6章 香・アンタレス
家が連なる住宅地の道をしばらく歩いていくと、やがて賑やかな喧騒が耳に届いてくる。
それは銀河ステーションの近く、この煉獄で一番栄えている場所だ。
駅の近くにはやはり店が多く構えられている。
フィッシュアンドチップスを売る店など日本では到底見られないようなものや、店側が食材を用意して客が料理する飲食店、みたいなキワモノ店まで取りそろえられていた。
視界に入る全てのものが珍しく、ハルは辺りを何度も見回さざるを得ない。
山高帽を深く被り、片手にこうもり傘を持った英国紳士とすれ違う。
その後ろで金髪の少年が彼を真似して歩き、馬のボロに足を取られて転びかけている。
そんな彼に色黒の少女が駆け寄り、手を掴んで引き起こしていた。
ハルの知り合い全員が日本語を操れるので忘れがちだが、イーハトーヴには日本人がさほど多くない。
ほとんどの者が日本語以外の言語を喋り、ハルには井戸端会議の会話すら聞き取ることができないのだ。
だから不思議な感覚、常に旅先にいる感覚を得てしまう。
その時、街中に汽笛の重厚な音が鳴り響いた。
銀河ステーションの方からは煙がもうもうと上がり、人々の悲痛な声が溢れ出ていく。
冷静にその様子を眺めるクロとは対照的にハルは驚き、音の発生源のほうに視線を寄越した。
悲しげなため息をし、クロは小さく呟く。
「今日もまた、罪を雪ぎ終えた者たちが天に召されていったのか」
「……天国に還ったってこと?」
「ああ。煉獄で罪を禊ぎ終えた者の家には、銀河ステーション発銀河鉄道に乗る為の切符が送られるんだ。そして咎無き人々は煉獄から天国への旅路を往くんだよ」
「へえ。……だから銀河ステーションは少しもの悲しい雰囲気なのね」
親しき者が罪を禊ぎ終え、天国へと旅立つ日。
いつか再会できるとしても、暫しの別れを身に刻まなければならず――銀河ステーションからは哀哭が響く。
中には笑って出迎えようと考える者もいるだろう。
親しき者の門出の時、涙を湛えながら見送るのは酷というものだ。
しかしいつ自分が罪を禊ぎ終えるかは分からず……ややもすれば何百年をかける可能性もあり……やはり別離の痛みはその身を襲う。
それは死別の苦痛にも似ていて――死して尚、心を裂くような思いをしなければならないのだろう。
むしろそれこそが一番の禊ぎなのかもしれない。
「……ところで、件のパン屋っていうのは一体どこにあるの? 見渡せどもイロモノな店ばっかりで、軽く眩暈を起こしそうなのだけど」
「もう見えているだろ。ここだよここ」
クロはすぐ傍の店を親指で指し示したが、その店には大きく“ブティック”と書かれた看板が掲げられており、その名の通りに、店の前には色とりどりの服が陳列されていた。
中にはパリコレを彷彿とさせるくらいヘンな服もあるが、基本的には何も変哲のない服屋にしか見えない。
煉獄人の常識かクロの頭のどちらかがヤバい――とでも言いたげな顔でクロの顔を見るが、ハルの慄くような様子にもお構いなく、クロはその店に堂々と入っていく。
慌ててハルもその背を追っていった。
店内は真ん中が仕切りで二分割されている。
片方には華やかな服が並べられていて、試着室まで設置されている充実っぷり。
対するもう片方はいい匂いの漂うパン屋、ベーシックなものから見慣れないものまで、様々なパンが売られていた。
「な、なにこのよく分からない組み合わせは……」
「面白いだろ、服屋兼パン屋。恐らくここでしか見られない光景だな。とりあえず夜に食いたいパンを選んでくれ、目的の人物はやがて現れるだろうし」
と、クロが言った直後、客が入って来たことを感じ取ったのだろう、パン屋の奥から店員が姿を現す。
……しかしハルにとっては、その人物がパン屋の店員であるなんてこと分かる筈もなかった。
何故ならその店員はどう見ても中学三年生くらいの外見で、身長も決して高くなく、顔もまだ幼さばかりが残っているからだ。
今の時間帯なら、スクールバッグでも担いで学校に行っていてもおかしくはない、そんな少女。
エプロンさえ着けていなかったら単なる店長の娘だと思うことは必至だろう。
むしろエプロンを着用して尚、お父さんのお手伝いをしている娘にしか見えないくらいだ。
「うわあ、まーた来たんですか黒鐘さん。今日も冷やかすだけ冷やかして手ぶら帰りする気ですね、いいご身分なことで」
彼女の言葉こそは迷惑そうに綴られているが、その表情はどこか嬉しそうにも見える。
声も語尾が僅かに跳ねていて、密やかな高揚を隠し切れていない様子だ。
