第十九話「黄河の対決」
黄河を渡った北伐軍は、滑台を皮切りに、北魏の前線基地を次々と攻略していった。
滑台の守将は、わずか三日の包囲で城を明け渡した。続く枋頭、黎陽も同様だった。北魏は広大な領土を持つがゆえに、国境線の隅々まで大軍を配置することができなかったのだ。
「このまま一気に鄴まで抜くぞ」
「鄴? 鄴って、あの曹操が都にしたって言う——」
「そうだ。河北最大の都市だ。あそこを落とせば、北魏の背骨を折れる」
曹操——かつて三国時代に魏の基礎を築いた英雄。その男が選んだ都は、今も河北の要衝として輝いているという。
「大将、曹操と自分、どっちが上だと思う?」
「知らん。俺は俺だ」
「ははっ、それでいいや」
鄴への進軍は、驚くほど順調だった。滑台から鄴までは本来なら数週間かかる行程だが、途中の城や関所は次々と降伏。北伐軍はほとんど戦わずして河北の中心部へと迫った。
鄴の城壁が見えた時、さすがの俺も息をのんだ。長安にも劣らぬ巨城。城壁は高く、堀は深く、守備兵は二万を超えると聞く。
「これは骨が折れるな」
檀がつぶやく。
「嫌か?」
「まさか。燃えてきた」
攻城戦は熾烈を極めるかと思われた。
しかし——鄴は、あっけなく門を開いた。
「鄴の守将・拓跋屈が、城ごと降伏を申し出ております」
「何だと?」
「は、はい。城内で内紛が起きた模様で——」
詳細はこうだった。鄴を守る拓跋屈は、もともと先帝・拓跋珪の弟で、現帝・拓跋嗣とは確執があった。そこを劉穆之が事前に調べ上げ、密かに調略の手を伸ばしていたのだ。穆之は建康にいながらにして、すでに鄴の内情を掌握していた。
「穆之のやつ、またか」
「あの男、ほんとに文官かよ」
「少なくとも、俺よりよっぽど始末が悪い」
鄴の開城は、北伐の行方を決定的に変えた。
北魏の威信は大きく揺らぎ、周辺の豪族たちは次々と北伐軍に合流した。河北の地は雪崩を打って動こうとしていた。
そして——
「平城から、拓跋嗣自らが出陣した」
知らせを受けたのは、鄴に入城してから三日後だった。
北魏皇帝・拓跋嗣は、残る全軍を率いて南下し、決戦を挑もうとしている。数は五万——対する北伐軍は三万。
「ついに来たか」
「今度こそ、正真正銘の決戦だな」
「ああ。ここで勝てば——河北は終わる」
決戦の地は、鄴の北、漳水のほとり。広大な平原が広がり、騎馬戦に適した地形だ。北魏の騎馬軍団にとっては理想的な戦場。だが、俺たちにとっても——勝算はあった。
漳水の戦いは、早朝から始まった。
拓跋嗣は、正面からの騎馬突撃を仕掛けてきた。数万の騎馬が一斉に駆け出す光景は、まさに圧巻。地響きが平原を揺らし、砂塵が空を覆う。
「却月陣!!」
号令一下、北伐軍は漳水を背に陣形を組む。淮水で、黄河で、渭水で——何度も鍛え上げてきた鉄壁の陣が、再びその姿を現した。
鮮卑の騎馬が、怒涛のように押し寄せる。槍衾に突っ込んでは倒れ、それでも後続がさらに突っ込む。かつてない激しさだった。
「くそ、数が違う——!!」
檀が叫ぶ。
「耐えろ!! まだだ!!」
敵の波が、却月陣を押し込もうとする。中央がわずかに歪み、兵たちの足が後退し始めた。
その時——
ドドドドドドドドッ!!
左右の丘陵から、伏兵が一斉に飛び出した。
率いるのは——檀だ。いや、檀はここにいる。では、誰が——
「あの旗は——!!」
左翼から現れた軍勢の旗印。それは——劉穆之が建康で温存していた予備の軍団だった。穆之は、建康から密かに兵を動かし、この決戦に間に合わせたのだ。
「あの男、本当に文官か——」
檀が呆れたようにつぶやく。
伏兵の出現で、北魏軍の側面が崩れる。すかさず俺は、刀を掲げた。
「全軍、反転攻勢!! 俺に続け!!」
俺は自ら馬を駆り、敵の本陣へと突き進んだ。
死線の予見。戦場の悪鬼。体の奥底から、限界を超える力が溢れ出る。
目の前には、北魏の皇帝・拓跋嗣がいる。若き皇帝は、近衛兵に守られながらも、自ら剣を抜いて立っていた。
「鮮卑の王よ——!!」
「漢の英雄か——!!」
刀と剣が、火花を散らす。
一合——互角。
二合——鍔迫り合い。拓跋嗣の力は、これまでのどの敵よりも強かった。
だが——
「——うおおおおおおおおっ!!」
三合目——俺の刀が、拓跋嗣の剣を打ち砕いた。
若き皇帝は馬上から転がり落ち、地面に仰向けに倒れる。
「……降伏しろ、拓跋嗣」
「——いやだ」
彼は、それでも笑っていた。
「私は鮮卑の王だ。降伏はしない。だが——頼みがある」
「何だ」
「我が民を——虐げないでほしい。漢も鮮卑も、同じ人間だ」
「……約束する」
拓跋嗣は、満足そうにうなずくと、自らの短剣で喉を突いた。
俺はその死を、黙って見届けた。
漳水の戦いは、北伐軍の完勝に終わった。
北魏の皇帝は死に、残された軍は降伏した。河北の地は、ついに晋の手に戻った。
鄴に凱旋した俺を待っていたのは、またしても劉穆之からの書簡だった。
「——大将、今度は何だ」
「穆之からだ。『建康に戻れ』と」
「またかよ。せっかく河北を取ったばかりなのに」
「今回は——多分、最後だ」
書簡には、こう記されていた。
『禅譲の準備、整いました』
「……ついに来たか」
檀が静かにつぶやく。
「ああ」
「大将——いや、これからは、なんて呼べばいいんだ」
「まだ何も決まっていない。だが——」
俺は南の空を見つめて言った。
「京口の借金まみれの農民が、どこまで行けるか——最後まで見ていてくれ」
「言われなくても、ついてくよ」
建康への帰路——俺の胸には、これまでの戦いが走馬灯のように甦っていた。
淮水のほとりで初めて却月陣を敷いた日。桓玄を討ち、盧循を破り、劉毅と戦った日。南燕を滅ぼし、後秦を滅ぼし、長安の城門をくぐった日。そして今、北魏さえも倒した。
俺は、曾祖父が逃げ出した北の地を、この手で取り戻した。それだけで十分だと思っていた。だが——違った。
俺が本当に変えたかったのは、土地ではなく、仕組みだった。生まれで全てが決まるこの国を、根本から変えたかった。そのために、俺はここまで来たのだ。
建康の城壁が見えてきた。
かつて、初めてこの都に来た時は、ただの一兵卒だった。今は——この国そのものを背負っている。
「大将、緊張してるか」
「してない」
「嘘つけ。目が笑ってるぜ」
檀の言葉に、俺は思わず笑った。そうだ、俺は笑っている。これから成し遂げることを思うと、武者震いが止まらなかった。
——京口の狂犬よ、いま新たな時代の幕が開く。




