12章 黒鐘という男
早朝の鼎談は意外にも弾んでおり、果たしてブルカ博士の牛乳配達に支障が出ているのではないかと疑問を持ってしまうほど会話のラリーが続いていた。
今の話題はクロという男についてという内容だ。
「……しかし黒鐘といえば、中々奴も不思議な奴であるな。ある日突然この場所に現れ、たった一日で家を構え、彗星の如き速さで音楽家として名を馳せ、今こうしてこの煉獄で悠々自適な生活を送っているのだから」
ブルカ博士が不思議そうな顔をしながらそう言い、そこに香が「確かにそれは私も気になっていました」と便乗する。
彼女も不可解そうな様子で言葉を続けた。
「何もかもが素早かったんですよ、黒鐘さんの推参は。まるで用意された居場所に腰を据えたかのように手際よく、家や職なんかを手に入れていました。最初は新参者だとは思わず、黒鐘さんは昔からイーハトーヴにいて、自分が気づかなかっただけかと思ってしまったくらいに」
「……一日で家や職を手に入れるのは難しいことなの?」
「そりゃそうであるよ! 大概の人は誰かの家に泊めてもらったり、職を与えられたりするものなのだから。そういう善行が禊ぎになるから、イーハトーヴに来たばかりの人へ群がる町民が後を絶たないのであります」
確かにそうでもなければ、住処無く職無しの人がもっと多く放浪していただろう。
クロがハルを家に招いて同居し始めたような光景は、イーハトーヴでは決して珍しいものではないのかもしれない。
「黒鐘さんは謎が一杯ですからねー。生前の話も全然しないですし、日々罪の禊ぎを行っている様子も見られませんし。何か目的があってこのイーハトーヴに残っているような感じです」
そう言われ思い返してみれば、ハルはクロから昔話を聞かされたことが一切無かった。
生前どんな立場だったか、どんな人間関係を築いていたかも。それどころか過去の笑い話一つ聞いたことが無い。
クロの過去に関連しそうなことで唯一聞かされた話といえば、ジョヴァンナのこと、それと星冬という名前だけ。クロ本人のエピソードは一つも聞いたことが無い。
まあまだ出会って数日なのだから、そこまで込み入った話をする余裕は無かっただけかもしれないが。
「ちなみにお耳汚しでも宜しければ、我輩のピュアな過去を千夜一夜と語り継いでも良いのであるが……?」
「ブルカさん、本気で嫌です」
「やめていただきたいわ、いい年して泣き喚きながら拒否するわよ」
ブルカ博士から一秒間に二十三開閉ほどウインクされたが二人は往なす。
それに対して「過剰に拒否されるとおじさん興奮しちゃうでありますな」とブルカ博士が一人で昂り、格別の笑顔を浮かべていた。とんだ変態である。
「まあしみったれた男の話はいいとして、我輩としては是非香嬢のはんなりとした過去を聞きたいであるよ。ハルモニア嬢からも聞きたくはあるが、如何せん記憶が無いようで」
「あ、それなら私も聞きたいわ。香ちゃんの過去の話を所望」
突然の提案に香は慌て、無意識的に両手と首を横に振る。
「そ、そんなつまらない話を聞くくらいなら、ブルカ博士のヒストリーを淡々と語られたほうがよっぽど有意義ですよ! 私の過去なんて平坦も平坦、校長の長話より退屈です!」
「いやぁいやいや、香嬢の経歴が知れるだけでも儲けもの。できればねちっこく、可能な限り淫靡に、その往年を語っていただきたいであるな。ハァ……ハァ……」
「なんで息荒げているんですか!」
十指を艶めかしく動かしながら、ブルカ博士が香に近づいていく。
逃げる香をブルカ博士が尋常ではない速度で追い始めるが、どこからどうみても性犯罪のワンシーンだ。閻魔的存在はサボっていないで彼を即刻地獄へ落とすべきだろう。
――ここで閑話、ブルカ博士は香の勤めている店の常連客で、割と昔から香との付き合いがあるそうな。
常々よからぬ視線を向けられたり結婚しようなどとのたまわれるが、パンなどを率直に褒めてくれるため、香もそこまで彼を嫌ってはいない様子。
むしろこれだけはしゃぎ合っているなら仲良しの部類に入るのではないか――と、お互いに必死な形相で追いかけっこしている二人を見て、ハルは軽く目を細めた。
ハルが謳歌するのはそんな日常、他愛も無い一ページ。
煉獄に来た彼女は暫しの間、クロと、そして知り合えた人たちと平穏な日々を過ごしていく。
気づけば、ハルがイーハトーヴに来てから短くない時が経過していた。
その間ハルは童話の練習を重ね、クロは切望する童話のプロットを練り続けている。
ブルカ博士は相変わらず研究を行い、香は今日もパンを作ったり服を縫ったり。
……それは紛れもないくらい平穏な茶飯事。
しかし緩やかに、環境は変わりつつあった。
冬の匂いはこれまで以上に濃く取り巻き、着物の女性たちは流行りのカシミヤショールを羽織りだす。馬たちも寒さに嘶き、どこか落ち着かない様子だ。
世間は三冬の渦中、夕方にはもう空が黒ずむ頃。
すっかりルーチンの出来上がったハルの日常は、ある出来事によって壊される。
……そして、二人の童話活動も、まだ固く筆を軋ませながら――始動していくのだった。




