46章 忌まわしき雨の日
「……全ての始まりは、あの忌まわしき雨の日だった」
遥か雲の上、雨が降る筈もない宇宙空間にいるのに、クロの耳にはあの日の雨音が聞こえていた。
それは慈悲も風情も何一つ感じられない、無機質で平坦な雨足だ。
雨粒がビニール傘へと降り注いで奏でられる、頭の芯を震わす鈍い音――それがどうしようもなく不快なものに思えた。
「俺は時折ハルの家で厄介になっていて、その日も、ハルの家に向かう予定になっていたんだ。だがその前に、ハルの父親から借りた本に挟まっていた研究資料を返す為、お前の親父さんの職場に向かっていた――」
その日、ハルの父親は自宅から数十キロ離れた地層周辺にいた。
彼の職業は大学教授、地質学について研究し、生徒に講義していたのだ。
その研究の一環で、彼はとある地層の調査していた。
今日は化学分析を行う為に標本を採取するだけで、特に何事も無く終わるだろうと彼はタカを括っていた。
案の定調査もすぐ終わり、他の調査員たちと機材を片付けながら、彼はこんなことを思っていただろう。
――片付け終えたら颯爽と家に帰って、久しぶりに家へ来訪した星冬とハル、二人と一緒に楽しく夕飯が食べられるはずだ、と。
しかし……その日、大雨によって近くの川が氾濫した。
濁流が渦巻き、凄まじい勢いで溢れだし、ハルの父親が調査していた地帯を水で覆い尽くしたのだ。
多くの調査員が流され、そのまま行方不明となった。
その水の勢いは並大抵のものではなく、巻き込まれれば生きて帰ることはほぼ不可能なほど強い。
その中でハルの父親は、近くの木にしがみつき、なんとか堪え切ろうと歯を食いしばっていた。
……だが、長く持つはずもない。
彼の全身からは力が抜け、もう他の調査員と同じ運命を辿りかけていた。
丁度その時、研究資料を返しに来たクロが災害現場を目撃した。
雨の中、傘を差した大人たちがパニックに陥り、その目の前では茶色く濁った水流が壮絶たる勢いで流れている。
それはまさにこの世の地獄絵図、悲鳴と助けを求める声が幾重にも響いていた。
足が竦む、歯が噛み合わない。
しかしクロは今すぐにでも逃げ出したいのを堪えながら、ハルの父親の姿を探す。
……しかし見つからない、どこにもいない。
胸の中で不安の種が発芽する。
まさか、もう既に流されてしまったのでは――。
『……!』
その時クロは目撃した。
木にしがみついて必死に生き延びようとするハルの父親を。
背負っていた荷物をその場に捨て、クロは無我夢中で走り出す。
策は無い、生き残るすべなんて見当たらない。
しかしこのまま見殺しにしてしまえば、父親を失ったハルの悲しむ顔を見ることになってしまう。
もう二度と彼女を泣かせたくない、ならやるしかない。
だが駆け出そうとしたクロの肩を大人たちが掴む。
傘を差した大人たちの姿が、やけに巨大なものであるかのように錯覚する。
『止めろ、行くな! 行けばお前も……!』
大人の力は想像以上に強く、前へ進もうと足掻いても、全然進めやしない。
その間にも川は命をもぎ取ろうと流れ続ける、クロの父親の余力が失われていき、一本一本、指が外れていく。
『うるせえ、……くそッ、放しやがれッ!』
一心不乱で両手を薙ぐ。
誰かを殴りつけ、蹴り上げ、畜生のように唸りながら前へと向かう。
この大人たちは自分の身を案じてくれているのかもしれない、しかし今は邪魔でしかない。
愛する人をみすみすと悲しませるくらいなら、この命を極限まで使い切りたいのだ。
そして、幾度もの抵抗の末、制止の手を振り切る。
よろめきながら奥地へと、轟音を立てながら流れる水へと駆けだす。
背後で大人たちが金切り声を上げているが、奔流によって掻き消されて聞こえない。
そして闇の先へ、木を掴みながら濁流の中へ。
その激甚たる流れに負けかけつつ、前へ、前へと進む。
