45章 あの日の真実
クロがハルの手を強く握る。
わけが分からないまま、ハルも強く握り返した。
名状しがたい感情が込み上げ、頭の中に真っ黒な霜柱を作っていく。
何かを話し出そうとして、止まり、口を閉じ、クロは首を横に振った。
今言おうとしたことを一旦呑み込み、一番最初に言うべきことを言葉にする。
「……いや、まずはちゃんと自己紹介しておこうか。今の今まで騙し続けていたんだからな」
薄く、作ったような笑い顔を浮かべながら、クロは――彼は言う。
「俺の名前は黒鐘星冬。……そしてお前の名前は、ジョヴァンナ・ハルモニウスだ」
「ジョヴァンナ……」
ハルはその名を数度口に出し、反芻し、そして言葉を失う。
ジョヴァンナ、何度その名を耳にしたことか。
初めて出会った時から、クロはその名を持つ女性を追い続けていた。
それが自分、ハルモニア――いや、ハルモニウス。
「今までお前に名を隠していたこと、そしてお前の名を偽っていたこと。……深く謝罪する」
「そ、そうよ、どうして隠していたのよ。あたかもジョヴァンナが私と別人であるかのように振る舞って、私が星冬のことをおぼろげに思い出した時も言ってくれなくて! 現世で知り合いだったんなら、私に教えてくれてもよかったのに!」
「……別れが怖くて、言えなかったんだ」と、そう言うクロの手は微かに震えていた。
そして数秒の間を置いて、溜まり込んでいた感情を全て吐き出すかのように、「またお前と死別するのが怖くて、現世での俺たちと煉獄での俺たちは別人であることにしたんだよ」と囁くように語る。
「どういうこと……?」
クロが立ち上がり、ハルの真正面に立つ。
そして彼女の肩を掴んで、真剣な顔で告げる。
「いいか、ハル。後十数分もすれば、俺たちは永遠の別れを迎えることになる」
「え……?」
「もう二度と出会えないような、そんな決別だ。だけど騒がずに受け入れて、俺の話を――」
「そ、……そんなの、嫌ッ!」
理由も道理も何も分からない、クロが何を言っているのかも分からない。
それでもハルは反射的に叫んで、首を何度も横に振った。
クロの顔は真剣そのもの、まるで、そう、本当にこのまま永遠の別れを迎えてしまいそうだから。
そんなハルを見て、クロがくしゃりと顔を歪めた。今にでも涙を零してしまいそうなほどに。
ハルだって涙を失った泣き顔を浮かべて、そして、ただ想いを吐露する。
「なんにも……何にも分からないけど、クロと離れるのだけは絶対に嫌! 私は、ずっと、ずっとクロの傍に居たいもの!」
声を裏返しながら叫んで、彼女はクロの服を掴んだ。
クロは眸子を揺らして、強く歯噛みする。
「……そう言うと思ったから、お前に、俺の正体を明かしたくなかったんだよ……」
唸るようにそう言って、彼は自分の顔を両手で覆った。
「現世での俺たちをひた隠して、この煉獄で初めて出会ったかのような間柄を作ろうって……そう誓って、お前と出会ったのに。お前と深い関係になるつもりなんか、無かったのに……」
「そ、それ、どういうことよ……私と他人みたいな関係で終わらせる気だったって言うの!?」
「ああそうだよ! お前と親密になれば別れが惜しくなるから……現世での自分たちを知れば、絶対寄り添ってしまうから……だから他人として出会って終わりを迎えようって心に決めたんだ!」
泣き言みたいな声が響き、それを聞いたハルは薄々とクロの思惑を理解し始めていた。
「だから貴方は、自分が黒鐘星冬であることも、私がジョヴァンナ・ハルモニウスであることも、全部全部隠してきたの……?」
「ああ……他人として出会って他人として別れれば、きっと深い悲しみを覚えなくて済むと思って……単なる同居人って距離感を維持しようとして……でも、ハルが俺を――星冬という名を思い出してしまってから、歯車が噛み合わなくなったんだ」
刀折れ矢尽きたかのように情けない声を上げて、クロは己の拳を強く握る。
あの日、あの瞬間、クロの計画は全て画餅に帰してしまったのだ。
「現世での思い出、お前と過ごしてきた時間、そしてお前に寄せた気持ちが爆発して、自分を偽ることに辟易してしまったんだ……本当はお前との再会を喜びたくて、またお前とバカなことがしたくて、思う存分喧嘩したくて、そして、そして……」
ハルが星冬との思い出の欠片を思い出した後――自分の描いたシナリオと己の感情がぶつかり合い、クロが頭を抱える中、ハルは刻々と星冬の記憶を取り戻していた。
再びその姿に恋心を抱き、再会を望んでしまったのだ。
そして運命の日、繁華街へ出でた時。
ハルは不意に知ってしまった、クロの正体が星冬であると気づいてしまった。
そして星冬に向けていた好意が、クロに向けていた感情と合流して、……クロを愛するようになってしまったのだ。
クロもそれを拒めなかった、何故なら彼も、ハルを深く愛していたから。
「……最後の童話を完成させた日、俺は禁忌であることを、後に俺たちの涙となることを知りながら、お前の体を抱きしめ返してしまった。その結果がまさに今、この状況なんだよ」
今、二人は別れを惜しんで涙を堪えている。
それはクロが想定した最悪の結末、お互いの心を引き裂きかねない状況。
こんなに辛くて辛くて辛くて、胸が張り裂けそうな気持になってしまうなら、クロの言うように他人として過ごしていたほうがよかったのかもしれない。
だがもう戻れない。
何も知らない他人として生み出した『ハルモニア・プリオシン』は記憶の断片を知り、死んでしまった。
今ここにいるのは『ジョヴァンナ・ハルモニウス』、かつてクロの傍にいた、一人の女の子なのだ。
「……なあ、ハル。お願いだよ、……お願いだから、俺の話を聞いてくれ。もう時間がないんだ、お前に全てを語れないまま終わるのは嫌なんだ……」
窓から見える景色は、以前よりも素早く過ぎ去っている。
星々が春一番の如く機敏に走り去っていく。
宇宙の速度が上がっているのか――いや、逆なのだろう。
この銀河鉄道が速度を上げている。
銀河鉄道はこの先にある『何か』に向かって加速する一方だ。
あらん限りの力で前へと進み、やがて『何か』に辿り着いた時、きっと、クロの恐れる別れが来てしまう。
残された時間が短くないことは、何も知らないハルにだって理解できる。
クロが、宇宙が、万物が、終着に向かって進んでいるのだから。
終わらせたくないという願いは、絶対に叶えられない我が儘でしかない。
「……」
ハルは服の袖で目尻の涙を拭った。
動揺は隠しきれない、心臓が酷く痛んでいる。
喚いてクロに詰め寄って、先ほどの言葉が嘘であると口にしてほしかった。
しかしこのまま駄々を捏ねていれば、きっと何も知らないまま終わりを迎えるだろう。
迎える結果が同じなら、全てを理解してから迎えたい。
だからハルはもう、現実から逃げることを止めた。
「……うん、分かった。全部聞くわ、クロの語る物語を」
「ああ、……ありがとう」
再び席に座り、クロは深く思案した。
まず何から話すべきか、それを検討しているようだ。
数度何かを口にしかけ、しかし言葉にはならず、呻吟となって零れ落ちるばかり。
だがやがて言うべきことを纏め終え、クロは決意に満ちた表情でハルの顔を見る。
「……全ての始まりは、あの忌まわしき雨の日だった」




