第十七話「南へ、再び」
長安を平定してから、俺はしばらく関中に留まっていた。
広大な領地を統治するのは、戦いとはまた違う難しさがある。
羌族の残党は散り散りになり、一部は山間部に逃げ込んでなお抵抗を続けていた。民は飢え、土地は荒れ、街道には盗賊が横行している。
戦争で破壊されたものを、今度は一から立て直さなければならない。
「お前、政治もできるんだな」
檀が半ば感心したように言った。
「できなきゃ、これまで生き残れなかった。京口で借金取りと駆け引きしてた頃を思い出すよ」
「ははっ、なるほどな。あの頃から大将は大将だったってわけだ」
「持ち上げるな」
だが——建康からは、不穏な報せが届き始めていた。
「劉裕が長安で自立するつもりだ」
「北伐の英雄は、自分が皇帝になる気だ」
誰が流したのか、そんな噂が都で広がっているという。
もちろん、事実無根だ。俺はまだ、晋の臣下として動いている。
だが、噂は噂を呼び、疑心暗鬼を生む。
「そろそろ潮時か」
劉穆之がつぶやいた。
「潮時?」
「長安での統治を誰かに任せ、建康に戻るべきだ。でなければ、君の留守中に貴族たちがまた余計な動きをする」
「それはわかっている。だが——誰に任せる」
劉穆之は少し考えてから、意外な名前を挙げた。
「王神愛だ」
「王神愛? 俺の妻を、長安に置いていくのか」
「彼女はすでに、長安の民政で驚くほどの手腕を見せている。それに——君の妻という立場は、単なる家族以上の意味を持つ。長安の民も、君が妻子を置いて去るとなれば、『見捨てられた』とは思うまい」
俺は複雑な気持ちで、王神愛と話をした。
「——というわけだ。お前に、長安を任せたい」
「わかりました」
彼女は即答した。
あまりにあっさりしていたので、逆に戸惑ってしまう。
「……嫌じゃないのか。こんな遠くに置き去りにされて」
「私はあなたの妻です。あなたの領地を守るのは、妻の務めでもあります」
「強いな、お前は」
「強くなければ、戦場になどついてきません」
王神愛は、少しだけ寂しそうに笑った。
「でも——たまには、帰ってきてください」
「ああ、約束する」
俺は彼女の手を握り、しっかりとうなずいた。
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北伐軍は二手に分かれた。
劉穆之は王神愛と共に長安に残り、関中の統治を固める。
檀と俺は、一万の兵を率いて建康へと戻る。
「せっかく長安まで来たのにな」
檀が馬上でぼやいた。
「もう少しゆっくりしたかったか」
「そりゃあな。せめて長安の酒くらい味わいたかった」
「帰ったら付き合ってやる。京口の安酒でよければな」
「覚えてろよ、大将」
建康への帰路——その途中、俺たちは思いがけない知らせを聞いた。
「劉裕様——朝廷で、政変があったとのことです」
早馬の使者は、青ざめた顔でそう報告した。
「なに?」
「安帝陛下が——崩御されました。そして、新たな皇帝として司馬徳文様が即位。——実権は、侍中・謝混が握っております」
謝混——
陳郡謝氏の嫡流で、かつての名宰相・謝安の孫。名門中の名門であり、朝廷内で隠然たる影響力を持っていた貴族だ。
表立って俺に敵対はしてこなかったが、それは機会がなかったからに過ぎない。
「俺たちが留守の間に、うまく立ち回ったな」
「どうする、大将」
「決まってる。建康に戻る。そして——」
俺は刀の柄に手をかけた。
「その謝混とやらに、今この国を動かしているのは誰か——思い知らせてやる」
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建康に戻った俺を待っていたのは、冷ややかな宮廷だった。
形式上は新帝に忠誠を誓う形で謁見したが、実質的に取り仕切っているのは謝混その人だった。
彼は、北伐の功績をねぎらう一方で、俺に与える報奨は驚くほど少なくした。