常人ならば既に流されているようなこの激流で、このちっぽけな体に眠る全エネルギーを使い進んでいく。
何度も流されかけた、死にかけた。
それでも今自分はまだ生きていて、役目を果たしていく。
指を引っ掛けられる出っ張りを探しながら、しがみつくことのできる場所を手探りで求めながら、前へ、前へ。
そして、ハルの父親の服を掴んだ。
そのまま引っ張り、方向転換、元来た場所へ戻ろうとする。
――しかしハルの父親を掴んでいる片腕は使えない、たった一本の腕で、あの岸へと戻らなくてはならない。
クロはハルの父親を引き寄せ、抱え込んだ。
眦を決しながら岸へと進んでいく。
大量の水を顔に浴びた、水を飲んでしまって思い切り咳き込み、肺が爆発しそうだった。
もしかしたら吐瀉物を吐いたかもしれない、それすら自覚できずに、虚ろな目で前へ進む。
肺肝を砕き、耐え抜いた後には、きっとハルの笑顔が待っていると信じて。
手を伸ばす、ひたすら前に進む。
混濁した意識の中で様々な色の光が瞬いていた。
眼球の奥が燃えるように熱くなる、脳に強い痛みが走る。
減揺装置の付いていないこの身は流れに抗えず揺れまくり、今自分がどの方向を向いているのかさえ分からなくなる。
何度意識を失いかけただろう、どれほどの時間が経っただろう。
散光式警光灯が紅く視界を染めているのに、そのサイレン音は聞こえない。
気づけば全ての音が聞こえない。
恐らく激流の爆音によって耳が壊れてしまったのだろう、鼓膜が破れたような記憶が頭の中に揺らめいている。
『……! ……!』
聞こえはしないが、誰かが何かを叫んでいる気がした。
前を向いてみると、岸の方から誰かが手を伸ばしていた。
自分はもう川をほとんど戻り終え、後少しで岸に辿り着けるという所にいる。
言葉を返そうとした、しかし喉は潰れていた。
それでも何かを叫びながら、クロはハルの父親を――その服の袖を掴んだ手を前に伸ばす。
岸にいる人が確かにクロの父親を掴み、引っ張り上げていく。
ああ……と、安心したようにクロが息を吐いた。
これでもう役目は果たせたのだ。
岸にいる人が、クロの手を掴もうとする。
伸ばしていたその手を掴んで、ハルの父親と同じように救助しようとしたのだ。
しかしクロの体は力を失い、木を掴んでいた手は緩み、その体は勢いよく流れていく。
岸にいた人の手が空を切った。
クロは濁流の中で回転し、天と地の違いすら分からない世界で、何度も体をぶつけていく。
血が流れ、骨が折れ、内臓が拉げ潰れる。
痛みは少しも無かった。
冷たい水の中にいるはずなのに、体の奥底から温かさが生まれてくる。
胎児のように体を丸め、目を開けているのに黒く染まった視界の中で、ハルの笑顔を思い出していた。
――結局、言いたいことを何も言えないままだった。
この想いすら伝えられず、無情にも、死を以て別れてしまう。
ハルは自分を許してくれるだろうか、別れの言葉一つ無くこの世を去ってしまうことを、恨んだりしないだろうか。
そんな危惧を今わの際にして、今更後悔の念が浮かんでいく。
もう少しだけ力及べば、ハルの父親も自分も生き延び、今までの日常が続けられたのに。
またハルの笑顔を見ることが叶ったのに。
……しかし正直なところ、ハルの父親を助けられただけでも上出来だった。
何故ならクロの腕の腱はとうの昔にズタズタになっていて、本来ならばハルの父親を助けている途中で力を失っていたはずなのだから。
それでも彼は執念で、いや執念以上の何かで、為すべきことを為すことができた。
しかしそうであっても――そんな事実を知っていても尚、後悔し続けるだろう。
もう届かないと分かっていても、クロは口を開く。
泡を吐き出すだけで、音に成ることはできないが、せめてこの一言だけでもと願いながら……愛しき人に向けて言う。
『……』
さよなら。
クロの唇がそう告げ、……静かに閉じて、……もう二度と、開くことはなかった。




