5章 ブルカ・ケンタウル
「まずは夕食の買い出しにでも出かけるか」
朝食という名の昼食を食べ終えたクロは、食後の蕎麦茶を啜りながらそんな提案をハルに申し出始めた。
今まさに昼食を食べたばかりなのに夕飯の話をし出すとは、というような表情を浮かべるハルに対し、クロは言葉を続けていく。
「お前はこの世界について見聞を広めるべきだろうし、散歩がてらに――そうだな、俺の行きつけのパン屋にでも行こう。それに、あの子とお前を引き合わせたい」
「夕飯なのにパン屋? それとあの子って?」
「質問を同時に繰り出さないでくれるか、俺のCPUは各個処理しかできないんだ。……夕飯に重いものを食べると胃もたれしちゃうからな、パンみたいな軽いものが一番体に合ってるんだ。油っぽいモンなんか、今じゃ一口食べただけでも翌日まで引き摺るね」
「おっさん臭っ」
「言うな、率直に傷つくから。それと二つ目の質問だけど、誰と引き合わせたいかはまだ内緒にしておこう。事前に予告しておいても面白くないし、お前のその『またコイツ隠し事しやがって』みたいな顔を見るのが愉快だし」
「コッチの気持ちが分かってんなら速やかに言え!」
ハルがクロに猫の全力パンチ並の肩パンをぶつけたが、クロは笑って流すだけ。
「あーやだやだ、こういう捻くれた男の人。バフンウニの次くらいに嫌い。そんなんじゃ嫁の貰い手も縁談も全く来ないわね」
「う、うっさい。俺だって現世では反吐が出るくらいモテてた気がするし。俺の死因はあれだぞ、女の子たちの大岡裁きが疑似的な八つ裂きの刑になって死んだんだ」
「見えついたウソを重ねるのは見苦しいわよ。クロが女からピィピィ言い寄られるはずがないじゃない。反面この私は全身からモテフェロモンが分泌されて男が来るわ来るわの大盛況……あれ、なんか記憶が無いのに涙が自動的に……」
「俺もお前ののびのびとした暴言で涙が……」
非モテの二人がしくしく泣き出した。
すっかりお通夜みたいになってしまったムードを打開するような大声で、クロは大々的に言う。
「妄想もうよそう。とにかく外へ繰り出るぞ、後々の為にな。身支度はいいか?」
「身支度も何も、徒手空拳でこの世界に来たのだから身を着飾る必要が無いわ。貴方に女装のケでもあるなら、その衣装を借りるという手もあるけど」
「うーん、ご期待に応えられなくて申し訳ない」
その後、台布巾で机の上を綺麗にしてから、二人は玄関の扉を開け放ち、外の世界へと繰り出て行った。
やはり何度見てもこの街は異常。
各時代、各国の文化がミキサーで混ぜられ一つになったかのよう。
あれから一晩が経過したにも関わらず、ハルはこの世界の景観に強い違和感を覚え続けていた。
外に出てからまず、クロはいの一番に郵便受けの中身をチェックした。
郵便受けの戸を開けた瞬間、中からはらりと手紙が舞い落ちていく。彼がそれを拾い上げて綴られた文字を見て、肩を竦めて苦笑いした。
「また演奏会の出演依頼だ」
どうやら届けられた手紙は全てそういった内容だったらしい。
その便箋を開けることなく、クロは手紙を懐へと仕舞い込む。
「……半信半疑だったけど、ホントにクロって演奏家なのね」
「ああ、演奏会に何度も招待されてるぞ。……そもそもこの煉獄にいる音楽家が少数だからな、俺みたいな青二才でも有数の音楽家になれるってわけだ。実際天国や地獄に行けば己の時代を築いた名演奏家がごまんといるし」
「中学の弱小チームが小学生グループと試合してワンサイドゲームキメていい気になる感じ?」
「間違っちゃいないけどスゲェ腹立たしい喩えだな。とりあえずしばくね」
二人はローキックの応酬をし始めた。
「……」
そんな二人の姿を遠巻きから見ている男性がいた。
彼は黒い装束に身を包んだ高身長の男で、年齢は三十代中盤といったところだろうか、痩せた体躯と血の通っていないような青白い顔はまるでヴァンパイアのようだ。
男は自前の顎鬚を片手で弄りつつ、孫ひ孫を眺めているかのような目で二人の小競り合いを眺めている。
彼の存在に気づいたのだろう、クロはハルとの戯れを止め、その男性に軽く頭を下げた。
「ブルカ博士、御機嫌よう」
クロの挨拶に対して、ブルカ博士も呼ばれた男も会釈を返し、「やあ黒鐘、御機嫌よう」と言葉を投げかけた。
クロはハルに着いてこいと仕草で伝え、ブルカ博士の元へと向かう。
