4章 その名は星冬
その夜、ハルは拵えられた部屋で窓の外を眺めていた。
クロに与えられたのは中々上質な部屋で、ふわふわのカーペットにマホガニーのタンス、天蓋ベッドまで設置されている。
どうしてリビングの家具があれだけ無機質というか、高級さを求めていなかったのに、この部屋だけやたら拘りがあるのかは謎だ。
(もしかしたら元々、この部屋は誰かが住んでいたとか……もしくは誰かの為に用意されていたのかもしれないわね)
思い当たるといえば――というかクロとハル以外で知っている名前といえばこれしかないのだが――ジョヴァンナとかいう人だ。
クロには似つかわしくない高級な家具、それもどこか女性が好みそうな色彩だし、少なくともクロ以外の誰かの為に存在するということは間違いない。クロがお姫様の好みそうなピンク色の天蓋ベッドを自分用に買っていたとしたらヤバい。
黒く染まった煉獄の街――イーハトーヴを一望しながら、ハルは静かに息を吐き出した。
冬に差し掛かった今、吐いた息は白くけぶり、可視状態で天へと昇っていく。
しかし空で揺らぎ、ぶれて、天と地の狭間で消えてしまう。
窓を開けていれば寒いけれども、窓を閉めれば妙な閉塞感で心が締め付けられる。
その両方を天秤にかけた結果、ハルは前者を選んだのだった。
何故閉め切った部屋の中で苦しみを覚えるのかは分からない、分からないけれども、理由の如何に関わらず事実として苦しいのだから忌避する他ない。
手を伸ばして指先に外の風を浴びた。
凍えるような強風が吹き付け、指が千切れそうなくらいに軋み、痛む。
その痛みが一番顕著に、今自分が感じている全てが現実のものであると告げていた。
白昼夢ではない、幻想でもない。
自分は今ここにいる、煉獄の街、イーハトーヴに存在している。
今一度確認しなくてもそんなことは明白だと思っていたのだが――どこか不安になってしまう。
瞳を閉じれば、海馬に絡みついた記憶の茨がこの身を痛めつけた。
この身が焼き切れそうなほど痛む心、胃の中のモノが逆流しそうなほどの孤独感。
死の直前に感じたクオリアだろうか、他のデジャヴより色濃くこの身に襲い掛かる。
それを払拭するように、ハルはもっと遠くまで手を伸ばした。
ハルの白くて長い手が闇夜に包まれる、もしかしたらそう、『あの時』みたいに彼がこの手を掴んでくれるかもしれない。
霜焼けを起こしてしまったあの日のように、高熱を出したあの日のように。
尤も、その彼の名前すら今は思い出すことが――。
「……何してんだ、お前」
突然背後から声をかけられ、口から五臓六腑が飛び出しかねないような勢いでハルは驚愕する。
振り向いて、クロの顔を見て、吐きかけていた弱音が胃の奥へと引っ込んでいった。
クロは迷うことなくハルに近づき、今の今まで外の風に当てていた手を握りしめる。
「いやホント何してんだ、手震えてんじゃねえか!」
鋭い寒気から護るかのように、クロはハルの手を強く握る。
彼の熱が伝わって、急な体温の変化で指先が痺れた。
感覚が一挙に奪われて動かせなくて、彼の手を振りほどけなくて。
口が自分の意思と乖離して、勝手に言葉を紡ぎ出す。
「『そんなことしたら霜焼けするに決まってるだろ』?」
「……ッ」
その言葉を口にした瞬間、クロの表情が変わった。
目を見開いて、息を呑んで、二の句が継げなくなって、ただ押し黙ることしかできなくて。
「え、あれ……」
言葉にした張本人のハルは戸惑い、狼狽えるように視線を彷徨わせた。
無意識の内にこぼれ出た一文が心を揺さぶる、隔てるものなく率直に彼女の感情を震わせる。
そして仄かに記憶の奥底で煌めき、輝くモノを見た。
誰かが自分の手を握っている映像、それが心の試写室で静かに再生される。
赤銅色の髪を持つクロとも、ブロンドの髪を持つ自分とも似つかない、真っ黒な髪をした一人の少年が、まさに今自分が無意識的に落とした言葉と同じようなことを言ったのだ。
この少年の正体は分からない。
だけれども酷く懐かしい。
思い出すたびに心の中で暖かい想いが広がって、どうしようもなく鼓動は速く打たれる。
もしかしてこの少年は、現世で自分と……?