「よう、久しいな香。安心してくれ、今日は客らしい態度で臨むつもりだからな」
「うそだー! このヤサ男、ウマーい口車に乗っけて、またダベるだけダベってさっさと家にとんぼ返りする気――」
その時、香と呼ばれた少女がハルの存在に気づく。
少女はやや驚いたようだが、一瞬先には眉を顰め、まるで最初からそうであったかのように不機嫌極まりない表情を浮かべてみせる。
「……なんですか、その女の人。オトモダチか何か?」
「簡単に言えばギブアンドテイクの仲だ。そんなねちっこい視線で見られるような関係じゃない」
黒鐘が端的に説明したのだが、香は疑いの眼差しを止めない。
そして爪先から頭のてっぺんまでハルの姿を舐めるように見て、金剛力士像でも慄くような表情を浮かべる。
「この女性から黒鐘さんの使っているヤツと同じシャンプーの匂いがするんですけど、これ明らかにアレじゃないですか! いわゆる『オレのオンナ』ってやつじゃないですか! このふしだらもの! 尿道から出ずる膿に溺れてしまえ!」
「恥骨を重点的に殴らないでくれ。だから言っただろうギブアンドテイクだって。ほらよくあるだろ、禊ぎの為に協力するとか。香が想像するようなめくるめく関係性は天に誓ってあり得ない」
とクロが窘めるも、香はどこか納得できない様子。
しかし一応客商売。
彼女はハルの真正面に立ち、ちっちゃな右手を差し出して、
「……私は香・アンタレス、この店でバイトをしています。どーぞ、よろしく」
「あ、はあ……私はハルモニア・プリオシン。記憶の欠片を無くしてにっちもさっちもいかなくて、紆余曲折あった末クロに助力してもらってるの。別に貴方が邪推しているような関係ではないからご心配なく……」
「それがほんとーならいいんですけど」
二人から否定されているのに、どうにも香はその言が信じられないらしい。
このまま誤解されっぱなしはもやもやするのでハルは更なる弁解をしようと試みるが、それを諌めるかのようにクロがトングでカチカチと音を鳴らし、二人の注目を一挙に集める。
「俺らの主張は終えたんだし、あとは香が好きなように想像すればいいだろう。否定すればするほど怪しく見えるとも言うし」
「……ええ、そうね。こんな話に対して必死になるのもバカらしいし」
クロと同じようにトングを掴み、店内に並べられたパンを見て回り始める。
ここに来た理由は夕食のパンを買うこと、決してクロとの恋愛沙汰を追求されに来たわけではないのだ。
「ハルも食べたいものがあったらどんどん買ってもいいからな……って、言うまでも無かったか」
「この私に遠慮という言葉は似合わないわ」
ハルの持つトレーの上には多数のパンが並べられていた。
食欲旺盛な成人男性でもさすがに音を上げてしまいそうなほど並べられたパンを見て、クロは静かに財布の中身をチェックする。
「お前その……いささか食い過ぎじゃね? さすがに女子としてその食いっぷりはいよいよヤバい。俺の財布の中身もヤバい」
「だって仕方ないじゃない、どれもこれも美味しそうなんだもの。最大限にまで増幅された食欲によって今の私は獣と化す」
美味しそうなんだもの、という台詞を聞いた香の眉がピクリと動く。
そして頬に僅かな朱を差し込ませながら、己の腰に手を当てて、
「あ、あったりまえですよ! この私が作ったパンなんですからね、味も見た目も触感も匂いも屈指に決まっているじゃないですか! 無論安全な材料を使っているので安心してお召し上がりいただける故!」
「えっ、このパン全部貴方が作ったの?」
「勿論! 仕込みの為に二時に起きて、丹精に一つ一つ作ったんですよ!」
「へー、すごいじゃない! じゃあさじゃあさ、こういうのってどうやって作るのかしら? これこれ、このキャラパンとか!」
「ああ、こういうのはまず大元の形でパンを焼いて、そこにチョコペンやチップ、レーズンとかで装飾を――」
賑やかにパン談義をする二人を見て、クロはブルカ博士みたいな微笑を湛えている。
懐疑の視線を緩和する為には取り入るのが一番、ハルも上手くやっているな――とでも思ったのだろう。
尤も、ハルがそんなところまで考えていたのかは定かではないが。
「香ちゃんはパン焼くのが上手いのね。そういうのちょっと憧れちゃうわ」
「へへー。この私の才能はパンだけじゃないのです、実は服だって作れちゃうのです。その仕切りの向こうにある服は、私がデザインしたものもあるんですよ」
「え、そうなの? ……ていうかそもそもどうして服屋とパン屋が両立しているの」
