「槍衾、構え!!」
最前列の歩兵が一斉に長槍を構える。
その穂先は、まるでハリネズミのように外を向き、陣全体が一つの巨大な武器と化した。
——これが却月陣の真骨頂だ。
正面に見えるのはただの歩兵の壁ではない。
凹んだ中央に突入すれば、左右からも槍が迫る。退こうにも後続が押し寄せ、身動きが取れなくなる。
「突っ込めぇ!! 所詮は歩兵だ!!」
敵の指揮官が叫ぶが、すでに遅い。
陣の「窪み」に入り込んだ騎馬隊は、三方から槍で串刺しにされ、為す術もなく倒されていった。
そして——
「檀!!」
「あいよ!!」
俺と檀道済は、陣の中央から飛び出し、敵の大将を狙って一直線に駆けた。
——瞬間、頭の中に閃光。
死線の予見。
敵将が振り下ろす剣の軌道が、手に取るようにわかる。
俺は最小の動きでそれをかわし、懐に飛び込むと、渾身の一撃を叩き込んだ。
ガギイイイィン!!
敵将が吹き飛び、地面に叩きつけられる。
俺はそいつの首を掴んで掲げ、腹の底から叫んだ。
「敵将、討ち取ったりぃ!!!」
どっと沸き上がる味方の歓声。
崩れ始める敵軍。
戦いは、わずか半日で決着した。
---
戦場には、数えきれない死体が転がっていた。
死者数千。敗走する敵の軍勢。
立っている味方は、わずか五十人余り。
沈む夕日の中、俺は返り血を拭いながら、空を見上げていた。
「大将、勝ったぜ」
檀道済が、肩で息をしながら歩み寄ってくる。
「ああ」
「しかし、あの陣はすげぇな。本当に即興で考えたのかよ」
「まあな」
本当のことは言えなかった。あの「未来視」めいた力のことは、誰にも話していない。
「ところで、大将」
檀が、不意に真面目な顔になった。
「あの桓玄って将軍、ぶん殴っちまったけど、大丈夫なのかよ」
「……さあな」
俺は肩をすくめた。
大将を殴り、指揮権を奪い、無断で戦術を変えた。
軍律で言えば、これはもう——斬首刑ものだ。
だが、不思議と怖くはなかった。
むしろ、清々しい気持ちさえある。
「どうなっても、後悔はねぇよ」
俺は言った。本心だった。
あの場で動かなければ、全員死んでいた。それだけは間違いない。
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陣営に戻ると、俺を待っていたのは、やはり捕縛の命令だった。
「劉裕、貴様を反逆罪で拘束する!!」
数十人の兵に囲まれ、俺は大人しく縄を受けた。檀が何か言おうとしたが、首を振って制する。
牢に入れられて数日。
処刑は明日に決まったらしい。
独房の中、俺は壁にもたれて目を閉じていた。
母と妹の顔が浮かぶ。
——ごめんな、興弟。兄ちゃん、ここまでみたいだ。
その時だった。
「……やはり来てみるものだな」
牢の外から、聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、そこには劉穆之が立っている。
「処刑前の最後の面会かよ」
「そんなところだ」
劉穆之は鉄格子越しに、一通の木簡を差し出した。
「ただし、これは処刑令ではない。密命書だ」
「……密命?」
「桓玄は確かにお前を殺したいだろう。だがな、今の朝廷にはお前の力が必要なのも事実だ。特に北の国境線は常に異民族の脅威に晒されている」
俺は木簡を開いた。そこには、北辺の反乱を鎮圧せよという命令と、奇妙な一文が添えられていた。
『功成れば、罪を問わず』
「……つまり、手柄を立てれば助かるってことか」
「そういうことだ。ただし——」
劉穆之は声を潜めた。
「桓玄は本気でお前を殺しに来るだろう。戦場で、あるいは戦場の後に。奴は君を恐れている。本物の『力』を持つ者を、何よりも恐れているのだ」
「上等だ」
俺は木簡を握り締めて立ち上がった。
「敵が異民族だろうと、貴族だろうと、やってることは同じだ。上から目線で俺たちを踏みつけるだけの連中だろ」
「……フッ、君は本当に面白い男だ」
劉穆之は牢の鍵を開けながら、初めて心からの笑みを見せた。
「北へ行け、劉裕。そして、武勲を立てろ。かつて誰も成し得なかったほどの戦果を」
「言われなくても」
俺は牢を出ると、大きく伸びをした。
体中の血が、次の戦場を求めている。
「——待ってろ、興弟。兄ちゃん、今度こそでっかくなって帰るからな」
こうして、後の宋の武帝となる男の、本当の旅が始まった。
北の大地が、俺を待っている。
——最底辺の狂犬が、天下を喰らう日まで、あと少し。




