3章 これから二人が生きる場所
契約を交わした二人が訪れたのは黒鐘家だった。
聳え立つその大きな家を見上げ、ハルは感嘆の息を漏らす。
クロの家は一人暮らしするにはあまりにも巨大、日本有数の大家族が移住したとしても快適に暮らせそうなほどだ。
「どや、俺の家でかいだろう。どや」
鼻高々に自慢してくるクロを無視して、ハルはさっさと玄関の扉を開けようとしたが、厳重な施錠が彼女の侵入を阻む。
「クロ、こうなったらぶち破るわよ!」
「やめろ、マジでやめて。ここに鍵あるから」
クロが懐より鍵束を取り出し、開錠して扉を開け放った。
家の中身は外観と違って庶民的、どこにでもありがちな薄暗い廊下が続いている。ただし家のサイズに合わせてか、廊下も扉も一般家庭より一回り大きい。
クロに促されるままハルは家の中へ立ち入り、奥へ奥へと進んでいった。
「……」
廊下を歩く最中、ハルはどこか懐かしい――かつてこの身に刻み込まれた感覚を――嗅いだことのある薫香を思い出していた。
記憶のどこにも存在しない過去に誘発される既視感、心の深淵から湧き出た微かなるデジャヴ。
かつて私は――この匂いを嗅いだことがある――?
しかしその疑問に答えが提示されることはなかった。
立ち止まってしまったハルの背を、クロが軽く押し、先へ進めと催促したからだ。
我に返ったハルは廊下の突き当りに取り付けられた扉を開け、リビングへと立ち入る。
リビングの中は、その広さとは裏腹に殺風景だった。
テレビ、机、椅子数個、ソファー、ただ生活に必要な家具が置かれているだけ。
気の利いたインテリアや遊び心は一切無くて、クロが生活しているにも関わらず、生活感を一切感じることはできない。
まるで心理的瑕疵有り物件の如く、居心地が悪いというか、仮住まいに足を踏み入れたような気分だ。
「……ここ、本当にクロの家?」
「勿論。まあ正直な話、食事を摂る時以外は自室に籠っているから、そう訝しむのも無理はないけど」
とか言いながら、クロはソファーにかけてあったエプロンを引っ掴み、手慣れた動作で装着する。
やや引き締まった体と可愛らしいエプロンが妙にミスマッチしていて、ハルは隠れて静かに噴き出す。
「時間も時間だし、さっさと夕飯作るぞ。お前料理できるよな、できろ。台所の白い引き出しに新品のエプロンが入っているから、それ着て料理の手伝いをしてくれ」
「はあ、まあいいけど」
できるよなと訊かれても記憶が無いから回答できないのだが、とにかくハルはエプロンを着て、クロと共に台所へと入っていった。
「んじゃハル、何が食べたい。正直なところ俺はカップ麺くらいしか作れないけど何が食べたい」
「ベーシックにカレー、あと野菜炒めとかでいいんじゃないかしら。それくらいなら貴方でも作れるでしょ?」
「……」
悲壮感溢れる表情を浮かべながら、クロは健気なサムズアップをして見せた。実に頼りない男である。
怒涛のため息をつきながらハルは冷蔵庫の中から食材を取り出し始めた。
カレーといったらやっぱりジャガイモ、ニンジン、タマネギ、カレー粉、そして肉。
必要最低限の食材はあったので、早速ハルは料理の準備をし始めた。まるで最初からハルが来ることが分かっていたかのように、家事をしない男の家に食材が揃っていたことはなんだか不気味ではあるが。
調理器具も全て取り揃えられている、料理で不自由することはないだろう。……アホみたいな顔でマッシャーを握っているクロを除いて。
こいつは確実に役に立たないだろう、と目を細めるハルを尻目に、クロは包丁を取り出して息巻いている。
「とりあえずクロは食材を切って頂戴」
「任せろ。この俺は刃物の扱いには非常に長けているともっぱらの噂だぞ。得意技は切腹と指詰めだ」
「得意技は発揮しなくていいからただちに」
クロが食材を切っていく。しかし食材の大きさはバラバラ、包丁も何故か日本刀を扱うかのような握り方。
見ているハルがゲンナリするほどには下手糞だ。
「……あー、私はフライパンに油を敷くから、クロは油売っていていいわよ」
「待て、早々に見切りをつけるな。俺だってやる時はやるんだぞ。雑用でもなんでも与えるがいい」
「はあ、じゃあまあその、洗い物やってもらえるかしら。いつのものか分からない食器が積み上がっているし」
「任せろ」
意気揚々と立ち上がったクロが、躊躇することなく食器を洗濯機にブチ込んだ。
「何もできないなら座ってなさい!」
落ちていたスリッパでクロの頭をシバき、ハルが単騎でカレー作りへと勤しみ始めた。
その手捌きは手慣れたもの、記憶は無くても沁みついた技術は消えないのだろう。
「全く、今の今まで一人暮らしをしていたくせに、なんで料理の一つもできないのよ。今までどうやって飯食っていたか気になるくらいだわ」
「冷凍商品とコンビニ弁当のバディに支えられてた」
「なるほど道理で、一人暮らし男性の典型的な食生活だわ。……簡単な料理くらいなら教えるから、ちょっとはマトモなモノ食べなさいよ。私がいつまでもここにいて、貴方に手料理を振る舞えるわけじゃないんだから」
「……ああ、そうだな。いつまでもここにいられるわけじゃないんだからな……」
意味深に笑いながら、クロはとりあえず食器を並べ始めた。
ハルに背を向け、その表情を隠しながら。
(そうさ、お互いいつまでもこの場所にいる気なんかない。計画の要であるお前が来て、ようやく全てが整ったんだからな)
湧き出る期待と高揚感をひた隠して、クロは密かに笑う。
そして横目でハルの背を見つめる。
今はまだ知らなくていい、彼女はただ平穏な日々を過ごせばいい。
長いものに巻かれているんだ、計画の通りに過ごしていくんだ。
(頼むぞハルモニア……煉獄世界を抜け出して、現実世界へと生き返る為に……)




