10章 恋の夢
夢――そうだ、夢だ。
酷く胡乱な夢を見ていた。
身体は不自由極まりなく、上手く走ることさえもできない。
一挙一動に違和感が残るし、自分が直立しているのか着座しているのかも把握できない。
それほど不便な状況なのに、何故かそれに疑問を覚えない。
最初からこうであったかのように受け入れ、夢を見続けている。
しばらくそんな不都合な感覚を味わった後、ハルはようやく、自分が見たことも無い部屋で座り込んでいたことに気づく。
ここがどこか、何故自分がこの場所にいるのか、そんな疑問は一切頭に過らない。
夢の中ではありがちだ。
「……んっ」
立ち上がろうと試みる。
驚くほど自然に立つことはできたのだが、どうにも真っ直ぐ歩けない。
脚がもつれて体がよろめき、倒れ込みそうになってしまう。
「何やってるの」
と、そんなことを言いながら、一人の男がハルの体を支えた。
恐らくハルの背後にいたのだろう、最初からずっと。
支えを受けながら、ハルはその男の顔を見上げる。
黒い髪、しかし顔は黒く塗り潰されていて見ることが叶わない。
当然だ、ハルは彼の特徴をほとんど知らないのだから。
知り得る情報と言えば、黒髪であること、男であること、そして彼の名前が星冬だということだけだ。
「ほら、熱あるんだから寝てなよ。39度もあるんだぞ、39度。気軽にうろついていい熱じゃないって」
そう言いながら星冬はハルに肩を貸し、備え付けてあるベッドへ移動させる。
その間、ハルは自分の掌をじっと見つめていた。
いつもより小さくて幼い、まるで子供のような手だった。
いや、子供なのだ。
自分の身長は120前後くらいしかない。
自分の発する言葉もどこか高く舌ったらずで、大人びた雰囲気は微塵も感じ取ることができなかった。
ハルをベッドに寝かせ、星冬は枕元の熱冷ましシートを手に取る。
器用にそれを開封して、彼は躊躇うことも無くハルの額にそれを貼るのだった。
「つめたい……」
「気持ちいいだろ」
「別居中の夫婦仲くらいつめたい……」
「そういう不穏な例えを口にしないでもらえる?」
気付けば口から出る言葉は全て無意識、シーツの端を握りしめているのも自分の意思に関係なく。
もう体の自由さえ、言葉の自由さえ自分からは失われていた。
そう、これはかつての光景。
現世で過ごした時間のプレイバック。
過ぎ去った過去に干渉することはできず、自分は第三者のような感覚でそれを眺めているだけ。
今ここにいるのは幼き頃のハルと星冬、高校生になった自分とは違うのだから。
「食欲はあるか?」
「ううん、全然。むしろ胃の中の物を食卓に提供しそうなくらい」
「……」
星冬は無言でエチケット袋を取り出し、ハルの枕元にそっと置いた。
「しかし流行り風邪にかかるだなんて、流行に乗ってるなあ。僕なんてこの通り元気体、風邪の菌すら寄せ付けないパワフルさがウリだ」
「菌すら逃げる男なんだね」
「その言い方だと神羅万象あまねくものに避けられているみたいだからやめて」
星冬はハルの手を握りしめた。
いつもより覇気のない彼女を元気づけようと思ったのかもしれない。
だがハルは一瞬驚いたような表情になり、シーツを目元まで引っ張り上げ、顔を隠してしまう。
「なんだ、どうした」
「星冬菌がついたからちょっと……」
「小学生みたいなこと言うなよ。いや僕たち小学生だけど」
その言葉は照れ隠し、本当は紅潮してしまった顔を見せたくないだけ。
突然手を握られればそうなるだろう、よりにもよって恋慕を寄せる相手に。
熱のせいで汗ばんだ手を握られている、それがすごく恥ずかしい。
今更に汗ばんだのは熱だけのせいではないだろうが、とにかくとにかく、汗っかきだとか思われたくないし、好きな人に気持ち悪がられないか心配でたまらない。
意識すればするほど動揺は強くなるし、隠そうとすればするほど顔は熱くなる。
