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9章 大きな思惑と小さな期待

「………………」


 しかし、だ。


 指輪を奥まで嵌めたはいいが、記憶らしい記憶は一切舞い戻ってこない。

 引き続き絶賛記憶喪失中だし、星冬の顔も全く思い出せないままだ。

 頑張って追想すれども、クロの顔が脳内にびっしりと描き出されるだけで収穫は何も無く、ただなんとなくイラッとしただけだった。


 結論からすると、これはハルの欠片ではないのだろう。


「……はあぁああ……」


 期待していた分、その肩透かし感は途轍もない。

 思わず颶風のようなため息がこぼれ、ハルはその場で己の顔を覆った。


 なんだ、なんだよ、なんだよもう。

 期待させやがって――いや、勝手に期待して勝手にショック受けたのは自分なのだが。


 とりあえず指輪は外そう、人様のアクセサリーを勝手に身に付けているのは居たたまれない。

 慌てて指輪を引っこ抜いて元の場所に戻し、そろそろと音を立てないようにして引き出しを閉めた。


 しかしあの欠片は誰のものなのだろうか、私のものではないということは、他の誰かのものなんだろうけど――誰が、一体誰が記憶の欠片を手放しているのだろうか。

 記憶の欠片を失えば現世の記憶を保持できなくなる、それは非常に困るはずだ。

 恐らく本人は慌てまくっているに違いない。


 本人に返してあげるべきだ。

 でも本人が分からない。

 それをクロは知っているのだろうか。

 知っていて尚ここに置いているのだろうか。

 誰かから隠そうとしているのだろうか。

 その誰かとはこの記憶の欠片の持ち主なのか。

 その本人とは、本人とは……。


「……ああ、もう、わっかんない」


 荒っぽい口調でぼやきつつ、自分の髪をくしゃりとかき乱した。

 分からないことが多すぎてストレスが溜まる、禿げそうだ。


「いつか話せる時が来たら話してよね」


 とクロに言い、ハルはゆっくりと立ち上がった。

 そしてタンスの上にあった原稿を手に取り、部屋の出口へと向かっていく。


 壁に取り付けられたスイッチを押し、部屋の中が黒く染め上がった。

 涅色の部屋には二つの灯り、欠片の発する光だけが瞬いている。


 そしてハルが扉を閉めると、その二つがくっきりと――それでもまだ弱々しいが――部屋の中に浮かぶ。

 橙色は動かず、時だけが刻まれていった。


 しかしやがて、片方の光が動いた。

 ゆらゆらと規則的な動き、まるでペンデュラムのように振れ幅を小さくさせながら。

 恐らくクロが体を起こしたのだろう。


 目覚めたのだろうか、いや、違う。

 最初から起きていたのだ。

 意識があるにも関わらず、ハルの呼びかけを無視し、ひたすら寝たふりを続けていた。


「……ハルのやつ、もーちょい早く来てくれよなぁ……」


 背中を押さえながらクロが呻く。

 彼は待っていたのだ、ハルが執筆に音を上げて部屋に来ることを予測し、長いこと寝たふりをしながら、ハルが来るのをまんじりともせず。


(しかし上手くいかなかったな……コイツをハルが持ち去ってくれりゃあ完璧だったんだが)


 クロは引き出しを開け、先ほどハルが疑いをかけた指輪を拾い上げる。


 彼の計画は、まず引き出しをほんの僅かに開けて欠片の光が漏れるようにし、この指輪を見つけたハルが自分のものだと思い、嵌めてみるが記憶は戻らず、しかし自分と無関係とも思えないので持ち去る――という流れだったのだが、どうにも上手く事が運ばなかった。


(あいつは昔っから人の部屋のモンを度々勝手に拝借していたから、今回もその流れに則るかと思ったんだが……やっぱりまだそこまで無遠慮にはなれないか)


 そりゃそうだろうなと自嘲し、クロは椅子の背もたれに体を預ける。

 そして静かな閃光を放つ指輪を照覧し、今度は頬杖をついて腕に体重をかけた。

 その顔はどうにもメランコリック、ハルとバカをやっている時の面影は感じ取れない。


(……コイツは本来ハルが持つべきものなんだがな、やっぱり最後に渡すしかないか)


 ハルのものではない指輪をハルに保有させること、それがクロの狙いらしい。

 それに何の意義があるか、どういう意図があるか、今はまだ誰にも分からない。


 策略を練りながら、クロは瞳を閉じる。


 ちゃんとハルにこの指輪を渡せるのか、そこまでシナリオ通りに事が運ぶのか。

 小癪なハルを中枢に置いた計画は、どうにもブレが生じて難しい。

 クロは長い時間思案を続けた、それこそ本当に眠ってしまったのかと疑ってしまうほど。


 しかしやがて、ぽつりと言う。


「……『いつか話せる時が来たら話してよね』、か」


 瞳を開き、欠片の光だけに照らされた天井を見上げながら、クロは静かに息を吐いた。

 まるで自分の中に渦巻いている感情を、吐息と共に排出しているかのように。


「俺だって話したいのは山々だけどよ……全てを話して、お前に記憶が戻っちまったら困るんだよ」


 刻み付けるように、自分に言いつけるように。

 クロの言葉は重たく、ひたすらに強い意志を持って。


「お前が記憶を取り戻したら……その瞬間、お前は死んでしまうのだから」

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