第十六話「長安の城壁」
長安が見えた。
潼関を抜け、渭水の流れに沿って西へ進むこと数日——広大な関中平野の果てに、それは忽然と姿を現した。
土埃にまみれた行軍の疲れも、その光景を目の当たりにした瞬間、吹き飛んだ。
「でけえ……」
檀が馬上でつぶやく。普段は軽口ばかりの男が、声を失っている。
俺も言葉が出なかった。
洛陽も大きな都だったが、長安は桁が違う。周囲を囲む城壁は高さ十メートルを優に超え、東西南北にそびえる城門は、それぞれが一つの城と言っていいほどの威容を誇っていた。
漢の高祖劉邦がここを都と定め、以来四百年——幾多の王朝がこの地を中心に天下を治めてきた。まさに「天下の中心」。その名に恥じない巨城だった。
「この城を落とすのか……」
誰かがつぶやいた。
俺は振り返り、兵たちの顔を見渡した。疲れ切った顔、不安そうな顔、それでも前を見ようとする顔——様々だった。
「——そうだ、この城を落とす」
俺はあえて、いつも通りの調子で言った。
「でかかろうが、堅かろうが、城は城だ。中には姚泓って若造がいる。そいつを引きずり出して、降伏させれば終わりだ。簡単だろ」
檀が吹き出した。
「大将、お前なあ……長安を落とすのが簡単なわけねえだろ」
「そうか?」
「そうだよ。でも——」
檀は槍を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「そう言い切る大将についてきて、今まで全部勝ってきた。今回も——勝つんだろ?」
「当然だ」
兵たちの間に、笑い声が広がった。
不安が消えたわけじゃない。だが、それでも——前を向ける。
「全軍、布陣!! 長安を包囲する!!」
号令一下、北伐軍は散開し、長安の四方に陣を張った。
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長安攻城戦は、これまでの戦いとは次元の異なる困難を極めた。
城壁は高く、堀は深く、矢倉からは絶え間なく矢が降り注ぐ。攻城塔を押し出せば熱油を浴びせられ、破城槌で門を叩けば上から巨石が落とされる。
十日が過ぎ、二十日が過ぎた。
犠牲者は日増しに増え、兵の疲労は限界に達しようとしていた。
それでも——姚泓は降伏しない。
「さすがに、ここまで粘るとはな」
劉穆之でさえ、普段の冷静さをやや欠いていた。
「姚泓は若いが、芯は強い。それに長安の民も、異民族に支配されて百年以上経つとはいえ、そう簡単に我々漢人に城を渡そうとはしないだろう」
「民を味方につける方法はないのか」
「難しいな。彼らにとって我々は『侵略者』だ。北伐の大義は、我々の理屈に過ぎない」
「……そうか」
俺は長安の城壁を見上げた。
石の隙間から、雑草が生えているのが見える。何百年もそこに立ち続けてきた城壁。その下で、どれだけの人間が死んだのだろう。
「——穆之」
「なんだ」
「城を落とすのは、やめだ」
「……何?」
劉穆之が、めずらしく素っ頓狂な声を出した。
「攻城を続けても、犠牲が増えるだけだ。それに、力で落とした城は、また力で奪い返される。そうじゃないだろ」
「では、どうするつもりだ」
「姚泓を——城の外に引きずり出す」
俺は立ち上がり、南の城門を指さした。
「包囲を一部、解け。南門を開け放つんだ」
「正気か!? せっかくの包囲を——」
「わざと隙を見せるんだ。『ここから逃げられるぞ』とな。姚泓が逃げ出すとは思わない。だが——家臣の誰かが、裏切るかもしれない」
劉穆之は、しばし考え込んでいたが、やがて小さく笑った。
「なるほど。力ではなく、疑心暗鬼で攻めるか。君にしては妙に頭を使う」
「たまにはな」
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包囲が一部解かれてから三日後——変化は起きた。
夜明け前、南門が静かに開き、一人の武将が馬で駆け出してきた。姚泓の叔父・姚讃——潼関で内応したあの男が、またもや寝返ったのだ。
「姚泓は、すでに追い詰められております。籠城は限界。近いうちに、決死の突撃をかけるつもりでしょう」
「それで、お前は逃げてきたのか」
「……はい。私は、無駄な死を選ぶつもりはありません」
情けない男だ。だが——利用価値はある。
「よし、わかった。お前の命は保証する。その代わり——姚泓に出撃を決断させるための『最後の一押し』を、お前がやれ」
「な、何を——」
「偽りの情報を流すんだ。『北伐軍の兵糧が底をついた』『劉裕が病に倒れた』——何でもいい。姚泓が『今なら勝てる』と思い込むような話をな」
姚讃は青ざめた顔でうなずき、再び城内へと戻っていった。
