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2章 怪しき誘いと協力関係

 二人はそのまま歩き続け、街角でひっそりと営業しているカフェへ入った。

 彼は「コーヒー二つ」と店員に告げてから、一番奥側の目立たない席に座る。


「……」


 連れられた少女は懐疑的な目を黒鐘に向けてから、その対面の席に腰を下ろした。

 真正面から彼女の瞳を見据え、黒鐘は敵意の欠片すら与えないよう朗らかに笑う。


「この店はどうだ、俺の行きつけの店なんだが。落ち着いた雰囲気もさることながらコーヒーの味も絶品、豆はブルマン、中々高級な豆なのに値段はさほど高くない。お前もきっと気に入ると思うぞ。礼儀としてはそのうちコーヒーが来るからまず香気を鼻腔に誘い入れ、ブルマンの微弱な香りを――」


「お、お前……?」


 初対面にもかかわらず急に慣れ慣れしい呼び方をされて少女がやや眉を顰めたが、黒鐘はそんなこともお構いなしに講釈を垂れている。


「お、お前って貴方、初対面の人相手にそんな乱暴な呼び方を……」


「なんだよ、細かいこと気にするなよ、お前も俺のことを思いのまま呼んでくれて構わないぞ。先んじて言っておくと俺の名前は黒鐘・アルビレオ。くーちゃんでもあーちゃんでもくろちゃんでも……」


「……クロ、今こっちは愉快に談笑している余裕はないの。だからその道化師みたいな笑みを引っ込めて頂戴。とりあえず貴方が私をここへ連れてきた理由をお聞かせ願いたいわ」


「せっかちだなぁ」


 黒鐘は――クロは少女の意に反して、三者面談をしている教師みたいな微笑を湛え、言葉を紡ぎ続ける。


「あー……理由を述べる前にまず訊いておきたいんだけど、お前は今自分が置かれている状況についてどれぐらい把握しているんだ? どうやら急な展開が続いて、記憶が混乱しているみたいだけど――」


「……全く分からないの」


 憂いを含んだ声で彼女はそう呟く。


「自分が誰なのか、ここがどこなのか、何故私はこんなところにいるのか。……何もかもが分からない、思い出せないのよ」


「名前でさえも、過去でさえも?」


 少女の頷きを見て、クロは神妙な表情になる。


「……そうなると厄介だな。記憶が無いんじゃ生きにくいだろう。特にこの世界においては、記憶の欠如なんていうのは致命的過ぎる」


「あの」と、クロの呟きを強い口調で断ち切り、少女は「さっきの男たちも“この世界”と言っていたし、あなたも今“この世界”って言ったわ。何、何なの、まさかここが何かおかしな世界だとでも言うの?」と詰問するように訊く。


「ご明察、ここは類稀なる異色の世界だ。現世じゃない。煉獄っていうんだ、一度くらいは聞いたことあるだろ? ……あーそうだ、お前は記憶喪失なんだったな、そういうことも忘れたのか」


「いや、忘れたのは自分の名前や過去とか、そういう自身に関係することだけで、社会的な知識はちゃんと頭に残ってるけど……」


「そうか、そういうの全生活史健忘って言うんだっけか? まあいいや、とにかくここは死後の世界なんだ。死んだ人間は大体生前の罪によって天国へ行くか地獄へ行くか決まるって言うだろ。でも罪はあれど地獄に落ちるほどでもないっていう人間はこの煉獄へ堕ちてきて、日々の善行によって生前の罪を禊がされるんだ。罪を清め終えたら晴れて天国へ行けるっていう流れなんだよ」