「元々ここは服屋だったんですよ、店長の意向で奇抜なものばっかりを取り揃えているブティック。でもそれじゃあ売り上げが伸びないって嘆いていたところに、煉獄へ来たばかりの私と出会ったんです」
「じゃあもしかして、住処を提供してもらう代わりにここで助力を……?」
「ええ、私の実家が被服を作っていたから、その経験を基に色々お手伝いさせてもらっているんです。そのおかげか何なのか、このお店は突然の大繁盛。売上もグングン伸びまして、租税もグングン増えまして」
「税の話はいいから」
「そのお金を使って、私のかねてからの夢であったパン屋をオープンしてくれたというわけです。店長も酵母が体内を巡り巡っていそうなほどパン好きみたいですし」
「だとしても両立させるのは何か違うと思うわ……」
はにかみながらこの店について語る香に対して、ハルはどういうわけか妙な親近感を覚えてしまう。
煉獄に来てまだ勝手も分からない時期に住処を提供してもらって、手伝いをしながら毎日を過ごしていく――不思議なことに自分と香の辿った道は同じもの、記憶の有無という差異はあれども、似た境遇に一種のシンパシーを感じているのだろうか。
「香ちゃんも私と同じなのね。……右も左も分からないまま煉獄に来て、誰かに拾ってもらえて、その人の家に住み込みながら仕事を手伝うだなんて。なんか由縁を感じ――」
「やっぱり同棲しているんですか!」
香があらん限りの力で両肩を掴んできて、前後に激しく揺さぶり始める。
その形相はひたすらに必至そう。
「ぬう、煉獄に来たばっかりと言うのを口実にして男の家に転がり込むとはなんたる女豹! ちゃらちゃらした男ばりの手の早さにはもはや感服する他ないです! しかしだからといってその爛れた関係を認めるわけには――」
「違う、凄まじく違うわ。どうして私があんな交通事故の成れの果てみたいな顔の男に恋慕を抱かなきゃならないのよ、それならまだ森の賢者ことオランウータンと類稀なるロマンスを繰り広げたほうが幾分かマシだわ」
「オメー毎度毎度凄まじい語彙で俺を貶すな」
パンの選別を終えたクロが、レジの前から冷ややかな声をかけてくる。
それを見た香が「おっとお仕事お仕事」と言いながらカウンターの裏に回り、レジスターのボタンを幾度か押していった。
「こちら5点で905円でございます」
「顔なじみのよしみでまけてもらえないかな」
「1105円でございます」
「俺たちが共に過ごしてきた時間は200円の損失だったんだな……」
クロは悲しそうな顔をしながら代金を払い、未だにパンを盆に置き続けるハルの方を振り向いてサイフを振った。
「できればこの小銭入れの中にあるお金だけで払いきれる量にしてくれよな。あんまりお金を使いすぎると本来の目的が果たせなくなりかねない」
「本来の目的って?」
という疑問はハルと香の二人から発せられた。
「あぁ実はな……香に折り入って頼みがあるんだが、ハルの衣服を見繕ってもらえないか? 我が家は男の一人住まいだったから女物の服があるわけもなく、急遽今から取り揃えなければならないんだよ」
「成程、そういうことですか。うーん……まあ後上下3セット、下着5つくらいあれば最低限身形に不自由はしないでしょうね。それにあたって採寸採寸」
内ポケットからメジャーを取り出して、香がハルに近づいていく。
そして「ちょいと失礼します」と言いながら身体サイズを上から順に計っていった。レジ前からクロが「バストいくつだった?」と言っていたが無視されていた。
「全体的に平均前後の体型ですし、探せばいくらでも合う服があると思いますよ。ハルさんが自分で服を見て決めます? それとも私が全身全霊を込めてコーディネートしましょうか?」
「そうねえ……まあ服選びのセンスは香ちゃんのほうがありそうだし、一任しちゃおうかしら」
「お任せあれですよ!」
メジャーを懐に仕舞い込み、香が仕切りの間を抜けて服屋のエリアへと移動していく。
すれ違いざまにクロが「ねえバストいくつだった?」と訊いたが完全に無視され、ハルはレジスター脇にトレーを置いて、クロから視線を逸らしつつ言う
「……いつか服代は返すから」
「それに値するほど執筆補助してくれればそれでいいさ。……ま、ここで服は一通り揃えられるとしても、女には他にも色々必須なものがあるからな。面倒だがそれも取り揃えなきゃならん」
「別に……私は必要最低限の物があればいいわ。この身を着飾っていられるような立場でもないし、そういうのに興味があるわけでもないもの」