「……忘れてなかったのか、あいつのことを……」
静かにそう呟いて、クロはハルの手を離した。
そしてハルの言葉を拒むように背を向け、吐き捨てるような口調で言う。
「……さっさと寝ろ、明日は色々やらなきゃならないんだからな」
「あ……ちょっと待って!」
立ち去ろうとしたクロの背に声をかけながら、ハルは彼の手首を掴んだ。
それを撥ね付けるかのようにクロは睥睨し、ハルは一瞬怯みながらも彼へ追究する。
「あいつって誰なの?」
「……あいつの言葉を憶えているなら誰なのかくらい分かっているだろ」
「た、確かにそうだけど、あれは無意識で……貴方は知っているんでしょ、その人のことを。そんな顔をしているもの!」
クロは舌打ちをしながらハルの手を振りほどいた。
そして答えるのも億劫だというように、
「……星冬って野郎だ」
それ以上の言葉を遮るように、有無を言わさぬ荒々しさで扉を開け、クロはさっさと出て行ってしまう。
一人残されて、ハルはただ呆然とするばかり。
頭の中で情報が処理しきれなくって、到底自分のものではないような感情に襲われて、頭の奥底が酷く傷んだ。
胸中で蠢く純粋な想いだけがただ震えている。
顔すら思い出せない誰かへの背徳的な気持ちだけが、ただただ儚く……。
窓から黒い空を見上げて、ハルは胸の前で強く拳を握りしめた。
霞がかった優しい思い出を噛みしめるように、失うまいとその尾を掴んでいるかのように。
黒鐘家に来た初日――まだハルは、真実の面影すら思い出せはしなかった。
*
翌朝――と呼ぶにはおこがましいほど、時計の針は進んでいた。
現在の時刻は十時半、もう昼に片足を突っ込んだ時間で、一般人ならば既に起床し各々すべきことをこなしているはずだ。
しかしクロは寝ていた。
すやすや寝ていた。
この上なく甘美な時間を過ごしているとでも言いたげに幸せそうな顔をし、完全なるノンレム睡眠状態、放っておけば向こう数時間は寝続けるだろう。
「……」
そんな彼を見下ろしているのは他の誰でもないハルだ。
いつまでも頑なに眠り続ける家主に対し、何か人として可哀想なモノを見るような目で見続けている。
だがこのまま眺めても起きない上になんか見ている内に刻々と嫌気がさしてきたので、ハルはクロの肩を掴み、大相撲のような勢いで揺さぶり始める。
「クロ、この際起きなさいよ」
「どの際だよ……」
ハルの揺さぶりを避けるように、クロはベッドの上でローリングして布団を体に巻き付ける。
まるで蓑虫のような同居人を見て、ハルはあんまりなみすぼらしさと幼稚さに深い悲しみさえ覚えてしまう。
「仕方ない……早々に荒っぽい手段は使いたくなかったけど……」
筆立てに差してあった鉛筆を引っ掴み、クロの尻辺りに躊躇なくブッ刺した。
「ぎゃォ!」
掛け布団越しだとしてもその威力は甚大、クロは断末魔を上げながらベッドの上を跳ね回り、涙目でハルの顔を見上げた。
「止めろ。喧嘩なら後で盛大に買うから、今はちょっと暴力とかしないで」
哀れな男にちょっと引いたハルにシャーペンを投げつけ、クロはチンピラみたいな表情で一生懸命お願いした。
だが対するハルは知らん顔。
自分のブッ刺した鉛筆を筆立てに戻し、フン!とクロと鼻で笑いながら、
「さんざ起こしたのにいつまでも惰眠を貪っているほうが悪いでしょうが。そんな役立たずの耳なら明朝にミミガーと取り換えてやろうかしら」
「うっせい、こちとら起こされた記憶ねーよ。ていうか何時だ今……は、十時半ン!? おいお前何を血迷ってこんな早朝に起こしたんだ、理由によってはVシネに出てきそうな暴力的手段で報復する」
「十時半は昼でしょうが、そろそろ起きなさい! 起きないと今ここで家の土地権利書を奪って権利を主張するから!」
「朝っぱらから大声出すの勘弁してくれ。俺は眠いんだ、クワガタムシ並に夜行性なんだ。AMなんぞに目覚める義理は無いね、ぐう」
「このうつけ者が……寝るのはいいけど、食事どうするの食事! 冷蔵庫の中身はもはや私の記憶並にカラッポよ」
「うそ、マジで……」
梅干しとどっこいどっこいなほど渋い顔をしながら、クロが緩慢な動きで上半身を起こした。