「じゃあ、……私も貴方も、もうすでに死んでいるってことなのね」


 突然告げられた衝撃の事実に驚きを隠せず、少女は瞳を閉じて現状を咀嚼する。


 突拍子もない話だが、文化が交錯するこの世界はとても現世のものとは思えない。

 仮に現世のどこかにこのような場所があったとしても、異質過ぎて広く知れ渡ってしまうはず。

 しかし今まで存在を知らなかったということは――やはりクロの言い分は正しいのだろう。


 誰だって自分の死をすぐに受け入れることはできない、できることなら一人になってその悲しみとショックに呻きたいくらいだろう。

 しかしここで停留している場合ではない、嘆くことなら後でいくらでもできるが、現状を知るタイミングは今しかないのだ。


 狼狽をおくびにも出さないようにしながら、少女はクロに先を促す。


「でまあ、ここは罪を禊ぐ為の場所なんだが、各々何の罪があるかは自分自身で気づかなきゃならないわけだ。だけどホラ、お前は記憶が無いだろ? 己の罪さえ思い出せないわけだろう」


「記憶を取り戻さなくちゃ、この煉獄から出られない……?」


「つまるところそういうワケだ。でもこの世界も悪くはないぞ、時折天国に行き渋る奴が出るくらいにはな。幸か不幸かここでの時間は無限大。ゆっくりと記憶を手探りしつつ、煉獄での生活を楽しむのも手だと思うけどな」


 まあ記憶を無くした状態で楽しむなんて難しかろうけど――なんてことを言いながら、クロはカウンターのほうをちらりと見る。

 注文したコーヒーが中々届かないことを気にしているのだろう。


 その期待に呼応するように、ウェイトレスがコーヒーを二人のほうに持ってくる。

 クロは待っていましたと言わんばかりに喜んで、学生バイトらしきウェイトレスに軽く頭を下げながらコーヒーを受け取った。


 二人はカップの取っ手を掴み、仄かに漂う匂いを確かめてから、コーヒーを口の中へ注ぎ込む。

 先に口を離した少女がカップをソーサーに置き、未だ喉を潤し続けているクロに訊いた。


「この世界については大体理解できたけど、……どうして貴方は私にそれを教えたの?」


 クロは苦みと豆の味を味わってから、コーヒーを呑み込んで喉を鳴らした。

 そしてあっけらかんとした様子で「この世界について知らないらしいから」と返す。


 しかしその返答が気に入らなかったのだろう、少女は首を横に振った。


「私が言いたいのはそういうことじゃなくて、どうして私にここまでするのかってこと。駅で私を助けた一件にしても、今現状を教えている一件にしても、初対面の相手にしては少々親切心が過ぎるんじゃない?」


 心の奥底まで探るような視線をぶつけ、少女は返事を待つ。

 幾ばくかの時間を置き、様々な思考を巡らせてから、クロが静かに返答した。


「単なる老婆心――と言っても信じないだろうし、正直に話そう。ここで『何故お前をここに連れてきたか』っていう最初の質問に戻るんだが、実はお前に一つ訊きたいことがあってな、それをゆっくり聞くために落ち着ける場所へ移動したというわけだ」


「訊きたいこと? ……記憶喪失である私に何を訊いても、意義のある返事はできないと思うけど」


「ああ重々承知さ、自分の姓すら知らないお前から収穫があるとは思えない。でも訊かざるを得ないんだよ、俺のか細い希望を繋ぐ為にな」


 深い息を一つ吐いて、手元のコーヒーをもう一口だけ煽ってから――クロは問う。


「ジョヴァンナ、っていう名前に聞き覚えは無いか」


 クロの表情は至って真剣。


 だから少女もそれ相応の態度で記憶の海を辿り、該当する記憶を引っ張り出そうとしたが、ただ泡沫が漂うばかり。

 思い出せることなんて、せいぜい銀河ステーションで意識を取り戻してから現在に至るまでの短い時間だけ。


 彼女は諦めて首を横に振った。

 それを見たクロは当然だろうと軽く笑って見せ、顔を伏せて表情を隠す。


 隠された顔には無念の想いが渦巻いているのだろうか、なんにせよ、よほどそのジョヴァンナという人に思い入れがあるのだろう。


「そのジョヴァンナっていうのは、恋人さんか何か?」


「恋人なんかじゃないが……妹分みたいな面白いヤツだった。……まあ色々あってな、アイツについての情報を集めていたんだ。それでお前にも聞き覚えが無いかどうか訊いておきたかったから、役所のヤツらから助けたってだけのことさ。あいつらに拘束されると、中々シャバには戻してもらえないからな」