「劉裕殿には、引き続き地方の統治に尽力いただきたい。具体的には——荊州の刺史を任じる」
左遷だ。
荊州は重要な地域だが、都から遠い。つまり、中央から遠ざけようとしている。謝混もまた、俺を警戒しているのだ。
「……わかりました」
俺は表面上は穏やかに受け入れた。だが、心の中は静かに燃えていた。
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その夜、屋敷に集まったのは、俺と檀と——そして劉穆之だった。
彼は長安から、わざわざ早馬を飛ばして戻ってきていた。
「謝混は、君を完全に排除するつもりだ。荊州に飛ばした後、いずれは軍権も剥奪するだろう」
「わかってる」
「どうする」
「決まってる」
俺は立ち上がった。
「やつがルールを守るつもりなら、こちらもルールの中で戦う。だが——ルールを破るなら」
「破るなら?」
「——叩き潰すまでだ」
「どうやってだ。謝混は朝廷の最高権力者だぞ」
「武力ではない。政治で戦う」
劉穆之は一瞬驚き、それからにやりと笑った。
「ほう。君が政治で戦うとは——」
「俺にできないと思うか」
「いや。君は、いつだって私の予想を超えてきた。今回もそうだ」
俺は、一通の書簡を懐から取り出した。
「これは、王謐からの密書だ」
「王神愛の父——門閥貴族の重鎮が?」
「ああ。謝混はやりすぎた。旧来の貴族たちも、あいつの独走に不満を持っている。王謐はじめ、いくつかの名門が、俺に協力する意思を示している」
劉穆之は目を見開いた。
「つまり——君はすでに、貴族連合を形成しているのか」
「穆之、お前ならこう言うだろう。『武力ではなく、政治で戦え』と。だから俺は——お前の教えを実行しているだけだ」
「……成長したな、劉裕」
「お前のおかげだ」
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数ヶ月後、政変は静かに、しかし決定的に起こった。
謝混の不正蓄財と権力濫用の証拠が、次々と朝廷に提出された。背後で動いたのは、王謐をはじめとする門閥貴族たちだ。彼らは謝混を見限り、俺に乗り換えたのである。
孤立無援となった謝混は、辞職に追い込まれた。そして——流刑地へ向かう途中、「賊に襲われて」死亡した。公式にはそう記録されている。
真実は、誰も詮索しなかった。
こうして、朝廷の実権は再び俺の手に戻った。
いや——今度は名目上も、実質的にも。
新帝・司馬徳文は、俺を「相国・宋公」に封じた。相国は、皇帝を補佐する最高の地位。宋公は諸侯の最高位であり、建国の第一歩を意味していた。
建康の街は、またもや祝賀ムードに包まれた。人々は「宋公万歳」と叫び、英雄の帰還を祝った。
しかし——祝宴の夜、俺は檀と二人で、ひっそりと京口の実家へ向かった。
あのボロ家は、もうない。今では小さな庵が建っているだけだった。母は数年前に亡くなり、今は興弟が守っている。
「——兄ちゃん、おかえり」
妹は何も聞かず、いつもの粥を作ってくれた。
俺と檀は、黙ってそれをすすった。
「大将」
「なんだ」
「これで、一つの区切りか?」
「……いや、まだだ」
俺は空を見上げた。京口の星は、昔と変わらず瞬いている。
「まだ、やることがある。北には北魏がいる。それに——」
「それに?」
「いずれ——俺は、晋を終わらせるかもしれない」
檀は黙って俺を見つめ、やがて笑った。
「大将が決めた道なら、俺はついていくよ」
「……ありがとう」
「礼は、天下を取ったらまとめてくれ」
「ああ、約束だ」
京口の夜風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
——宋公劉裕。その名は、もはや天下に轟いている。だが、彼の目はまだ、さらに先を見据えていた。




