第十五話「天下への道」
北伐の最終目標——後秦の首都・長安を落とすこと。
これまで南燕を滅ぼし、盧循の乱を鎮め、劉毅を討ち、国内の敵を一掃してきた。残るは、中原の心臓部を占める羌族の国・後秦だけだった。
だが、長安は遠い。
建康から直線距離で千キロ以上。大軍を率いての長征は、補給線の維持だけでも至難の業だった。
「今回は、いつものようにはいかないぞ」
劉穆之が、普段より幾分厳しい表情で言った。
「後秦の皇帝・姚泓は、決して暗君ではない。むしろ若く英明で、羌族の結束も固い。何より——長安は、かつて漢や晋の都だった大城だ。城壁の高さも堅牢さも、これまでの城とは桁が違う」
「わかってる」
俺は地図を睨んだ。
長安——祖父がかつて住んでいた街。幼い頃、何度も聞かされた「失われた都」の物語。
そこを取り戻すことが、どれほどの意味を持つか。俺にだってわかっている。
「兵はどれだけ集まる」
「三万だ。ただし、補給を考えると全軍を長安まで連れて行くのは不可能だ。戦闘に参加できるのは、実質一万五千といったところか」
「一万五千——十分だ」
「敵は五万だぞ」
「いつも通りだ」
檀が横で笑った。
「大将、その『いつも通り』も、今回ばかりはちょっと厳しいんじゃねえか?」
「厳しいから何だ。俺たちはいつだって厳しい戦いをしてきた」
「まあ、そうだけどよ」
劉穆之が地図の上に駒を並べながら言った。
「今回は、途中にいくつもの関所がある。まずは洛陽を落とし、その後、潼関を突破して長安に向かう。洛陽だけでも大仕事だ。潼関はさらに険しい」
「一つずつ、潰していくだけだ」
「……君は相変わらずだな」
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北伐軍は、建康を出発した。
目指すはまず、洛陽。
かつて晋の都だった洛陽は、今は後秦の支配下にある。守将は、姚泓の弟・姚紹。兄に劣らぬ名将と聞く。
洛陽までは、淮水を越え、黄河を渡り、広大な中原を横断する。かつて南燕を討った時よりも、はるかに長い道のりだった。
進軍の途中、俺たちはいくつもの小城を落とした。いずれも大した戦いではなかったが、時間だけが容赦なく過ぎていく。
北伐の大義は兵たちの士気を高めていたが、長征の疲労は誰の目にも明らかだった。
そんな中——洛陽の手前で、思いがけない知らせが届いた。
「姚紹が、洛陽から出陣しただと?」
劉穆之は驚いたように木簡を読み返した。
「ああ。奴は籠城せず、野戦で我々を迎え撃つつもりらしい。数は二万。洛陽を守るには十分な兵力だ」
「なぜ籠城しない? 城に籠もれば、奴の方が有利なはずだ」
「わからん。だが——罠の可能性はある」
俺は少し考えてから、にやりと笑った。
「罠でも何でも、出てきてくれるなら好都合だ。野戦ならこっちの得意分野だ」
「大将、相手は二万だぞ。こっちは一万五千。しかも長征で疲れてる」
「だから何だ。淮水の時は三百で数万を相手にした。それに比べればマシだろ」
「それを言われると、ぐうの音も出ねえな……」
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洛陽の南、黄河を望む平原で、両軍は対峙した。
姚紹の軍は、羌族の騎馬を中心に、よく訓練された精鋭だった。
対する北伐軍は、疲労困憊。だが——目だけは死んでいなかった。
「全軍、聞け」
俺は馬を進め、兵たちの前で叫んだ。
「あの城の向こうには、洛陽がある。かつて晋の都だった街だ。あそこを取り戻せば、中原は俺たちのものになる。そしてさらに西へ進めば——長安がある。我々の先祖が生きた土地だ。それを取り戻すために、俺はここにいる。お前たちもそうだろ」
兵たちの間に、どよめきが広がる。
「この戦いが終われば、お前たちは歴史に残る。北伐を成し遂げた英雄だ。後世の人間が、お前たちの名を語り継ぐ。それ以上の褒美が、あるか?」
静寂。
そして——
「「「応!!」」」
地響きのような雄叫びが、平原を揺るがした。
兵たちの目に、再び炎が灯る。疲労や恐怖を、熱が上回った瞬間だった。