「その考えはよくねーぞ。えーと……そう、こちらにも被害が及ぶからな。俺の隣を歩いている女が化粧で覆い隠しもしないすっぴんバケモノフェイスだったら、俺のクリーンなイメージが一挙どん底まで転落してしまう。それだけは耐えられない、OK?」
毎度お馴染み、小生意気なことをクロが言い放つのだが、ハルは意外にもムキになって言葉を返したりはしない。
それどころかニヤリと怪しげな表情を浮かべ、挑発するように鼻歌を奏でながらクロの顔をジロジロと見ている。
「……なんだよ」
「いや、べっつにー? あのクロが私に対して気ィ遣っているとかいう状況が、なんかよく分からないけど超楽しいだけ」
「な」と、クロは一瞬言葉を失い、「ナマ言うなハゲ」と吐き捨てる。
決してハゲではないハルは顔を綻ばせ続け、クロが照れ隠しか何か更に言葉を重ねようとした時、丁度香が隣のエリアから戻ってきた。
「おまたせですー。出来得る限りハルさんに似合いそうな服をセレクトしたんですけど、試着室でちょっと試しに着てみてもらえ――あれ、どうしたんです黒鐘さん。ハルさんに気遣いをしようと思ったけど照れ隠しで嫌みな言い方しちゃってでもそれを見透かされてなんか気恥ずかしくなっているかのような顔をして」
「すごく具体的な分析をありがとう。さっさとあのマウンテンゴリラに服でも何でも着せてやってくれないか」
反吐を堪えているかのような表情でクロはそう言い、今しがた買ったばかりのパンを貪り食い始めた。夕飯として買ったはずなのに夜どうするのだろう。
一方してやったりという顔のハルは、上機嫌な様子で香から服を受け取るのだった。
「あら、いいじゃない! モノトーン基調だけど全然地味っぽくないし、新社会人のスーツ並の清潔感! 特にこのムートンブーツのふわふわ! これがもうゆるぎないほど可愛い!」
「ですよね! そのファー人気なんですよ! しかもこのブーツ、色調がこっちのレギンスとすっごくマッチしていてですね、更にこのカーディガンを羽織ればもう完璧! ちなみにファーといえば、こっちのコートにも相当のもこもこが付いていましてですね、これがもう可愛いんですよ!」
「あーいいわね! これもうほんと可愛いわ!」
盛り上がっている二人を尻目に、なんで単なるファーに対して可愛いをあんだけ連呼できるんだ、とクロは思う。
男子的目線だと可愛いという語彙は出てこないし、むしろあのもこもこはむず痒くて邪魔なんじゃないか、とオシャレの欠片すらない考えさえ浮かび上がるのだ。求めるべきは機能性という派なのだろう。
「大盛り上がりしているところ悪いけど、試着するなら早く事を済ませてくれないか。女の長話をまんじりともせず待てるほど、俺は寛容な人じゃないんだ」
「あーそうですね、いつ別のお客様が来るかも分かりませんし、速やかに試着を済ませちゃいましょう。さあさあ、試着室へどうぞ」
ハルと香が仕切りの向こうへ消えていき、パン屋側にはクロが一人取り残された。
彼は誰もいないことを確認すると、服の下に隠れていた首飾りを取り出し、慈しむようにその表面を指でなぞる。
その首飾りは茜色に染まった記憶の欠片で、微かに夕焼けのような光を帯びていた。
彼がそのチャームの脇を指で押すと、首飾りが静かに開いていく。
このペンダントはただのペンダントではなく、ロケットペンダント、中に小物が入れられるタイプのようだ。
その中に仕込まれていたのは黄丹色の光を纏う指輪、彼はその指輪を見て薄く笑い、天井に阻まれて見えないはずの大空を睥睨する。
きっと彼が見つめているのは空の向こう、銀河鉄道の向かう終着駅。
いつか己も垣間見るであろう大いなる天の国……しかし、辿り着けるかどうかは別の話。
目的を果たすならば、きっと自分は――と、クロは虚空を睨む。
手筈通りに事が進めば、己が辿り着くのは天国ではないはずだ。
天国を過ぎた尊い場所で、自分はハルに全てを語るだろう。
ハルがこの煉獄に来た理由を、全てが手遅れなあの『事故』のことを。
それが計画の最終楽章なのだから。
全てはジョヴァンナの為――孤独に苛まれ続けているジョヴァンナに、再び幸せな日常を謳歌してもらう為――。
(元より全てをジョヴァンナへと捧げる所存、例えどれほどハルに情が移りほだされようとも、永遠を望むわけにはいかない。別れの為に仲を深めるなんて、哀し過ぎるから)
恐らく残された時間はそう長くはないだろう。
春を迎える前に、綴るべき三つの物語を完結させ――蒼い記憶を『彼』の元へと還すのだ。
だから、一日一日を深くまで愛さなくてはならない。
全てを終えた後、二度と会うことは叶わなくなるのだから――。