 無意識なのかそうでないのかは定かじゃないが、クロは木製のテーブル上に指先で円を描いている。

 少女はなんとかしてジョヴァンナについてのことを思い出そうとするが、考えれば考えるほど混乱してきて、その人を知っているようにも知らないようにも思えてくるのだった。


 仕切り直すかのように、クロはコーヒーを威勢よく飲み干して、少女へ言う。


「さてまあ、今の状況に関してはそういう感じなんだが――次は『ここまで』じゃなくて『これから』の話をするか。記憶を無くして四方も八方も分からないままお前は今ここにいるわけだけど、記憶を取り戻すまでどう凌ぐか、そのアテは勿論無いわけだよな」


「そうね。頼れる知り合いもいなければこの世界の勝手も分からないまま、随分と逼迫した状況よ。まずは塒を探さなければ命が危ないわ、……ああ、もう死んでいるんだっけか」


「ああ、死後の世界であるここでは『死』という概念が無いにせよ、今の時期路上で一晩を過ごせば風邪を引くことは必至だな。そこでスペシャルな提案だ、お前は俺の家に来るといい」


 クロがニヒルなウインクをかます一方、少女は心からの渋面を浮かべた。


「なに心配することはない、衣食住付き、無論金なんかせびらん。オマケにお前には部屋を一室与えてやろう、使っていない部屋がいくつかあるからな。……まあそのためには、一つ俺のお願いを聞いてもらわなきゃならないんだが」


「あーホラ、やっぱりここぞとばかりに交換条件出しやがったわね」


 この上なく不快そうな表情を露わにし、少女は指をクロの眼前に突き付けた。


「薄々感づいてはいたのよ、ここまで初対面相手に親切をするってことは何か裏があるはずって。今ようやく分かったわ、こうして人は怪しい商売とか怪しいお店への斡旋を受けるのね。全く死後の世界にもキャッチセールスしてくる不届き者がいるだなんて」


「したり顔で不名誉なことを言うのは止めてくれ。俺はそういうマルチや風俗業への導き人なんかじゃなくて、もっとこう、あっぷあっぷなカンダタに糸を垂らすような優しい人間なんだよ。お前はもう少し俺のアルカイックスマイルを信じてくれたほうがいい」


 そんなことをクロは詐欺師みたいな笑顔を浮かべつつ言い、そして


「俺がお前に頼みたいのはな、夢の実現への助力だよ」


 と、なんだか漠然としたことを言い始める。

 少女は憮然としたような表情を浮かべながら「夢の実現への助力?」とクロの言葉をオウム返しするのだった。


「今俺はまぁ……音楽家として活動しているんだけどな、本当にやりたいことは違うんだ。ぶっちゃけて言えば、うん、童話作家ってやつだな」


「童話作家……?」


 再び言葉を繰り返し、クロの顔を見て、少女は軽く噴き出した。


「今俺の顔見て噴いた? 童話とかのメルヘンチックなものとほど遠い顔面なのは自覚してるけど、顔に関しての攻めは涙が滲むから止めろ。……それでな、お前にはその童話制作を手伝ってもらいたいんだ」


「童話制作ねえ……とはいっても、私は文章活動において恐らくズブの素人、力になれる箇所のほうが少ないと思うわ」


「そんなことはないさ、最低限の国語力があれば十分頼もしいからな。さてどうする? 俺の文章活動を手伝って十二分な生活を送るか、この誘いを白紙にして煉獄を彷徨うか。選ぶのはお前だぞ」


