13章 異変
朝、目覚めたハルはいつまでも喚いている目覚まし時計に手刀を叩き込み沈黙させ、ベッドから飛び降りた。
そして素早く着替えを行い、洗面所へと向かう。顔を洗って髪を梳かして、手慣れた動作で身形を整えた。
所要時間は約20分、女子にしては短いがこんなものだろう。
その後、リビングに向かって寝起きの水を一杯飲み、ハルは時計を見上げた。
時刻は6時前、そろそろ来る頃だろう。
早起きしてブルカ博士と香に出会ってから、なんとなく早起きする習慣がついてしまっていた。
最近はもっぱら、新聞を回収しつつ牛乳配達しに来たブルカ博士とトークを交わしている。
パン屋が休みの日には香もやって来て、朝から三人は大盛り上がりだ。
今日はパン屋の開店日で香はいないから、後々お店へ顔を見せに行こうと密かに誓う。
冷え切った廊下を歩いていくと、その途中、クロの部屋の扉が開いた。
そして中からは異常に眠そうなクロが現れ、今まさに外へ繰り出ようとしていたハルと鉢合わせする。
「あれクロ、今日は早いじゃない。どうしたの、目が覚めたの?」
「目が覚めたっていうか、寝てないんだよなあ……昨夜からずっとプロット練ったり調整したりと作業していたら、気が付いた時にはもう小鳥が鳴き始める時刻だ。すげえ眠い」
「へー、大変なのね……そうだ、珍しくこんな時間に意識があるんだし、クロもブルカ博士と話していく? や、クロにとっては滅多にない機会だからこの際強制で」
「寝かせてくれよぉ……今の俺は獏くらい夢を欲しているんだ、布団の中でハピネスな夢を見ていたんだ。ねる、おやすみ」
ハルは部屋に戻ろうとしていたクロの首根っこを引っ掴んで、掛けてあったダウンジャケット着させ、玄関の扉へと連行していく。
扉を開けて外の冷気を浴びた瞬間、大型犬に出会った小型犬みたいな声をクロが発した。
「寒ううううぅぅぅゥゥゥ……はははハルゥ、もうおうち帰ろうぜ」
「男のクセに泣き言なんか言わないの、ほらシャンとしなさいってば」
二人が郵便受けを覗き込むと、やはりといったところか、今日も新聞と幾枚もの便箋が入っている。
クロはまたかとでも言うように手紙を拾い上げ、郵便受けの脇に置いてあるシュレッダーの中に躊躇なくブチ込んだ。もはや手紙が届きすぎてこういう処置をとっているわけである。
「講演会はしないって再三言っているのに、こっちの声を無視して送りまくって来るんだからホント仕方ないな。スパム手紙と呼んで差し支えないほどのしつこさだ」
「そろそろ本格的な対策を講ずる必要がありそうね」
そう言いつつハルは周囲を見回す。
この時間になればブルカ博士が配達車に乗って現れるはずだ。
車の排気音が近づいてくるのがそのシグナルである――が、しかし。
「……来ないな、ブルカ博士も牛乳も」
「おかしいわね、あの人が遅刻するだなんて今までなかったのだけれども」
今日に限って、よりにもよってクロがいる今日、ブルカ博士は時刻通りに姿を見せない。
待てども待てども特徴的なあの姿は現れず、ただ時間が進んでいくだけ。
六時十分を過ぎ、ブルカ博士の勤める牛乳屋の最終配達時間を過ぎても、彼はここへは来なかった。
二人は家の前で待ち惚け、ただ体が芯まで冷えていくばかり。
そして待ち始めてから二十分が経過した頃、クロが「もう今日は来ないんじゃないか。どーせ昨日の回覧板の記述を見落としていたんだろうよ、『誠に勝手ながら、明日の牛乳配達は諸事情により休ませて頂きます』とかな」と言い出した。
「……そうなのかな」
懐疑的な色を瞳に浮かべつつ、もう一度ハルは周囲を見回した。
そしてようやく、その視界に配達車を捉え、僅かに声を上げる。
「クロ、あれあれ! ようやく来たわよ、前代未聞の大遅刻だわ」
車は真っ直ぐ黒鐘家へと近づいてきて、そして門の前で停車する。
運転席の扉が開き、中から配達人が姿を現した。
……出てきたのはブルカ博士ではなく、齢50ほどの男性だった。
ブルカ博士とは似ても似つかない白髪と逞しい体、明らかに同一人物ではない。
というか同一人物であってたまるか。
「やあ黒鐘さん、初めまして。いつもお世話になっております」と、その配達人は謹んで挨拶をし始める。
それに対してクロがやや戸惑いながら、
「どうも初めまして……ええと、この地域の配達人はブルカさんですよね。もしかして彼が体調不良とかにでもなって代理で来たんですか?」
「あぁブルカさんね。彼なら今日付けで辞めることになりまして」
えっ……と、同時にクロとハルの動きが止まる。
そのワンシーンが切り取られたかのように表情までもが凍り付き、顔を見合わせることすら出来やしない。
二人の様子にも気づかず、配達人は牛乳箱に品物を入れていった。
そして頭を一度下げ、再び配達車へと乗り込む。
……二人は頭を下げ返すことも出来ず、去っていく車を眺めることしかできない。
ハルが口を開いたのは、配達車が遠ざかるにつれ小さくなり、完全に見失った後だった。
「く、クロ……知ってた?」
「……知っていたなら、このクソ寒い中来ない人を待つはずが無いだろ」
狼狽するハルに対して、クロはどこか達観したような雰囲気。
「あ、あ! もしかしたらあれよ、件の研究っていうのが上手くいって、もうバイトする必要すらなくなったんじゃないの? テレパシーの研究結果でお金ザックザックの大富豪、あやかりたいくらいに!」
「いや、きっとその予想はハズレだな……まあ案ずるんじゃない、その内我が家へ来るだろうよ。全ての事情を話しにな」
その言葉はどういうわけか確信に満ちていて、ハルがその理由を訊こうとしたが、クロはさっさと家の中に戻っていってしまう。
慌ててハルが後を追い、そして、黒鐘家の前には誰もいなくなった。




