第十八話「宋公の選択」
宋公——諸侯の最高位。その地位についてから数ヶ月、俺は建康に腰を据えて政務に励んでいた。
北伐の戦後処理、荒廃した国土の復興、税制の改革、そして北魏への備え。やるべきことは山積みで、戦場にいた頃より忙しいくらいだ。
「お前、痩せたんじゃないか」
檀が顔を見るたびにそう言う。
「そうか? 自分ではわからん」
「目がギラギラしてるのは相変わらずだがな」
「それは褒めてるのか」
「もちろん褒めてるさ。大将らしくていい」
檀は相変わらずの調子で笑い、酒をあおった。かつては戦場で肩を並べていた男も、今は都の警備を任される将軍だ。立場は変わったが、こうして気兼ねなく飲めるのはありがたかった。
「なあ、大将」
「なんだ」
「噂ではよ、そろそろ『次の段階』に進むんじゃねえかって、もっぱらの評判だぜ」
「次の段階?」
檀は杯を置き、声をひそめた。
「——禅譲だよ。皇帝からの禅譲を受けて、大将が新しい王朝を開く。誰もがそう言ってる」
禅譲——皇帝がその位を、有徳の臣に譲ること。
遠い昔、堯が舜に、舜が禹に位を譲ったという故事に基づく、王朝交代の作法だ。魏の曹操も、晋の司馬炎も、この形で帝位についた。
「……まだだ」
「まだ?」
「確かに、晋の皇室はもはや形だけだ。実権は俺にある。だが——禅譲を受けるには、早すぎる」
俺は窓の外を見た。夜の都には無数の灯りがともり、かつてない活気に満ちている。
「民はようやく戦のない暮らしを取り戻しつつある。そんな時に、また王朝が変われば混乱が起きる」
「でもよ、大将。ここで禅譲を受けなきゃ、誰が次の皇帝になるんだ。またどっかの貴族が適当な司馬の一族を担ぎ出すだけだろ」
「それもわかっている。だから——いずれは受ける。だが、その前にやるべきことがある」
「何だ?」
「——北伐の完遂だ」
檀は目を丸くした。
「北伐は終わったんじゃねえのか。長安も洛陽も取り返した」
「まだだ。黄河の北には、北魏がいる。拓跋氏——鮮卑族の最強の国だ。あいつらがいる限り、中原は安泰じゃない」
檀はしばらく黙り込み、やがて大きなため息をついた。
「大将は、どこまで行くんだろうな」
「天下が、一つになるまでだ」
「天下統一かよ……。俺、その頃には腰が曲がってるかもな」
「その時は、孫に槍の握り方を教えろ」
「ははっ、そりゃいい」
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年が明け、俺はある決断をした。
「北伐を、再開する」
朝廷にそう宣言した時、貴族たちは一斉にざわめいた。
「正気か!? つい先日、長安から戻ったばかりだぞ」
「兵も疲弊している。これ以上の遠征は無謀だ」
「そもそも北伐に、これ以上どれだけの意味がある。中原はすでに取り戻したではないか」
反対論が続出する中、俺は静かに言った。
「——俺たちは、まだ半分も取り戻していない」
ざわめきが、ぴたりと止んだ。
「黄河の北には、北魏がいる。奴らの騎馬軍団は、いつか必ずこの南の地を踏もうとするだろう。それを防ぐには、待つのではなく、こちらから討つしかない」
「だが——」
「それに、俺には約束がある」
貴族たちは互いに顔を見合わせた。
「祖父が、曾祖父が、そして何十万もの民が——北に帰りたかった。帰れなかった。その無念を、俺が晴らす。それだけのことだ」
反対論は、それ以上出なかった。
あるいは——誰もが薄々気づいていたのかもしれない。
俺が「やる」と言ったら、誰にも止められないことを。
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北伐再開の準備は、急ピッチで進められた。
兵は三万。かつての北伐よりはるかに大規模だったが、相手もまた強大だ。北魏の皇帝・拓跋嗣は、父の拓跋珪から受け継いだ強力な騎馬軍団を擁し、北の草原に揺るぎない勢力を築いていた。
今回の目標は、黄河を渡り、北魏の前線基地である滑台を落とすこと。ここを奪えば、北への橋頭堡ができる。さらには河北全域への侵攻も可能になる。
出陣の前夜、俺は屋敷の庭で、一人月を眺めていた。
「——こんなところにいたのですか」
声の主は、王神愛だった。長安から一時的に建康へ戻っていたのだ。
「お前こそ、こんな夜更けにどうした」
「眠れなくて。あなたもですか」
「まあな。遠征の前は、いつもこうだ」
「緊張、ですか」
「いや——楽しみでな」
王神愛は、呆れたように笑った。
「あなたは本当に、戦が好きですね」
「好きなわけじゃない。ただ——やるべきことをやっているだけだ」
彼女は、そっと俺の手を取った。
「——今回は、私は同行できません」
「わかってる。長安を頼む」
「ええ。どうか——無事で」
「ああ」
月が、雲に隠れて、また顔を出す。その繰り返しを、二人で静かに見つめていた。
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翌朝、北伐軍は建康を出発した。
目指すは、黄河の北——まだ見ぬ河北の大地。
そしてその先には、北魏の首都・平城がある。
「大将、今回はさすがに長丁場になるぜ」
「ああ。年単位の戦いになるかもしれない」
「その頃には、俺もいい歳だな」
「まだ四十前だろ。若いもんだ」
「大将も同じくらいだろ」
「俺は——もう老いたさ」
檀が吹き出した。
「はっ! どの口が言うか。昨日だって新兵を百人まとめてぶっ飛ばしたくせに」
「あれは訓練だ」
「訓練であの強さは普通じゃねえんだよ……」
笑い声が、行軍の列に響く。兵たちの顔にも笑みが広がり、士気は上がっていった。
劉穆之は今回、建康に残って留守を預かることになっていた。朝廷の監視と、補給線の確保——どちらも欠かせない役目だ。
「君がいないと、私は退屈で仕方ない」
「それは初耳だ」
「嘘だ。静かでいい。たまには羽を伸ばせ」
「……君は、私を何だと思っているんだ」
「友だ」
劉穆之は、一瞬言葉に詰まり、それから静かに笑った。
「——ああ、そうだな」
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黄河を渡る時、俺はかつて淮水で見た光景を思い出していた。
あの時は三百の手勢で、数万の敵に立ち向かった。今は三万の大軍で、天下の覇権を決める戦いに臨もうとしている。
あの頃から、何が変わったのか。何も変わっていないのか。
「大将、考え事か」
「いや——ちょっとな」
「らしくねえ。まさか怖気づいたんじゃねえだろうな」
「そんなわけがあるか。むしろ——」
俺は黄河の流れを見下ろしながら言った。
「——もっと、先が見たいと思っている」
黄河の向こうに、新しい時代が待っている。
俺はそれを、この手で掴み取るのだ。
——宋公劉裕、最後の北伐へ。