「黒鐘がこんな時間に起きているだなんて稀であるなあ。いつもならまだ上瞼と下瞼が寄り添っている時間であるのに」
「今日からは少々勝手が変わりましてね……時間に厳しい猫を拾ってしまったもので」
「ほほ、成程。君の背に隠れているその女々しき子猫が原因であるか。なんとも実にめでたきものだ、今の今まで女っ気皆無だった黒鐘が、晴れてバディと一つ屋根の下とは」
ブルカ博士はハルの前に跪き、陛下に仕えし兵士のような恭しい様子で挨拶をし始める。
「御機嫌よう麗しき姫御前、我輩はブルカ・ケンタウルという名のしがない博士。その実は愛多き独身貴族、人種・年齢・思想・性別構わず幅広く愛す所存。以後お見知り置きを……」
「は、はぁ、どうも。私はハルモニア・プリオシン、クロとは全然全くあり得ないほど恋人じゃないのでお見知り置きを」
「成程ハルモニア嬢、実に響きのいい名でありますな。もし宜しければお近づきの印に小手調べの成婚でも」
「全身全霊でお断りします」
やはりなとでも言いたげな風にブルカ博士は肩を竦め、クロのほうへと視線を向けて、殺傷能力でもありそうなウインクを一つし始める。
「して黒鐘、何がどうなってこれほど艶やかな女性とねんごろな仲に? 昨日までは孤高のロンリーウルフだったのに、疾風迅雷の如き勢いでモノにしているだなんて驚きでしかなく」
「こちらにも色々と事情があるのですよ。私にとって彼女は必要不可欠なピース、煩悩など微塵もありませんとも」
「奥手なことを言うもんであるなあ。しかし一つ屋根の下に男女が暮せば、否が応でもお互い意識せざるを得ないもの。無論お二人とて例外ではない」
「御忠告どうも、しかし自分は……そのような考えを起こす気などありませんので」
至って真面目な顔で会話し合う二人の間に、「なんかクロ喋り方違わない?」と横槍を入れたのはハルだった。
それに対してクロが「お前相手に堅苦しい喋り方は勿体無い」などと軽口を返すとハルがヒートアップ、またもや二人は口喧嘩を始めてしまう。
ブルカ博士は二人のやり取りを眺め、音も無く静かに笑う。
楽しそうなブルカ博士の様子に気づいた二人が口論を止め、彼のほうへと視線を向けた。
「いやこれは失敬、二人のじゃれ合いが小気味よくて。特にいつも冷静だった黒鐘が、ハルモニア嬢相手となるとやたらムキになるのが新鮮でありますな」
「……お褒めに預かり光栄です」
「ハルモニア嬢も、その見て呉れで中々過激な語彙を発信するところが意外や意外である。美しきブロンドの髪に、吸い込まれてしまいそうに深い蒼き瞳。どこぞの令嬢かと見紛うほどなのに、その中身は中々バイオレンス……そそりますな」
「無断でそそらないでください」
何やら一人で喜んでいるブルカ博士に対し、「ていうか、さっきから気になっていたのだけど……」とハルが言う。
小首を傾げ、ブルカ博士の顔を見ながら「職業博士と言っていたけれど、一体何の研究を?」と続けた。
「どうにも説明し辛いものでありますね……静かな場所で遠くから我輩の考えを人に伝える研究――という内容だが、実際のところそれだけの説明では本質へ踏み込むことなど到底不可能……」
「いわゆるテレパシーとかそういう類の研究なの?」
「恐らくはお察しの通り……しかし正直、自分でも自分が何を研究しているのかイマイチ理解できていないと言えよう。小生が望んで始めた研究でもないし、この研究に果たして何の意味があるのかも皆目分からない状況であるのだ」
どうにも分からないという風にブルカ博士が首を捻るが、ハルにとっては自分こそが一番首を捻るべきだと思ってしまう。
張本人が研究意義を理解していないのに、何故彼は放棄せず研究を続けるのか、それがどうしても理解できない。
しかしブルカ博士はその不可解な事実なんて気にも留めずに、セロのように透き通った声で笑うのだった。
それは憂いなどを全て撥ね退けるかのような、翳りの無い笑い声なのだが、ハルにとってはどこか侘しいものに聞こえて仕方がない。
「ところでハルモニア嬢、何故この煉獄へ? 交通事故か、沈没事故か、火災事故か、……あぁ、心の奥底で錠を閉ざしているなら黙秘でも結構。時折いるのだ、話せないほど重い過去を抱えてあの世に来る者が」
「あ、それが……その、憶えていなくって」
「憶えていない? まさかどこかで記憶の欠片を紛失したとでも?」