寝起きの子供みたいに大きな欠伸を一発かまし、まだ夢の渦中にいるかの如く胡乱な目で壁を凝視し続ける。
彼と壁の間に割って入り、ハルはため息一つをついた。
「……どーしてこんなに遅起きなの。午前の心地いい時間を寝て逃すだなんて、人生の十割を損しているとしか思えないわ」
「夜だからこそ綴れる物語や浮かぶアイデアもあるんだよ。俺にとっての夜は珠玉の時間でな、童話を練るには適した時間なんだ」
しょぼしょぼと目を擦り、ようやくクロがベッドから降り立った。
床には幾枚もの原稿用紙が散らばっていて、クロとハルは原稿を踏まないように気を付けながら歩く他ない。まるで地雷原のようだ。
「踏みたくないんなら、床に散らばらせなければいいのに」
とハルがぼやく。
全く以って言う通りであるがクロは何故か不遜な顔をし始めた。
「気分の問題だよ。書き上げた原稿は後方へ投げたくなるんだ、そうだろ?」
「いや同意を求められても、私文章未経験者だし……」
ハルはしゃがんで一枚の原稿を拾い上げ、そこに綴られている文字列を目にした。
……その凄まじい文章を目にしてしまった。
『ぼくはいいました。「そこのひとよ。ぼくのはなしをきいてください」。でもつうこうにんはぼくのことばをむししてたちさりながらさってしまいました。ぼくはそのせをおいついせきしましたが――』
やるせない表情になった。
「えっ、なにこの園児でさえ目を覆って嘆くような文章は」
「驚いただろ、それが俺の文章力だ。読むだけで国語力がグングン低下すると巷でも専らの評判! 三歳児には鼻で笑われ、俺の作品を読んだ随筆家をあまりの衝撃にスランプへと陥らせ、この原稿用紙はケツを拭くために使ったほうが資源の有活用だろうとまで蔑まれた至高の一品! それを見れば、何故俺がお前をアシスタントとして雇ったか重々理解できるだろ」
「うん……骨の髄にまで理解したわ」
ジョヴァンナの情報を得ることが目的で、アシスタント云々は単なる建前――という考えだったのだが、ハルはその認識を少し改めるハメになった。
無論ジョヴァンナ関連が第一目的ではあるのだろうが、童話作りの手伝いもあながち期待していない訳じゃないんだろう。
「これで役割がハッキリしたな、俺は文章力が童子以下だから、お前に代筆を頼みたいんだ。俺の考えた話をお前が筆先で再現する。簡単な話だろう?」
「ええ、この上なく単純明快……誰かの考えを他人が表現するならば、そこには必然的な齟齬が発生するでしょうけど、それを加味したとしても私が書いたほうが完成度は上でしょうからね」
「まあできればそういった齟齬は最低限に抑えてもらいたいがな。なんせこれから俺らが紡ぐ物語は、微細な撚れでさえも大きな影響を及ぼすもんだし」
そう言いつつ、クロは扉のノブを握った。
「さーメシだメシだ。すっかり目も覚めたし食うぞ。俺も手伝っちゃおう」
「いや、だから食材が無いんだって」
「多分戸棚の奥底にレトルトパウチ食品があるだろうから、そいつで茶を濁そう。賞味期限はヤバいかもしれんが食べないよりはマシだろう」
クロが部屋を出て行き、ハルもその後に続く。
彼らの立ち去った部屋には、ただ原稿が散らばるのみ。
その原稿は目も当てられないほど酷いものだ。
本人が認めるほどなのだから間違いない。
ハルが助力することになった今、これらの原稿に関心を寄せる必要は無い。
ただ一つ、この部屋の中で一つだけ、異彩を放つ作品があった。
それは縦縦横横に十六分割され、ゴミ箱の中に突っ込まれた原稿用紙だ。
……この用紙にも、赤いインクで大きなクロスステッチが綴られている。
そこにはクロが書いたと思われるサインが刻まれていた。
しかしその文字は解読できないほど歪み、文字というよりは何らかの記号だと受け取ったほうがしっくり来るほどだ。幼児の落書きと言われても納得してしまうだろう。
しかしそれは計画を遂行するために必要不可欠な紋章。
現実世界への架け橋と成り得る、神より授かりし文字列。
この紙はその印を練習するために使われたものだ。
やがてクロは童話に証を刻印し、それを以て完成とするはずだ。
それも全てシナリオの内、彼もまた規定通り行動しているだけに過ぎない――。




