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1章 煉獄での邂逅

 雪が降るだろうな、と黒鐘(くろがね)は澱んだ空を見上げながら思った。


 空には鼠色の雲が敷き詰められ、太陽光を街に与えない為の防護壁として機能している。

 時折聞こえてくる雷鳴、仄かに漂い始めたペトリコールの香り、そしていつもより濃い雲の色。

 それは紛れもない雨の予兆だった。


 十二月中盤の今、世界を取り巻く気温は一桁台、時間帯によっては氷点下にさえ達すこともあった。

 だから降り注ぐ数多の水滴が白く染まる可能性だって否めず、アルミサッシに体重を預けていた黒鐘は、少しだけ表情を曇らせる。


 為すべきことも為せないまま本格的な冬を肌身に感じるのは、黒鐘にとってこの上なく酷なことだった。

 せめて初雪を拝む前に筋書きを完成させなければ、徒手空拳の状態で計画に臨むハメになってしまうかもしれない。


 恐らく幾許も無いうちに、彼女と邂逅するだろうから。


 彼の足元には、まるで何らかの意図があって敷き詰めたかのように、幾枚もの原稿用紙が散乱していた。

 目を凝らして見てみれば、彼の周囲だけでなく部屋中に用紙がバラまかれている。

 その用紙にはびっしりと文章が書かれているが、それを何者にも読ませんとするかのように、赤いインクで大きな×印が刻まれていた。


 その手稿を踏まないよう気を付けながら、彼は壁に取り付けられたスイッチを弾く。

 同時に天井の蛍光灯が温白色の光を放ち、奇怪で不思議な部屋の内部を明瞭に照らしていくのだった。


 部屋は図書館の一角に類似している。

 壁際には本棚が並べられ、その中には様々な種類の本が収納されていた。

 辞書、小説、漫画、絵本、地図帳、研究書、写真集、句歌集、会報誌、啓発書。

 ありとあらゆるジャンルが取り揃えられ、埃一つ被らずそこに居座っている。


 部屋の壁際には机が置かれ、その上には書きかけの原稿用紙と鉛筆、そして注釈を加えるための赤インクが並べられていた。

 それだけ見れば、この部屋の主は名の知れた文豪であり、その原稿は出版社に提出するための作品であると勘違いしてしまいがちだろう。


 しかしここに居着いているのは音楽家、筆で生計を立てる著作家ではない。


 黒鐘はベッド脇に掛けてあった着替えを引っ掴むと、気怠そうに召し替えし、それが終われば夕食を平らげ、いつものように家を飛び出していく。

 この一連の行動は彼がこの世界に来てから連日続けられているもので、もう何度繰り返したか、本人にさえ把握しきれない。


 彼は期待の色を顔に浮かべながら、街の中心部へと向かっていく――。





 空一面が黒く染まった頃、銀河鉄道は予定通りに走り出す。


 火煙を軌跡であるかようにプラットホームへ残しながら、銀河鉄道は緩やかに速度を上げ、色あせた線路上を前進していった。

 耳をつんざく汽笛はまるで産声のように、人々の心を鈍く揺さぶっていく。

 この街に住む誰しもがその門出を祝福し、讃美されるべきものであると信じていた。


 しかしそれが祝福されるものであると知っていても、発車を見送る者たちのほとんどが目尻に涙を溜め、隠しきれない嗚咽を漏らすばかり。

 親愛なる者との決別――例えいずれ再会できるとしても――それは酷く胸を痛ませ、悲しみの感情を増大させるのだから。


 その中でただ一人、黒鐘だけは決別の哀惜に囚われておらず、ただ冷淡な表情で銀河鉄道を見送っている。

 彼は二十歳をようやく過ぎたばかりの風貌で、まだその横顔には微かな幼さを宿しているが、その瞳はまるで、様々な出会いと別れを過去に置いてきた老君のように年季が入っていた。


 それもそのはず、彼は未だ齢二十二にも関わらず、壮絶極まる過去を置き去りにしてきたのだから。


 群衆の合間で赤銅色の髪が揺れる、黒鐘が踵を返したのだ。


 銀河鉄道を見送り終えた彼は、人々の間を縫うようにして別のホームへと向かっていく。

 時折すれ違う人に肩をぶつけてしまいながら――その度に軽く頭を下げ――この場を立ち去ろうとする。

 見送りは済んだ、次は本命、現世から来た鉄道を確認しなければ。


 その時、現世発鉄道ホームの降車口が何やら騒がしいことに気づいた黒鐘は、そちらの方へ視線を向けた。

 現世発の鉄道降車口には、市役所を彷彿とさせるようなオフィスカジュアルを着込んだ男たちが数名集まり、一様に困惑色を露わにしている。


 僅かな期待と好奇心を胸に抱きながら、黒鐘は彼らの元へ向かって歩いていく。


 どうやら彼らは一人の少女を囲んでいるようだ。

 その少女は日本顔だがブロンドの長髪で、真っ蒼な瞳を持つハーフの少女だった。

 年端も行かぬその若々しさからして、恐らく高校生ぐらいだろう。

 大の大人に囲まれているせいで萎縮しているのか、その瞳には不安げな色がくっきりと浮かんでいた。


 男たちは少女に幾つかの質問を――限りなく常識的な質問を行っていたが、何一つロクな返答が無い。

 質問の例を挙げれば「君の名前は?」「どこから来たの?」「この世界について把握していることは?」「君が禊ぐべき罪を教えてくれないか」「まずここへ来るための乗車券を見せてもらわないと……」などという問いが投げかけられているが、その全てにおいて、少女はただ首を横に振るだけだった。