心の奥底から煥発するように『好き』という思いが溢れ出ていた。
それは淡く朱の色を帯びて、顔に顕現していく。
秘匿にできないその想い――どうしてこれほどまでに『好き』が生まれるのか。
好きだから好きなのか、そんなトートロジー的考えしかできない。
ハルは握られていないほうの手を伸ばし、緑色のリモコンを掴んだ。
彼女がリモコンのボタンを押すと、天井の電灯が反応して色を落とし、部屋は豆電球のオレンジ色に染め上げられる。
これなら顔が赤くてもバレることはないだろう。
「寝るのか?」
「ん……うん、この際寝る。起きていても辛いだけだし、熱下がらないし」
「そっか。それじゃあおやすみだな」
と言いながらも星冬は手を離さない。ハルが寝静まる時まで握り続けているだろう。
出来うる限り意識しないようにしながら、瞳を閉じ、暗い暗い闇の世界へ意識を落としていく。
自分の鼓動だけが強く響いている。
まるで体全体が脈打っているかのように。
どうしてこれほどまでに好きになってしまったのだろう、今こそハルは回顧する。
……私は周囲に馴染めない子だった。
友達なんかいなかったし、他人と話すことすら怖くてままならない、そんな臆病な時期もあったのだ。
無論それは私にとってコンプレックスだったし、自分を嫌いになる原因でもあった。
『私がみんなと同じだったらよかったのに』、何度そう願ったことか。
私は普通の学校では異端、周囲とは違う存在だった。
初めて顔を合わせたその瞬間から、私が爪弾きにされることは確実であったのだ。
だから溶け込めなくて、一人でいるしかなくて。ただ膝を抱えて涙を流すことしかできない。
そんな私に手を差し伸べてくれたのが星冬だった。
彼は塞ぎ込んでいた私を連れ出し、この世界に広がる『楽しいこと』をいっぱい見せてくれた。
世界はこんなにも輝いていて、楽しい場所であるべきなんだということを、幼い私に精一杯噛んで含めてくれたのだ。
私とクラスメートを斡旋してくれたのも彼、今の私がここに在るのは、何もかも彼のおかげ。
胸中には感謝の念が芽生え、渦巻き、実り、気付けば――それは恋心となっていた。
いつも私の手を引っ張って、楽しい世界を見せてくれる彼に魅かれていたのだ。
ずっと傍に居たくて、その横顔を見ていたくて。
幼い私なりの全身全霊で、彼の全てを情愛していた。
世界の誰よりも、宇宙の何よりも。
私は彼を愛していた。
……そんな軌跡。
気が付けばハルはすっかり寝息を立て、呼吸に合わせて僅かに胸を上下させていた。
紅くなっていた顔も元通り、いつも通りの白くて透き通るような肌になっている。
それと同時に、高校生のハル側の意識も薄らいでいく。
静かに音も無く、御影石が風化していくかのように。
星冬の面影が遠くなる、郷愁のような儚い感情だけが色濃くなり――。
そしてハルは、目を覚ましたのだった。
「…………」
僅かな間、夢見心地。
そろそろ見慣れてきた天井を眺めながら、ゆっくりと思考を明瞭にする。
今まで自分が夢を見ていたこと、その夢が過去のものだということ、その両方を正しく認識した時、ハルの胸の奥から、既視感を覚えてしまう感情が沸き上がった。
星冬の温もりを思い出して、顔が赤く染め上がっていく。
心悸が激しくなり、頭の中に霧が掛かって鈍くなり、星冬のこと以外を考えられなくなった。
それは紛れもないあの感情。
ハルは両手で顔を覆った。
自分の過去を垣間見て、星冬とのエピソードを思い出し、その時抱いていた感情まで手土産にして目覚めてしまったのだ。
そのおかげで、自分の心臓は大変なことになっている。
目を強く瞑りながら、爆発しそうな感情を堪えながら、ハルは思いの丈を心の中で吐露した。
どうしよう。
私、顔も思い出せない人に、恋してる。




