8章 記憶の指輪
夜中、詳細な時間を述べるなら23時27分。
ハルの姿は自室にあった。
机と向き合い唸るハルの手にはシャーペン、目の前に置かれているのは一枚の原稿用紙だ。
そして用紙の隣にはクロの綴った設定帳とプロットがあり、先ほどから何度もその二つを見比べているのだが、どうにもしっくりこないというか、手ごたえが感じられない。
小説という分野に限定せずとも――例えば小論文とかを書く時、自分の考えていたことがバッチリ文章に変換できていると、想像以上の手ごたえが感じられる。
大きさのまちまちな歯車が上手く組み合わさって回転したかのように、奇妙な高揚感と達成感が身を襲うはずなのだ。
しかし今の自分にはそんな感覚、ミリ単位も感じ取ることができない。
プロットと本文に懸隔があるのか、クロの書き出した設定と齟齬が生じているのか。
先ほどからそれを確かめているのだが結論が出ないまま、ただ時計の針が進んでいく。
重々しいため息を一つ落とし、シャープペンシルを荒々しくも投げ捨てた。無論壊すわけにはいかないからベッドの上にだ。
一度行き詰ってしまうとどうにも気分が乗らず、机に向かっているだけでも苦痛極まりない。
「ふあぁ……っ」
しなやかに体を弓なりにしつつ、到底異性には見せられないような全力あくび。
首を回せば十代女子には相応しくないクラッキングが何度も起こり、いけないと分かっていながらも音を鳴らしてしまう。まるで不埒なオッサンではないか。
不埒なオッサンと言えばクロだ。そうだ、クロだ。こういう時こそクロにアドバイスやら助言やらを賜るべきではないのか。
曲がりなりにも物書きなんだから、打開策の一つや二つくらい持っているだろう。持っていなければ夜逃げする。
そう確信したハルは、今しがたまで自分が書いていた原稿やプロットなどを片手に持ちながら部屋を出て、クロの寝室へと向かう。
自室の扉を出て左側、二つ先に備え付けられた扉の向こうがクロの生息地だ。
刑事ドラマみたいに扉をブチ破って突入してもよかったのだが、さすがに夜分遅いからやめておき、控えめなノックを二、三度行う。
しかし内部からは一切の反応が返ってこず、仕方なしにもう数度ノッキング。やはり反応はゼロだ。
「クロ、入るわよー……?」
ノブを掴んで、僅かに扉を開ける。
もしクロが寝ているなら諦めて、自分も床に着く気だった。
しかし部屋の中は天井の照明で煌々と照らされ、電球色に染まっている。
寝ているわけではないのだろう。
ハルはそっと扉を開け、クロの部屋に立ち入っていく。
そこでようやく、クロが机に突っ伏して寝息を立てていることに気づいたのだった。
「……寝落ちちゃったのか」
クロが体を預けている机には、枚挙に暇がないほどの原稿用紙が散らばっていた。
用紙にはマス目全てにびっしりと文字が書かれ、しかし、そのほとんどがボツになってしまったらしく、赤インクで×印が描かれてしまっている。
「……」
ハルは自分の原稿用紙を一旦タンスの上に置き、クロを見下ろして暫し何かを思案する。
机で寝かせておくと背中を痛めそうだから、できることならベッドへ移動させてあげたいけど、自分のこの貧相な筋力でクロを抱えてしまったが最後、刹那も持ちこたえられずにクロを落下させ背骨を完全粉砕させてしまうだろう。これには閻魔大王もブチギレするかもしれない。
仕方なくベッドからシーツを一枚剥ぎ取り、クロの体にそっと掛けてやる。
突然布類を掛けられたクロは一瞬むにゃむにゃと何かを呻いたが言葉にはならず、再び夢の中へと引きずり込まれていった。
「仮にも故人なのに、こんな幸せそうな顔で寝ちゃって……」
クロの寝顔を見下ろしながら、ハルは一人でそう呟いた。
至近距離で見つめられていることも露知らず、クロは間抜けにも寝息を繰り返すばかり。
もし起きていたらどんな反応をするだろうか、なんてコトも少し考えてみたりする。
「男のくせに、まつ毛長いなぁ……キリンみたい」
恐ろしくどうでもいいことを口にしながら、クロの体勢を少し変えてやった。
変な体勢で寝ると翌日全身が凄まじいことになってしまうのを危惧したのだ。
そう、ハルがクロの肩を掴んで、体を僅かに横へ移動させた時のこと。
……クロの服の中で何かが煌めいているのをハルは見た。
丁度胸の辺り――恐らく、ずっとつけている首飾りが発光しているのだろう。
思い返せば、いつ如何なる時もクロはこのペンダントを付けていた。
「ブルカ博士の付けていたブレスレットと同じ、橙黄色……?」
ということは、そのペンダントこそがクロの持つ記憶の欠片なのだろう。
クロとて煉獄の人間、記憶の欠片が無ければ現世の記憶すら持ち得ないのだから。
「……現実の世界で、クロはどんな人間だったんだろうね」
件のジョヴァンナっていう子を愛寵していたのだろうか、現世でも童話を書いていたのだろうか、それとも楽器一筋で音楽活動に骨を埋めていたのだろうか。
輪郭だけは想像できるが、細部はどうしても得られない。
靄のかかったビジョンが瞼の裏を通り過ぎていく。
彼の過去が分からない。
だから、彼の考えていることが分からない。
一体貴方は、何を考えているの……?
ジョヴァンナのこと、星冬のこと、童話を綴る理由、私の記憶が無い理由。
私はそのほとんどを欲していて、彼はその全てを知り得ている。
ハルの心に空いた空洞を埋めるパテを持っているのに、それを話してはくれない。
イジワルしている、……というわけではないのだろうけど、なんで、何もかもを秘匿にしたがるのか……。
「……ん?」
その時、クロの突っ伏した机の引き出しから、僅かに光が漏れているのに気づいた。
あまりに弱々し過ぎて、自分の姿で影を作らなければ到底その光に気づくことはできなかっただろう。
ハルはしゃがんで、一番下の引き出しに手を掛ける。
勝手に人の引き出しを開けることに罪悪感はある、けれども見過ごすわけにはいかない。
だって、その光の色は……、
「…………なんで、こんなところに」
引き出しの中には、柑子色の光を帯びた指輪が置いてある。
複雑に彫り込まれた表面、マンデンブロ集合のように蠱惑的で奥深く、ただただ眩く可憐であった。
見れば見るほど確信が持てる。
間違いない、これは記憶の欠片だ。
しかしこれは誰の欠片なのだろうか?
クロは首飾りとして記憶の欠片を所持しているし、一人の人間に二つの欠片が与えられるだなんて思えない。
じゃあやはりクロ以外の誰かが持つべきものなのだろう。
しかしこの持ち主はさぞ焦っていることだろう。
記憶の欠片を手放したということは、現世での記憶を全て失ったということなのだから。
……それは、記憶喪失と同じ症状なのだから。
「……ねえ、クロ……この欠片、もしかして、…………私の?」
返答は無い。
当たり前だ、クロは寝入っているのだから。
目も開いていないし、声も届いていない。
だから今、ハルがこの記憶の欠片を発見したことも気取れない。
ハルは生唾を飲み込みながら、その指輪を指に通していく。
もしこれが己の持つべき欠片ならば、嵌めた瞬間に現世での記憶が蘇るはず。
だとしたら、求めていたピースが全て――この手に――。