 そして少女は絞り出たようなか細い声で、こう言う。


「……ここ、どこなんですか? なんで私、こんなところに……?」


 それは俺たちが聞きたいとでも言いたげな顔をして、男たちは顔を見合わせる。

 その少女が正規の手段でこの世界へ来たならばそんなことは把握していて当然なのだから。

 どうしたもんかと、男たちは腕組みをしてコントラファゴットのような低い声で唸り出す。


「盛り上がっているところ悪いが、少し俺の話を聞いてくれないか」


 その少女を庇うかの如く、黒鐘が彼らの間に割って入る。

 突如介入して来た黒鐘の顔を見て、男たちは少し驚いたような顔をした。


「黒鐘殿。……どうなさいました。よもや、この少女の素性を知っているのですか?」


「この少女は俺の妹でな、別段怪しい者ではない。突然こんな場所に来たせいか、どうにも頭の中が混乱しているみたいなんだ。だからそう取り囲んで訊くのは止してあげてくれ」


 取り繕うように言う黒鐘の背後では、件の少女が初耳とでも言いたげな表情を浮かべていたが、黒鐘の体が遮蔽物となって男たちには顔が窺えない。


 男たちはひそひそと何かを囁き合う。

 そんな彼らに怪しまれないよう、黒鐘は背後の少女に「今は話を合わせてくれよ」と小声で伝え、そして少女の頷きさえ確認せずに、男たちに向かって言い放つ。


「そう論を重ねる必要もないだろ。どうせ現世からの搭乗口で検閲は済んでいるし、ここでの最終チェックなんていつもお役所仕事だろう、今更現世と煉獄の違いに戸惑う少女一人だなんて相手にする必要もない」


「……まぁ、かの有名な黒鐘殿の身内であるというならば多少の不信感にも目を瞑りますが……大丈夫ですか」


「大丈夫大丈夫、彼女は我々の平和を脅かす存在じゃないよ。……大体、罪を贖うべきこの煉獄で狼藉を働こうものなら、即座に神罰が下って地獄行きだろ」


「その言通りであります。罪を絶対に犯せぬこの世界で、わざわざ貴殿の言葉を猜疑しているのは無駄というもの……。なれば少女の身柄を貴殿に預けます、この後のプロセスも全て貴殿に移管するということで――」


「ああ、この子は俺に任せてくれ。お勤めご苦労様、よいお年を!」


 男たちに向かって敬礼をしてから、黒鐘は少女の手を掴んで歩き出す。

 彼女は僅かに踏鞴を踏んだが転ぶことは無く、前を行く黒鐘の背を追っていった。


 右も左も分からない状況で初対面の男に手を引かれれば、怪しんで手を振りほどき、まずは把握できていないことを問い詰めるだろう。

 彼女がそうしないのは、今ここで事情を訊くより、厄介な役所人たちのいない場所で全ての事情を説明してもらったほうがいいと考えたからだ。


 さりとて彼女は黒鐘のことを信じているわけではない。

 彼の語る言葉を愚直に信じるという気はハナからなく、深く咀嚼してその正しき情報だけを洗い出す気でいる。

 しかしそれに用いる基礎情報の量は皆無に近く、今の彼女は――自分では正なる情報のみを嚥下しようと心に決めるも――正と偽の境目が把捉できない立ち位置にいた。


 黒鐘たちは銀河ステーションを抜け出て、大規模な広場へと出て行く。

 そこにはエカテリーナ宮殿で観光客を迎える黄金の噴水のレプリカがあり――いや、それは宮殿の噴水そのものだ。


 その周囲には明治時代の倫敦によくある赤煉瓦造りの建物と、白い漆喰を塗られた煉瓦の建物が並んでいる。

 その建物の前を馬車が我が物顔で通り、好奇心旺盛な子供たちがふざけ合いながらその尻を追いかけていく。


 傍を通りかがった馬の臭いに顔を顰める淑女は、江戸時代日本でよく使われていた和傘を片手に所持している。

 ざっと一瞥しただけでも、様々な国の、そして様々な時代の文化が入り混じっていることが理解できるだろう。


「何かこの街、変……」


 独り言のように少女は呟いた。

 返事を求めていたのか否かは判断できかねるが、黒鐘は深く考えずに返答を寄越す。


「あらゆる文化が共存する場所――それがこの場所、イーハトーヴだ。ここにいる人間は人種も国籍も宗教も故郷もてんでバラバラ、全てが全てごった混ぜなんだよ」


「……ここは一体……」



 常識も固定概念も、何もかもが現世とは異なる世界。

 そう、ここは煉獄。罪を背負って死した人間が往く、天国と地獄の境目にある死後の場所――。

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