11章 恙ない日々
到底冷静になんかなれやしない自分を抑え込み、息を吐きながら体を起こす。
ちょっぴりインパクトの強い感情を与えられたせいで完全に目は覚め、もう二度寝に入ることは難しそうだった。
ベッドから降り立ち、よたつきながら部屋を出る。
冷え切った廊下を、つま先立ちで歩いていく。
半分忘れていたが今の季節は半ば冬、この時期の廊下は氷のように冷たくて、普通に歩くことなんかできるわけがない。
足が冷たさをはっきりと知覚する前にもう片方の足を出し、素早く危険地帯を駆け抜けていった。
そしてリビングに立ち入り、床に敷かれたカーペットに辿り着いた時、ようやくハルは冷たさから解放されたのだった。
水を飲めば、激しい鼓動を続けるこの身も多少は落ち着けるかもしれない――その目論見は正解だったようで、コップ一杯の水道水を飲み干した時には、もうハルはいつもの平静を取り戻していた。水と一緒に動揺を腹へ流し込んでしまったかのようだ。
壁に掛けられた時計を見上げ、今が早朝の5時49分だということを知る。
部屋に籠った冷たい空気が纏わりつき、ハルは体を数度震わせた。
眠くはないけど布団にくるまって時間を潰そうか、なんてことを考えてみたりもする。
しかし窓から差し込んでくる光を見て気が変わった。
早朝の朝日は眩しくて軽快、この光を全身で浴びるのも悪くはないと思ったのだ。
新聞の回収がてらに日光浴をすれば無駄がない。
部屋に戻ったハルは着替えを済ませ、しっかりと防寒具を身に付けてから、玄関の扉を開け外へ繰り出た。
日の光、吹き付ける風、そして雪が降る予兆の匂いが感じられる。
煉獄にも雪が舞うのだろうか、それはまだ彼女には分からない。
クロが愛用しているどてらを深く着込みながら、ハルは郵便受けの中を覗き込む。
中には新聞と数枚の手紙、恐らく手紙はクロ宛て、講演会への参加依頼だろう。
同居していると単なるだらしない男にしか思えないが、世間的にはやはり有名な演奏家なのか。
可能なら今度クロの演奏を聴いてみたいものだ。
「おーい、ハルモニア嬢~」
とその時、朝から軽快な声が響く。
「あ、ブルマ博士」
「名前を正しく憶えていただいて宜しいか?」
参上したのは作業着姿のブルカ博士、片手には牛乳瓶の入った籠を抱えている。
「牛乳配達の仕事ですか?」
「うむ、丁度黒鐘家に我輩の絞りたて汁を提供しに参った所である」
「その言い方飲む気が失せるんで止めていただけませんか?」
ブルカ博士は籠から牛乳瓶を取り出すと、黒鐘家の玄関先に置かれた牛乳箱へ丁寧に入れていく。
そして空になった籠を見て、ブルカ博士は満足げに頷くのだった。
「ふむ、本日の配達は終わりでありますな。こんなに早く事を済ませられたのは大金星と言えましょう」
「毎朝大変ですねぇ……昼過ぎまで惰眠を貪ろうとするクロに、爪の垢を煎じて大量に摂取させてやりたいくらいです」
「黒鐘は童話活動と音楽活動で忙しかろう、やや起床が遅くなるのも仕方なしというもの。……まあその生活サイクルが羨ましいと思ったことが無いと言えば嘘になるが、人はそれぞれというもの、羨望するだけ無駄であるよ」
自分は自分の生活規則が一番、とブルカ博士はカラカラ笑った。
まあ生活リズムは各々違うのだから当たり前だ、職業、環境、様々なものによって人々は異なった性質を持って生きていく。
「しかしハルモニア嬢は早起きであるなあ、健康で良き哉良き哉。気に入った、祭典と呼べる規模のマリッジをしましょうぞ」
「あらゆる法的手段を用いてお断りします。今日はたまたま早く目覚めただけで、いつもならもーちょい遅く起床していますよ。ふああ……」
そんなことを言いながら、ハルは小さなあくびをしてしまう。
昨日はお試しで童話執筆をしていて遅寝だった上に、今日は否応無しの早起き。睡眠時間はいつもより確実に短いのだ。
「むむ、ハルモニア嬢はおねむな様子。そんな時は牛乳を呷ると良いらしいであるよ、尚我輩は牛乳をお買い得価格120円で提供中故」
「人の眠気に付け込んでセールストークしないでもらえるかしら……ところでブルカ博士、研究の方は順調なのかしら? 何やらESP的な研究を進めているらしいけれども」
「ふむ、すこぶる順調である……と言いたいところだが、実は全く進んでおらぬのだ。進捗は一進一退、どうにも上手くいかないモノであるな」
「まあテレパシーなんていう非科学的な研究だと、確実な資料が少ないから難しいですよね。技術の先陣を切るのが茨の道なのは、どの分野でも変わらないですし」
「左様、先駆者というものはいつの時代も辛いものなのであるよ。まあ天才にしか成し得ないことだし、我輩が研究に成功すればそれ即ち天才だという証明になるということ……ぬふぬふぬふ」