「よし——行くぞ!!」
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戦いは、激戦だった。
羌族の騎馬は、さすがに手強かった。重装甲の騎兵が波のように押し寄せ、こちらの歩兵を押し込もうとする。
だが——
「却月陣!!」
俺の号令で、兵たちが素早く陣形を組む。淮水で盧循を破ったあの陣形だ。川の代わりに黄河を背にし、ハリネズミのように槍を並べる。
突っ込んでくる羌族騎馬が、次々と串刺しになっていく。それでも敵は止まらない。姚紹もまた、退けない戦いをしているのだ。
「檀!! 右翼を頼む!!」
「任せろ!!」
檀の部隊が側面から敵を突き、混乱を広げる。
劉穆之の弓兵隊が、正確に敵の指揮官を狙い撃つ。
そして俺は——
「姚紹——!!」
敵の本陣に、たった一騎で斬り込んだ。
死線の予見が、飛び来る矢を教えてくれる。戦場の悪鬼が、全身の力を極限まで引き上げる。
数十騎の近衛をなぎ倒し、ついに姚紹の目前に迫った。
「く、くそ——!!」
姚紹は剣を抜き、自ら俺に斬りかかってきた。
一合——刀と剣が交錯する。その一瞬で、勝負は決した。
姚紹の剣は折れ、俺の刀がその首に突きつけられていた。
「降伏しろ。お前の命は取らん」
「……なぜだ」
「お前は良い将だ。死なせるには惜しい。それに——お前を殺せば、洛陽の民が抵抗するだろう。無駄な血は流したくない」
姚紹はしばらく俺を見つめ、やがてがっくりと肩を落とした。
「……降伏する。洛陽は——あなたに委ねます」
こうして、洛陽は陥落した。
ついに、かつての晋の都が、俺たちの手に戻ったのだ。
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洛陽の城門をくぐった時、俺の胸にこみ上げるものがあった。
祖父が語っていた街——その面影は、百数十年の歳月で大きく変わっていた。異民族の文化が混ざり、建物の様式も、人々の服装も、かつての晋のものとは違う。
それでも——ここは、俺たちの土地だった。
「これで、あとは長安だけだな」
檀が隣でつぶやく。
「ああ」
「長安には、何があるんだ?」
「……俺の、始まりの地だ」
「始まり?」
「俺の曾祖父は、長安の役人だった。八王の乱で逃げ出して、京口に流れ着いた。ずっと、帰りたいと言っていた。祖父も、父も——皆、長安に帰ることを夢見て死んだ」
檀はしばらく黙っていたが、やがてぽんと俺の肩を叩いた。
「じゃあ、行こうぜ。大将のルーツを取り戻しにな」
「……ああ」
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洛陽から潼関を越え、長安までの道のりは、まさに難関だった。
潼関は、険しい山々に囲まれた天然の要塞。一夫関に当たれば万夫も開くなし——そう呼ばれるのも納得の難所だった。
「まともに行けば、こちらが全滅する」
劉穆之は断言した。
「だが、関を守る将軍は、姚泓の叔父・姚讃だ。この男——実は姚泓と不仲だという情報がある」
「つまり、調略の余地があるのか」
「ああ。姚讃は姚泓の即位に不満を持っている。うまくいけば、内応するかもしれない」
「やってみる価値はあるな」
「ただし、交渉が決裂した場合——」
「その時は正面突破だ」
「だろうな」
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数日後、劉穆之の密使が姚讃のもとを訪れ、密かな交渉が行われた。
そして——
「姚讃、内応を受諾。今夜、関門を開けるとのこと」
「よし」
俺は静かに立ち上がった。
「これで、長安への道が開く」
その夜、約束通り潼関の門は内側から開かれた。
俺たちは一気に雪崩れ込み、抵抗するわずかな兵を制圧。ついに、長安への最終関門を突破したのだ。
長安までは、あとわずか。
姚泓は、残る全軍を挙げて長安に籠城するだろう。
天下分け目の決戦が、目前に迫っていた。
——京口の狂犬よ、いざ長安へ。