「記憶の欠片?」
聞き慣れない言葉が飛び出してきて、思わずハルはクロの顔を見る。
何故こちらを見るんだ、とでも言いたげな顔をしながら、クロはブルカ博士の付けているブレスレットを指し示した。
「ほら、見てみろ。ブルカ博士の手首に何やら端麗なブレスレットがあるだろう。これが記憶の欠片だ。この欠片の中にはな、現世での記憶が込められているんだ。この欠片が無いと、俺たちは現世での思い出を全て喪失してしまうんだよ」
ブルカ博士のブレスレットは――もとい記憶の欠片はオレンジ色に輝いている。
形はビスマス鉱石のように複雑で、かつ奥行きがあって美しく、見つめているだけで吸い込まれていきそうな感覚を覚えるほどだ。
思わずハルはその形状と色調に見惚れ、しばらくの間ブルカ博士のブレスレットから目を逸らすことができずにいた。
別にブルカ博士自身が見つめられているわけではないのだが、彼は少し照れながら、
「この煉獄にいる者は、全員が様々な形でこの記憶の欠片を所持しているのでありますな。この欠片が無ければ右も左もわからず大変なことになってしまうのですが……まあそれはハルモニア嬢自身が一番痛感しているでありましょう」
ハルは神妙な顔をしながら、自分のポケットなどをくまなくチェックしていく。
しかしどこからも記憶の欠片らしきものは出てこず、せいぜい衣服の糸くずがポロポロと落ちるばかり。
「私の記憶喪失は、その記憶の欠片っていうのを所持していないことが原因――ってことになるのかしら」
「恐らくそうなるかと。そうであるな、黒鐘」
「……ああ、そうかもな」
「なら、私が無くした記憶の欠片を見つけ出せたら、私の記憶は再び元通りってことになるの?」
「でしょうな。記憶の欠片は煉獄に来た瞬間、その身に添えられるアクセサリーでありますが故。恐らくハルモニア嬢も最初は身に着けていたんだろうが、どこかで落としてしまったに違いない」
だとしたら、とハルはクロの顔を注視した。
クロは『執筆補助の対価に記憶喪失の原因を教える』と言っていたが、恐らく『お前が記憶の欠片を無くしたからだ』と言う気だったのだろう。
なんてイジワルな男だろう。
それくらい軽々と教えてくれたっていいじゃないの、とどれほど言ってやりたかったことか。
その思いに気づいているのかいないのか、クロは神妙な顔をするばかりだ。
そして窘めるように、
「……しかしな、ハル。あまり得た情報を鵜呑みにし過ぎないほうがいい、お前の抱える事情がそう単純ではない可能性だってあるだろう」
「お、痛いところ突かれた感じ? 対価として渡そうと思っていた情報を先に出されて困っている感じ? ふふん、なんか知らないけど愉悦の限り!」
突破口を見つけたハルは意気揚々、水を得た魚のように晴れやかな顔を浮かべている。
それを見たクロはため息一つ、顔を背けて落とすのだった。
「違ぇってバカ、思わせぶりな言葉なんかじゃねえ。……まあ記憶の欠片が無いせいでお前が記憶喪失になっているのは間違っちゃいねーけど、俺がお前に報酬として与えようと思っていたのは別のコトだぞ」
「え、そうなの? パチこいてない?」
「十代の女子がパチとか言うなよ。マジマジ、俺は比較的嘘を付かないタイプの人間だから」
そこでブルカ博士は自分の腕時計を見て、尻尾を踏まれた猫のような声を上げた。
そして慌てながら二人に対して頭を下げる。
「申し訳ないが、明くる日の仕事の準備が我輩を縛り付けているもので、そろそろお暇させていただきましょう。ハルモニア嬢とはもう少し話がしたかったけど、それは後日の太陽に見守られながらということで。ではさらば両人、くれぐれも既成事実は作るんじゃないぞ!」
そんなことをのたまいながら、ブルカ博士はどこかへ走り去っていってしまった。
バタバタと騒がしい足音が小さくなっていき、やがて全く聞こえなくなってから、ハルが腕組みをしながら言い放つ。
「テレパシーっぽいものについての研究をしているのに時間に追われるの?」
「彼はその研究こそしているけど、それじゃあ生計を立てるのは難しいらしいからな。本業は牛乳屋でのアルバイト、毎日家々に搾りたての牛乳をお届けしているらしい」
「研究者っていうのも中々世知辛いものなのね……」
なんとなく侘しい気持ちになりながらも、どちらともなく二人は歩き出した。