「その笑い方殊更気持ち悪いんで止めてもらえませんか……あれ?」
その時、ハルが客人の来訪に気づいた。
小さなバスケットを手に持ち、しずしずとハルたちのほうへ向かってくる一人の少女。
あまりにも華奢過ぎるその体には見覚えがあり……ていうかハルにとって見覚えがある人物といったら、クロとブルカ博士とこの子くらいしかいない。
「香ちゃんじゃないの」
「おはようございます、ハルさん」
礼儀正しく頭を下げた香に対して、ハルも恭しく頭を下げ返す。
その隣ではブルカ博士が痙攣しているんじゃないかってくらい頭を下げまくっていた。突然やって来た香を見て興奮しているご様子。
「こんな辺鄙な場所で会えるとは光栄の極みで御座いまする、香嬢……我輩はブルカ・ケンタウル、愛を詠う吟遊詩人と言ったところでしょうか……」
「会うたびに痛々しい挨拶するの止めてください」
「ていうか人の住処の前を辺鄙な場所とか言わないでもらえるかしら」
女子二人からブーイングを受けたブルカ博士は何故か照れまくり、恥じらう乙女のようにもじもじし始めた。ハル的には愕然とするぐらい気持ちが悪いから止めていただきたい。
「それで、香ちゃんはこんな朝早くにどうしたの? 今はパンを仕込んでいる時間なんじゃ……」
「あ、いえ、今日はパン屋のほうは定休日なんです。それでちょっと、服屋の開店前にこれをポストの中にでも入れておこうと思って」
香が懐から取り出したのはいくつかの小物。
装身具などの細々としたものだ。
「昨日の服にピッタリなアクセサリーを見つけたので、ハルさんにお渡ししようかなと」
「あら、これはこれはご丁寧に……ありがとう、心底ありがとう」
香の手から佩物を受け取った時、ハルは香の所持しているバスケットの中身を僅かに見た。
「この可愛らしいバスケットの中身は……?」
「あ、クッキーです。昨日美味しく作れたので、ついでにお渡ししようかなと」
「香ちゃん……もうホントいい子!」
はにかみながらそう言う香に対し、ハルはもう感無量。
思わずその身を抱きしめ、頭を思いっきり撫でまわしてしまう。
「よ、喜んでもらえてなによりです……」
抱きしめられた香は照れながら、されるがままになっていた。
ちなみに二人の後ろではブルカ博士が物欲しそうに反復横飛びしている、撫でたいのか撫でてほしいのか、抱きしめたいのか抱きしめてほしいのか。
「ただ黒鐘さんとの同居は認めていませんから」
「うーんそこは強情」
どれだけ仲良くても譲れないものが一つはあるのだろう。そこは仕方がない。
「こちらも負けてはいられないでありますな。香嬢、我輩とハプニング有りの同居をしよう」
「文字通り死んでも嫌です」
「お泊り保育でも可」
「ブルカ博士は世界で一番お泊り保育という単語を使ってはいけないと思います」
黒鐘家の前は、朝から大盛り上がりだった。
「しかし香嬢とハルモニア嬢がもう知り合いだったとは驚きでありますな。一昨日ようやく煉獄に来たばかりなのに、ハルモニア嬢は行動が早いであるなあ」
「香ちゃんに服を見繕ってもらったんですよ、この服も香ちゃんの服屋で買ったものですし」
「成程道理でよくお似合いのはず。さすが香嬢、パンピーとは比べ物にならないほどのセンスをお持ちで。我輩なんてその感性が無いせいでマネキン買いに落ち着くというのに」
「……別に、これくらい普通ですよ」
ぷい、とそっぽを向きながら香が言う。
例え相手がブルカ博士だとしても、センスや諸々を褒められるのは悪い気持ちではないのだろう。彼女の口角が微妙に吊り上がっている。
ブルカ博士は更に褒めちぎろうとしていたが、そんなことをされれば褒められすぎて照れてしまうと危惧したのだろう。
香は素早く辺りを見回してからハルに問う。
「黒鐘さんはどうしたんですか?」
「クロなら今も尚枕に頭を預けているわ。多分初日の出暴走ばりの爆音で起こさないと永遠に目覚めないでしょうね」
「そうですか……お寝坊さんですね」
肩を落とし、香はどこかガッカリした様子だった。
そんな香を見てブルカ博士が今世紀最大にニヤニヤしているが、香のしょぼくれ顔を見て倒錯した興奮を得たわけではなく、ただ中学生らしいウブな恋愛をしている彼女を微笑ましく思っているだけだろう。多分。
「クロの顔が見たいなら今すぐ急所への掌底で死ぬほど起こしてくるけど、どうする?」
「いえいえ、そこまでして起こすわけにはいきません! 黒鐘さんはゆっくりとお休みくださいませ、もう気の行くまま、場合によっては夜分遅く目覚めるほどでも!」
「いやせめて昼までには起きてもらいたいんだけど……」
夜になんて目覚められたら迷惑なだけだ。
クロの食事を用意するのは他の誰でもないハルなのだから。
そんな風にして、彼らはのどかな朝を井戸端会議にて過ごしていった。