 しばしの間、自分の口元に手を添えながら少女は悩み続けた。


 素性も知らない男の家に寝泊まりするだなんて危険が過ぎるけど、ここまで美味い話はそうそうない。

 金も無ければ身分も無い現状、もし十分な生活を享受したいなら、それこそウリに手を出すしかないだろう。


「あー、ちなみに先んじて言っておくと、この世界で罪を重ねる――例えば無理矢理女子に手を出すとか――そういうことをしようとするとな、即座に地獄へ堕ちるシステムになっているから。ホラここ、罪を禊ぐための場所だし。だから貞操の面では危ぶむ必要ないぞ」


「それは安心する情報だけど……やっぱり貴方の世話になるのは止めておくわ。確かに私にとって好物件だけど、美味い話には裏がありそうだもの」


「そうか、随分と用心深いな。……じゃあこちらももう少し見返りを積まなきゃならないか」


 クロは彼女の顔を見上げ、深く、どこまでも深く、相手の深層心理まであなぐるような目つきをして言う。


「じゃあ、もしお前が俺の創作活動に十分な貢献を見せた場合、お前の記憶喪失の原因を教えてあげようじゃないか」


「……ッ!」


 少女は双眸を瞠り、クロの顔を見返した。


「貴方は、私がどうして記憶を失ったか、知っているの……?」


「まあ一応な。さてどうする? もしお前が俺に助力するならば、俺の知る情報を全てお前に与えるが」


「……それは確かな情報なのね? もしあやふやな情報で私を釣ろうってんなら――」


「断言しよう、俺はお前の死因、そして記憶喪失の原因について把握している。そして全ての情報を見返りとして提供する所存だ。この場で確約するさ、もし約束を反故にするようなことがあれば、俺の体を一晩好きにしていいぞ」


「なんでそんなこちらに利益のない反故条件を……」


 少女はクロに疑いの視線をぶつける。


 ……こんなに美味しい見返り、童話制作の手伝いだけで与えられるとは到底思えない。

 恐らくクロの思惑はもっと別、今はまだ秘匿にすべき魂胆があるはずだ。

 そこまで読めてはいるけれど、それでも対価は魅力的。


 それに自分がここまでの待遇を得るには、恐らくクロの口車に乗るしかない。

 色々総合して弾き出された結果は――鬼が出るか蛇が出るかは分からないが――己が欲す情報を持った彼に依るべきだろう。


「……いいわ、貴方の魂胆に乗せられてあげましょう。貴方に私の身柄を委ねようじゃないの」


「よーし、賢明だ。その英断を心から称賛しよう」


 満足そうな笑みを浮かべながら、クロは少女へ手を差し伸べた。

 それが親交を深めるための握手だと少女は遅れて気づき、おずおずとその手を握り返す。


「これからよろしく頼むよ、えーと……そうだ、名前、まずは名前がないとやりにくいったらしょうがない。この俺がお前に相応しいネームを授けようじゃないか。可愛らしい名前思いつかないから戒名みたいなのでいい?」


「そんなけったいな名前つけられるなら、美少女ヶ原愛子とかでいいわ」


「それは誇張表現が過ぎるし、そうだな……お前にピッタリな名前は――うん、ハルモニアっていうのはどうだ? ハルモニア・プリオシン、どう?」


「まあ先ほどの案よりは幾分かマシね。でもやはり私としては美少女ヶ――」


「よし、ハルモニアで決定だ。そのまま呼ぶのも長いから“ハル”と呼ぶことにするか。構わないだろ?」


「……ええ、異論ないわ」


 心底異論ありそうな顔をしながら、少女は――ハルは頷くのだった。


 この日から、彼ら二人の物語は始まった。

 述懐すれば長くも思え、短くも感じる輝かしき日々。

 彼らにとっては間違いなく、……死してようやく手に入れた、切望の刻。


 しかしそれはやがて風化し、忘れ去られなければならないひと時――。


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