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二日後——
長安の城門が、ついに開かれた。
姚泓は、残る全軍を率いて打って出た。数は二万。城内に残っていた最後の精鋭たちだ。
若き皇帝は自ら陣頭に立ち、羌族の誇りを背負って突撃してきた。
「——来たか」
俺は、渭水のほとりに布陣した北伐軍の先頭に立っていた。
背後には黄河ならぬ渭水。かつて淮水で盧循を、黄河で姚紹を破った「却月陣」が、再びその姿を現す。
だが——今回は、違う。
「姚泓は、却月陣を知っている。姚紹から聞いているはずだ」
劉穆之が言った。
「ああ。だから——見せるんだ」
「見せる?」
「却月陣を、囮にする」
俺は刀を抜いた。
「敵が却月陣を警戒して陣形を崩したところを——檀の騎馬隊が横から突く。正面は俺が抑える」
「なるほど、二段構えか」
「ああ。知恵はお前から借りた。あとは——力で押す」
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戦いが始まった。
姚泓は、やはり却月陣を知っていた。無理に中央へは突っ込まず、左右に部隊を展開し、包囲する構えを見せる。
だが——その動きこそが、こちらの狙いだった。
「今だ、檀!!」
「応!!」
渭水の上流に潜んでいた檀の騎馬隊が、轟音と共に戦場に突入した。側面に展開していた敵部隊は、完全に虚を突かれ、なす術もなく蹴散らされる。
「な、なに!? 伏兵だと!?」
姚泓の顔が強張る。
「まだだ!! 全軍、反転攻勢!!」
俺は自ら馬を駆り、敵の本陣へと突き進んだ。
死線の予見が、飛び来る矢を教えてくれる。戦場の悪鬼が、全身の力を限界まで引き上げる。
もはや、誰にも止められない。
近衛兵をなぎ倒し、ついに——姚泓の目前に辿り着いた。
「姚泓!! 勝負はついた!! 降伏しろ!!」
「——いやだ」
若き皇帝は、震える手で剣を構えた。
「私は、羌族の王だ。たとえ負けても——膝は屈しない」
「立派だ。だが——」
「わかっている。死ぬ覚悟はできている」
姚泓は、覚悟を決めた目で俺を見た。
その目には、不思議と憎しみはなかった。
むしろ——安堵のようなものが、かすかに浮かんでいる。
「劉裕、お前に聞きたいことがある」
「なんだ」
「お前は、この国をどうするつもりだ」
「——誰もが報われる国を作る。生まれで差別されず、実力でのし上がれる国だ」
「……いい答えだ」
姚泓は静かに笑い、剣を逆手に持ち替えた。
「ならば——せめて、お前の刀で逝こう。それが、敗者の名誉だ」
俺は一瞬、目を閉じた。
開けた時には、もう迷いはなかった。
「——さらばだ、姚泓」
一刀——振り抜く。
若き皇帝の体が、ゆっくりと地面に倒れた。
長安、陥落。
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城内に入ると、そこには驚くほど静かな光景が広がっていた。
民たちは、恐怖と不安の入り混じった目で俺たちを見つめている。略奪も暴行も、固く禁じていた。違反者は斬罪に処すと布告していたからだ。
「長安の民に告ぐ」
俺は馬上から、できるだけ穏やかな声で言った。
「この街は、今日から俺が治める。だが——お前たちの暮らしを、大きく変えるつもりはない。羌族も漢族も、農民も商人も、皆等しく保護する。この劉裕、約束する」
ざわめきが広がる。
やがて、どこからか拍手が起こり、それが徐々に広がっていった。
歓迎ではない。だが——拒絶でもない。
それで十分だった。
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夜、長安の宮城で、俺は一人になっていた。
ついに、長安を落とした。
祖父の夢を、曾祖父の無念を、百年越しに叶えた。
だが——
「これで終わりじゃない」
俺はつぶやいた。
「ここからが、本当の始まりだ」
天下は、まだ統一されていない。
北にはまだ、北魏をはじめとする異民族の国々が残っている。
そして何より——建康では、俺の留守を狙って動き出す者たちがいるはずだ。
「いつまで戦えば、終わるんだろうな」
誰もいない部屋で、ぽつりと言葉が漏れた。
答えはない。答えは、自分で作るしかないのだ。
ふと、懐から小さな布切れを取り出した。興弟が昔、お守りだと言って持たせてくれたものだった。ぼろぼろで、色も褪せている。それでもまだ、持ち続けている。
「……兄ちゃん、まだやれるよな」
誰にともなく問いかけ、俺は静かに笑った。
——京口の狂犬よ、天下はもう、すぐそこだ。




